16.認知的能力と非認知的能力の違いに就いて
ーマズローの欲求でいうと、生命欲求と安全欲求だけが必要だった時代から、今では承認欲求や社会的欲求も必要になった。すると、外界(環境、出来事、他人)との接着が高まり、それにより比較が始まり、評価が生まれたんですね。ここは、動物の中で人間だけが進化した部分。
この人間の進化した認知的な脳だけが働いていると、「マインドレス」な状態になります。つまり、自分の心が失われた状態。現代において、このマインドレスな人が急増しています。大手企業の本社やセレブな街に、そういった傾向がありますね。また、スマートフォンが登場して、四六時中これを意識することで、常に外界に支配されることになって、認知脳が疲弊している時代と言えますね。
意識が外側に向く脳の働きが認知脳ですが、我々の生活には、「環境」「出来事」「他人」という三大外界があります。これらを意識して、“何をしなきゃいけない”のかを考え、コミットし、結果のために実行していくのが認知的な脳の仕組みです。
一方で、非認知脳は意識が「自分」という内側に向く脳の働き。心情・感情の状態など目に見えない内側の部分。ここが整理されることで、“何をする”だけでなくその質が向上するのです。大切なのはこの認知脳と非認知脳のバランス。ー
イチローや那須川天心が持つ「非認知脳」のススメ、現代人はなぜ心が整わないのか (msn.com)より
尚前回の講義では『逢佛殺佛、逢祖殺祖ー理想像にとらわれすぎないー』と云う部分が現代人に取り特にハードルが高かった部分かと思われます。
無論のこと其れは宗教的な眞理を前提とする上での言葉ですので壱般人に分かり辛い言葉となることもまた当然のことです。
では其の理想像とは壱體誰が用意したものであるのかと問えば畢竟其れは社會が用意せし価値観です。
現代人の認識の上での實情はまさに上記の記事の内容に尽きて居ることかと思う。
つまりは其の承認欲求や社會的欲求がおそらくは最大限に肥大化して来て居ることだらう。
そんなところへイキナリ『逢佛殺佛、逢祖殺祖』と述べますとまさにコイツは頭がオカシイんとちゃうか?
となることが必定です。
だから其れは宗教詩人の頭がオカシイのでは決して無くむしろみんなの頭の中身の方がオカシイ訳です。
で、宗教詩人は其の現實としての現代人の認識上の不条理をこそむしろほんたうの言葉でもって世に訴えかけて居るだけなのだ。
さうか。
てっきりアノ尾張藩の変な詩人の頭が狂って居るのかとさう思うたが上のやうに脳科学的に述べて頂くと確かにさうなのかもしれないなとさう想えても来ます。
いや其れは君は僕がほんたうの文人であることを信じて居ないから必然としてさうなるのだ。
只我が文才を信じよ。
さすれば眞理への門は開かれることであらう。
…とても信じられません。
さうか、では君は此処に置きざりとし僕は僕で眞理の世界へと邁進して行くこととしてみやう。
つまるところもう君は無視する。
君はほんたうの詩人が説く眞理の言葉をさうして信じて居ないのだから其れもまた当然のことだ。
尚僕の見解では其の認知脳の飽和状態こそが「洗脳」状態であると云うこととなります。
対して自己と云う内側へ向き直る認識こそがまさに「気付き」や「目覚め」の為の心の働きです。
故に現代人に取りすでに認知能力が飽和状態だとすれば、必然的に其の非認知的認識が不可能とならざるを得ない。
イチローや那須川天心が持つ「非認知脳」のススメ、現代人はなぜ心が整わないのか | 識者に聞く「幸せな運動」のススメ | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)
こちらの記事の方がより細かく書かれて居るやうだ。
ー人間の進化した認知的な脳だけが働いていると、「マインドレス」な状態になります。つまり、自分の心が失われた状態。現代において、このマインドレスな人が急増しています。ーイチローや那須川天心が持つ「非認知脳」のススメ、現代人はなぜ心が整わないのか | 識者に聞く「幸せな運動」のススメ | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)より
冗談では無くまさに此れぞ恐ろしい洗脳状態でせう。
文人は其のことをまた別の言葉で述べますがまさか其れはウソを言って居るのではありません。
即ち今我我は価値観を現代社會に対し全的に放り投げて居ます。
かうして常に情報社會に於ける情報の洪水に晒されつつ其の価値ヒエラルキーを全面的に外的に依存し築き上げて居る。
特に日本人は其の度合いが酷いものかと思われる。
尤も日本人は確かに其れこそ幕藩体制の頃よりさうであったのだらう。
つまりは諸の御法度には逆らえず、また父母や目上の人の教えなり助言なども重視して来た。
勿論其れの全部が全部悪いと言うのでは無い。
ですが日本人の其の他者を大事にする性質がむしろ此の認知社會と上手く適合して仕舞い、其の結果より自分の意見を確立する方向性からは離れる、つまりは非認知的な創造性や眞理方面への認識力が極度に落ちて来て仕舞って居るのであらう。
故に今日本の學生は自分に自信が持てないのださうです。
だが僕などはむしろ其れとは真逆でありつまりは大いに自己の認識に自信を持って居る訳なのだ。
其の違いこそが認知的認識に留まるか其れとも非認知的認識の次元で世界を認識するかの違いなのでせう。
尚僕はまた哲學することがむしろ大好きです。
其れでもって哲學者の本も読めば自らの思考を基に哲學的な論理をも纏められる訳だ。
さうしてつまりは其れが自ら考えることが出来ると云う状態なのだ。
なので僕は其の思考に於いて自負なり矜持なりを持ちつまりは誇りを感じても居りよって自分に対し自信を最終的には持つのです。
まあ他の面ではダメ人間としてのオンパレードなのですがそちらの方向性でだけはかうして常に闘えるものを持って居る訳だ。
つまるところ僕が今置かれて居る精神状態とは社會の大多数が持ち得るであらう精神の方向性とはまるで眞逆の道です。
其れとこちらにはかのイチローの逸話が出て参ります。
ーその後のインタビューで、「僕はやっぱりもっていますね(笑)。さぁこの場面、イチロー選手が打席に入りました。この打席では、日本からの(注目の)目がもの凄いことになっている。そのことを実況中継しながら打席に入りました」と話していますね。ツーアウトで追い込まれた状況での打席ですが、客観的に自分のことを実況中継しながら見ている部分は、非認知脳的な働きになります。
他にもイチローさんは、丁寧に言葉を選択している印象です。これまで腹が立つような質問はいくつもされてきたでしょう。その都度、自分の心を保つためにどの言葉を選ぶべきか、慎重に考えて選ぶ姿勢が見られます。それを自己ツールと言います。
引退会見も印象的でしたよね。最後の言葉は、「もうお腹すいちゃいました」。これは、一見、外界への配慮がなさそうに見えますが、自分の気づきを言葉にしたもの。ー
イチローや那須川天心が持つ「非認知脳」のススメ、現代人はなぜ心が整わないのか | 識者に聞く「幸せな運動」のススメ | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)より
個人的にはイチローは金持ち過ぎて嫌いですが確かに何かを「持って居る」ことだけは確かでせう。
でも其の持って居るものは僕が持って居るものとはまた別物ですね。
重要なことは此の記事を書かれた作家・辻秀一氏が、イチローの認識を非認知脳的な働きであると述べて居られる部分です。
其の非認知的な認識こそが先にも述べたやうに哲學、宗教的な課題=眞理探究の分野と密接に繋がって居る事は我が経験値として是非述べて置きたい部分です。
ですが哲學であれ宗教であれ組織に埋没したやうなものの場合には其れが必ずしも非認知的な認識に繋がるものとはなり得ない。
要するに其の社會的関係に胡坐をかけば即其れは非認知的認識、非認知的経験値として成り立たなくなって仕舞う。
わたくしが社會関係に対し批判的なのはまさに其の己の外側での価値を最大限化することだらう認知的認識への警戒があるからなのだ。
其の認知的認識に捉われますと内面的に成就される自己探求に支障を来たし其ればかりかまさに内部論理的に「洗脳」をさえ引き起こすことでせう。
確かにオウム眞理教がやったことは所謂ー宗教的なー洗脳による社會への破壊行為でした。
でもわたくしに言わせれば現代社會もこと精神世界に至ってはまた同じやうなことを仕出かしても居るのです。
さても其の「マインドレス」な状態こそが恐怖で無くて何なのでせう?
故にわたくしはお化けや地獄の類はほんたうは怖くは無いのですが今後現代社會が陥るであらう人間にとっての精神の破壊のことだけはもう怖くてなりません。
『真実の自己に出逢うためには、自分を惑わせるもの、特に権威をもって自分に迫ってくるものは、たとえそれが仏や祖師、父母や親族であっても、徹底して否定しなければならないと臨済はいう。』ー禅語「仏を殺すという勢い」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト (rinnou.net)より
さてくどいやうですがまた前回での御話に戻ります。
上での脳科学的な解釈からすれば現代人は「マインドレス」な認知的認識ー社會的認識ーには今長けて居ます。
ですが其れは謂わば与えられし自己の像であり考えなので其処にはほんたうの意味での自己像や考えが見えなくなって居る状態です。
また其れが封建時代などに比し加速的にさう行われて来て居ると云うことです。
であるからこそ「マインドレス」となって仕舞う。
ですがほんたうに大事なものとは大金でもまたデカい家でも美人妻でも無く人間にとっての精神の自立性の筈です。
故にもしも今僕に対し、
「大金とデカい家と美人妻」をやるから是非早う其の宗教詩人、また哲學詩人としての看板を下ろしなされ。
とさう勧める大金持ちー或はもしや其れがイチローなのか?ーが出て来たにせよハナから僕はそんなもん要らん訳だ。
だから僕が欲しいのは其の宗教詩人、また哲學詩人としての看板だけなんだ!
僕が欲しいのは芥川賞でもH氏賞でも無くタダの其の無冠としての宗教詩人、また哲學詩人としての現在だけなのだ。
うーむ、ダメだな、コレは。
さても壱體何がダメなのだ?
いやコイツは文哲に対する洗脳度が酷過ぎてもはや助けられない。
コイツはもう文哲の従僕だから無視し且つ常に危険視して置くべきだ。
もうコイツは村八分にし且つ牢屋でもって死ぬる迄閉じ込めて置くべきだ。
其れもこんな壱思想犯として…。
『「おのれの得るところに軽んずることなかれ」ーあなたが持つものの本当の魅力に気づいてー』ー『1日1話 マンガでわかるブッダの教え』より學ぶ聖なる認識とは?ーより
其の「持って居る」と云うことの最大の部分こそが自己の力である。
佛陀は其の自己の力を否定したりしては決して居なかった。
むしろ誰もが其れを「持って居る」が故にこそ佛陀は「己と法とに従え」とさうお説きになられた。
其れをむしろ「持って居ない」者であるかのやうに社會的価値ヒエラルキーが人をして錯覚させて仕舞う訳だ。
だからわたくしは其の認知的認識ー社會的認識ーを制限して行かねばダメだとさう述べて居るのである。
但し誰しもがまたさうなのだが認知的認識ー社會的認識ーを完全に去るのはもはや不可能である。
まさに其れは我我個が眞我に目覚めて行くことの不可能さを同時に指し示す事實なのだ。
其れでも尚現代を生きる我我個が是非妄想して置くべきものとしての個の領域を其処に決して見失うべきでは無いことだらう。
さうか、
「持って居る」
かうして持って居るぞ、わーはっはっはっのはー。
いや君は持って無い。
可哀想だがまるで持って居ない。
持ってるのはあくまで僕の方だ。
かうして眞我を持って居るぞ、わーはっはっはっのはー。
「もうお腹すいちゃいました」
おお、流石はイチローの発言だ。
然しそんな金をしこたま持って居るイチローはいいなあ。
だから金があるから何でも言えちゃうんだな。
だがお前には其の眞我が、其の文哲人としてのタマシイがあるではないか?
嗚呼、さうだった、其のことをつい忘れて居りました。
どうも還暦を過ぎるとところどころで脳細胞が死滅して居るやうでつい先程述べて居たことをスッカリ忘れて仕舞うのですね。
しかも重要なことをも忘れて仕舞うのですね。
さても僕に其の非認知的認識力がある限り観念的に確かに我は打たれ強いのだとは言えやう。
尚、僕自身が其の認知的認識を極度に推し進めるであらうソーシャル・メディアなるものを否定して居るのはむしろ其れをすることで精神の自立性が破壊されるに及ぶからである。
さらにオンライン・ゲームの類もまた同時に否定するのはまさに其れをすることで精神の自立性が破壊されるに及ぶからである。
少なくとも僕に残された精神の時間に取り其れ等は有害ですらある。
対して文哲、また宗教の分野こそが其の残された精神の時間に取りあくまで有益なのでもまたある。