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我に取り永遠にカルトな場ー壱 三河の闇苅渓谷のことー

我に取り永遠にカルトな場ー壱 三河の闇苅渓谷のことー

 

 

 

 

ウドちゃんの旅してゴメン傑作選[字] - Gガイド.テレビ王国 (tvkingdom.jp)

 

本日午前中に此の番組をメーテレにて視た。

すると其処で番組の終わりの方で其のウドちゃんが闇苅渓谷 - Wikipediaを訪れて居たのである。

 

其の闇苅渓谷こそがあくまで自分に取っての秘境である。

だが三河の人人に取っては別に秘境でも何でも無くまさに良く知られた観光地でありキャンプ場である。

 

其の闇苅渓谷へはおそらく子供の頃には行ったことがある。

ところが其れ以來此処を訪れたことが無い。

 

水とみどりの森の駅|岡崎おでかけナビ - 岡崎市観光協会公式サイト (okazaki-kanko.jp)

動植物図鑑|くらがり渓谷|水とみどりの森の駅|岡崎おでかけナビ - 岡崎市観光協会公式サイト (okazaki-kanko.jp)

 

【旅行】くらがり渓谷*愛知県岡崎市*2019.8 - Bing video

 

かうして日本の各地の何処にでもありさうなちょっとした渓谷でもって別に「秘境」と言う程の処では無い。

ならば何故此処が我に取り秘境となったのか?

 

 

1.此の三ヶ根山 - Wikipedia方面は名古屋市からはほど遠く元元余り縁が無い

2.但し此の近辺には形原温泉 - Wikipediaがあり所謂紫陽花園が有名で其れを観に毎年訪れて居たことはかってあった。ー其れも参拾代初めの頃にー

3.其の闇苅渓谷には「プラナリア - Wikipedia」が居る。

 

さて高校壱年生の頃に我は「生物クラブ」を必須クラブ活動として選択して居た。

だが我我はすでに文系クラスだったので其の「生物クラブ」はたった参名しか居なかったのだった。

 

しかも我以外の弐人は「美術部」の奴等である。

其の「美術部」のISHIKUMAとTAKIGAWAは名古屋人である。

 

奴等は「生物クラブ」のクラブ活動目録の表紙に何と絵を描いて居た。

まあわたくしもまた文學のことばかりを考えて居るロクな者では無く従って其の「生物クラブ」とはほぼ「藝術倶楽部」だったのである。

 

でもって「生物クラブ」の研究テーマはやがて「プラナリアの再生能力」と云うことに決まったのだった。

其れは確か「生物I」の教科書に其のことが載って居たのであった。

 

 

其れではまず「プラナリア」を捕獲して來ねばならない。

其れは結局ISHIKUMA君が闇苅渓谷へ行き捕って來ることとなった。

 

で捕って来た。

よって其処にプラナリアが何匹か居る。

 

其れを徐に切断したりもまたする。

兎に角左様に切り刻み其の再生能力を調べ上げる。

 

 

くらがり渓谷のテレビ情報 | 切っても再生する?プラナリア 身近な場所で採取! | 所さんの目がテン!(2020/07/26(日)07:00) | TVでた蔵 (datazoo.jp)

放送内容|所さんの目がテン!|日本テレビ (ntv.co.jp)

 

プラナリアは結局どう切らうがまず再生する。

だが当時個人的には其の再生能力に強く関心は示せず要するに「下等なる動物」の持つ能力であるやうに思えて居た。

 

人間とはさうした下等動物とは違い例えば文學者としての大宰や芥川の如くに「人生其れ自體に就き思い悩む」謂わば實存的な存在なのだからして。

だがプラナリアちゃん自體はとても可愛く兎に角至極興味深い生物だった。

 

夏休みが終わるとTAKIGAWA君が警察に捕まった件でもって担任の数学教師Iから虐められ結局退学する羽目となった。

彼は同じ瑞穂区の高級住宅街の出の子で所謂「良いところの御坊っちゃん」だった。

 

彼の家へ遊びに行くとまるで蓼科や軽井沢の別荘の如き家で其れはなかなか名古屋では見つからぬ兎に角瀟洒な家であった。

また彼は何度も家へ遊びに來たりもして居たものだった。

 

そんな訳で其の「生物クラブ」の研究の方もメンバーが弐人だけになりしかも我は文人だからまるで手が動かない。

おまけに友達のTAKIGAWAが学校から消えたことがショックでもうどんな文も書けぬ状態にある。

 

其れでもって結局ISHIKUMA君が孤軍奮闘し研究成果を纏め上げた。

ちなみに壱度其のISHIKUMAが描いた繪を観たことがあったが其処からは「繪の才能の何たるか」と云うことを強く知らされたものだった。

 

 

さて其の「プラナリア」とはまるで関係無い話ながら其れから約廿年後に父の🚙がとある🚙に追突されたが其のドライヴァーが何とTAKIGAWA君の父親だったさうだ。

TAKIGAWAは其の後どうなったのか知らないが兄弟には名市大🏥の医師なども居り立派な家柄の人だったのでおそらくは苦労を重ねることとなったのだらう。

 

まるで別荘の如き其のTAKIGAWA君の御宅は廿年程前に取り壊されて仕舞う。

今でも覚えて居るのは弐階の窓から彼が身を乗り出しデカい女郎蜘蛛を撫でたりして居たことである。

 

何でまたそんな変なことばかりが起こるのかまるで分からない。

曰く、人生不可解。

 

自分は其の後より文學としての悩みを深め岩波書店の『芥川 龍之介全集』を求め以降其れを愛読して行くこととなる。

当時は父が勤める役所の関係で書籍などが買えたのでまさに其れを頼んだのである。

 

 

"再生医療の鍵ともなるプラナリアの再生の秘密"8/9 所さんの目がテン!「切っても死なないプラナリアの神秘に迫る!」 - 教養ドキュメントファンクラブ (ksagi.work)

 

尚こちらのブログには其の「プラナリア」の再生能力に就いての詳細な記述がある。

だけれども基本文人の我はほぼ其の「再生能力」に就いて興味が無い。

 

むしろ自分に取って興味のあるのは其の「過去となりし記憶」のことである。

其れも其のISHIKUMA君やTAKIGAWA君が其の後どうなったと云うことでは無くそんな不可思議で且つ不穏な空気に包まれて居たかの昭和の時代のことがまるでつい先ほどであったことのやうに思い返されたりもすることだ。

 

そんな遠い過去の出来事が特に還暦以降はむしろ近しい現實の如くに蘇って來たりもまたするのである。

 

さて「プラナリア」の再生能力はやがて「科学的」にも再現出来るやうになるのであらう。

だが最も大事なこととは、其のまさに万能的な「再生能力」が眞の意味で現存在に取り必要なのかどうかと云うことだ。

 

我は其れを「不要」な力として捉えて居る。

其れも其の「プラナリア」の再生能力を調べた高校時代より「不要」だとさう思って居た訳だ。

 

何故なら其の「プラナリア」は人間と違い如何にも「下等」な生命だったのだから。

其の「下等」さに見合った能力として彼等は其の万能的な「再生能力」を持って居る。

 

だったら何でまた人間様が其れを眞似する必要があるのだらうか?

どだいTAKIGAWA君が高校を去ったことなどの方が余程に納得のいかない所謂社會的に矛盾した現象だった。

 

つまるところ其の頃より我が悩みの内容の全ては現存在自身の矛盾的認識ー矛盾的価値観ーへと向けられて行くこととなるのである。

 

 

凄すぎて、もはや怖い。謎の生物「プラナリア」の最強伝説とは? | せつない動物図鑑 | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)

 

かうして科学の目は結局物事を「合理化」して捉えて行く。

だから科学技術文明に於ける全てがより「合理化」された方向へとなだれ込んで行く。

 

されど其の「合理化」其れ自體に文人の我は今大きく疑問を持つ。

 

プラナリアというのは、ウズムシ類に属する動物の総称。昆虫の幼虫などを食べますが、肛門はありません。うんこは口から吐き出します。ー以上より

 

此のプラナリア」にはそも肛門が無くさうして💩を口から出すのである。

物好きなアンタもしや其れを壱編やってみますか?

 

いずれにせよ「自然」は確かに「神」の如きものだが其の「神」と人間とは違い何故なら人間は口から💩をしたりはまさかせぬものです。

要するに口から💩をするやうな下等な生き物だからそんな万能的「再生能力」をもまた同時に持つのである。

 

下等?

では🐕や🐈もまた🐗や🐅や他の獣達も皆下等なのですか?

 

いや其れ等は少なくとも「人間」では無い。

では逆に問う、さても其の「人間」とは何か?

 

其の問いに對する僕の答えは、

「人間とは分を弁える」者との謂いである。

 

つまり「分を弁えぬ者」はまさか人間じゃない。

じゃあアンタの周りは全部が其の人間じゃない奴等ばかりなので?

 

さうは言ってません。

只文明社會はまさか「人間じゃない」とさう言っただけのことです。

 

 

其の「人間じゃない」文明の価値観が暴走するともうロクなことにはならん。

第壱其のうちに人間から肛門を無くし口から💩を垂れるそんな人ばかりになるのやもしれません。

 

 

山奥の滝壺でプラナリアを大量捕獲!!!## - YouTube

 

さても何処でこんなにプラナリアが捕れたのだ?

でもって其の澤山のプラナリアをどうするのだ?

 

まさか食うのか?

 

プラナリアの再生実験 (sakura.ne.jp)

 

尚其の「下等な」動物程概して滅多矢鱈に増えるものです。

まさにさうした部分こそが生命體としての基本原則です。

 

ですが其処でもってよーく考えてみませう。

ひょっとしてひょっとすれば人間もまた滅多矢鱈に増えて居ないでせうか?

 

其のことをもう誰も言いませんが事實其の人間が滅多矢鱈に増えて居ます。

人間が滅多矢鱈に増えることと其の「下等な」プラナリアが滅多矢鱈に増えることとは例え生物學的には同じ現象であるにせよ哲學的にはまるで違う現象です。

 

即ち、

 

プラナリアが滅多矢鱈に増えること<人間が滅多矢鱈に増えること

 

となり其れは何を表すのかと申せばズバリ「リスクの増大」をこそ意味して居る。

つまるところ現代文明はまさに其のハイリスクな部分を自ら生み出しつつある=まるで分を弁えて居ない、のです。

 

分を弁えることとは「理性的」であるか無いかと云うことです。

「理性的」で無いからこそかうして何でも滅多矢鱈に増やして挙句に立ち行かなくなり自爆するのがすでに目に見えた形での文明としての末路でせう。

 

そんな訳で「プラナリア」が居る其の闇苅渓谷こそがまさに我に取り永遠にカルトな場ともまたなり得るのです。