「眞の意味での知的エリート」とは?ーオルテガの思想より考える眞の意味での知識人としてのあり方ー
《訃報》C-C-B笠浩二さんが逝去『Romanticが止まらない』で一世を風靡、近年「移動は車椅子だった」 (msn.com)
かうして還暦でもって死んだにせよ其れはおかしなことでも何でも無い。
むしろ人間は80迄生きるものとしてさう決め付ける先進國の常識の方こそが如何にも不自然なのだ。
月刊・死ぬまでに読みたい世界の名著 (38news.jp)ー「大衆の反逆」を藤井先生が解説ー
さて自分に取りかって社會科学の分野の空恐ろしさを伝えて呉れたのがまさに其の『大衆の反逆 - Wikipedia』と云う著作に於ける哲學的概念だった。
ーオルテガは大衆とそれを構成する大衆人の両方に対して本書を通してきわめて批判的で、「高貴な生と下等な生」を対比し、彼が大衆人の中に見出した野蛮性と原始性を非難している。
また、近代化に伴い新たにエリート層として台頭し始めた専門家層、とくに「科学者」に対しても「近代の原始人、近代の野蛮人」と激しい批判を加えている。
これは、彼がエリートと非エリートの区別を、その社会関係ではなく内面的、精神的な態度に求めていたことに関係がある。ー大衆の反逆 - Wikipediaより
尚其の「高貴な生と下等な生」との対比の部分はまさに今時流行らぬ考えかと思われますが、其れは確かに壱面では世の様の實相を語って居るのだと思う。
また正直申して自分は世間つまりは周囲の価値観に對し幻滅と言うか絶望と言うかそんなものをむしろ若い頃より抱き続けて来て居り要するに「何でこんなに世の中はバカなのか?」
とさうずっと思い続けて來ても居ました。
即ち我が國の文學者には限らずたとえ自殺したり気が狂ったにしたにせよ文學者の意思決定にはまず同調出来るが其の大衆の意思決定に對し元元自分は大きく違和感を感じて居たものだった。
まさに其のことが「みんなでもって御遊戯が出来るか否か?」と云う問題なのでもまたあった。
でもって結局自分には其れが出来ませんのです。
出来ませんが逆に「独りでの遊び」の方がむしろ大得意ですので特に女と別れた40歳以降はソチラの方の力ばかりをかうして磨いて参りました。
ですのでそも基本的にわたくしは其の「大衆社會としての民主主義體制」に對し懐疑的なのです。
では壱體どーすれば良いのかと言えば民主性も何も其れ以前に統治組織を小さくし大昔の原始共産制社會のやうなものをあえて創れば近代社會の齎す諸矛盾其れも特大としての矛盾の数数よりスッカリ解放される筈です。
またさう云うのが社會體制としての抜本的改革ー抜本的変化ーでありほぼ唯壱としての人類に取っての社會存続への鍵であるとさう考えて来ても居た。
要するに現代社會はむしろ其の種の大きな社會的変革の波を起こさないともはや根本的には直りゃあせぬ。
まさに其の「民主制の持続」こそが逆に社會のあり方を窮地に陥れて行って居る可能性が高くある。
いや民主制であれ専制政治であれ何でも良いのですが、まさに其のことを國単位での価値観がぶつかり合う場つまりはごくデカい場にて行って仕舞うこと自體が其の社會単位での矛盾の拡大へと即繋がって行く。
まずは壱つにはさうした意味での國家體制の上での不備乃至は誤りがあり其れは即近現代による「人間及び社會の拡張主義」と呼応するものでせう。
なので其れこそ本質的にはもはや何をやったにせよ小手先の改革では諸矛盾としての大問題は解決不能とならざるを得ぬ。
ですからまずは其処まで社會科の上での御勉強の方を進めた上で其処にてようやく宗教だの藝術だのと云う他の文化領域の大事さが見えて参ります。
なのですがまさに其れも御勉強を進めてこそ初めてさう認識されて來ることなのです。
でも残念ながら大衆の方方でもって其処迄御勉強される方などはまずいらっしゃらない。
要するにそんなものが好きなアホはまずどっこにもおりゃあせんがやと云うことだ。
だから結局僕は其のアホである可能性が高く御座りますのです。
なんだけれども、其のオルテガの哲學を自ら學ぶ位に徹底的にむしろ御勉強しませんと要するに其れは御勉強したことにはまさかならんのです。
なのでそも御勉強の方向性がズバリ大衆の方方の場合にはズレて居りますのです。
要するに實利的なものよりも此の種の哲學的な考えの方に交わりませんと現代社會の抱える矛盾の正體を見極めることにはまさか繋がらない。
よってあくまで自分の場合には細かな政策上の誤りを指摘することよりも要するに政治哲學的にまた人類史の方をも踏まえた上で社會科と云うものをそも考えて来て居ります。
また其れこそ其処には宗教だの藝術だのと云う心的領域としての考えなども是非盛り込んで置くべきなのだらう。
要するに理数系の学問分野が所謂数式だの化学式だので繋がって居るやうに人文學や社會科学はまさに「文系」と云う括りにて皆繋がって居りませう。
またオルテガの考えでは其の知的な意味でのエリートと非エリートの区別もまた壱般的な分け方からは離れて居ます。
つまりは其れが「社会関係ではなく内面的、精神的な態度に求め」られるものですので例えば學者であればまた宗教家であればさらに藝術家であればエリートだと言えるのかと言えば其れはさうでは無い。
要するに學者バカ、宗教バカ、さらに藝術バカは最終的には其の大衆其のものとならざるを得ない。
まあ其の京大の藤井先生も例えば中野先生などから猛烈に批判されて居る訳ですがでも個人的には彼は単なる學者バカなのでは無いのだと思う。
ズバリ申せば眞の意味での知的なエリートとは「自立的で且つ自律的な思考」を常に志しさらに融通無碍に「他分野」をも見通すことの出来る観念的な能力の持ち主のことをこそ言う。
逆に幾ら頭が良くとも所謂御用學者の類ではまさに此の現代社會が提示するところでの大矛盾であり大問題であるところでの社會的課題に對し有効な批判力を持ち得ません。
其の知的エリート即ち「精神の貴族」のタイプの方方はおそらくごく少ないことだらうが此の世に居られるのだと思う。
自分で自分もまた其の中の壱人かとさう思うが其れも本質的には決して其のことを威張っては居らずむしろ「イヤだなあ」とさう思うことさえもが度度ありましたものです。
尚「もしや自分は頭が良いのかな?」とさう思い始めたのがわたくしの場合は實は50歳位からでした。
ですが其の「頭の良い分」どうも責任を持たねばならぬやうになって居り其れでもって人生其れ自體が「御勉強の塊」化するので確かに其れがイヤにもなり易い訳です。
なんですがそも「世俗の欲する低俗な遊び」にはほぼ興味が無い迄にかうして知的に洗練されて来ても居ります。
イザさうなればもはや還るところは御勉強の中より他には御座りませんのです。
まあ其れもまた因果なもので其のやうなものがまさに「観念地獄」みたいなものですがでも其れがイヤばかりなのでは無くむしろ七、八割方は面白くさえ感ぜられるものだ。
最終的には其の大衆的な意思決定による政治の流れからまさに「寡頭制 - Wikipedia」中でも「寡頭共和制」への移行と云うことが壱つの體制上のより望ましい流れとして考えられるのやもしれません。
また其の「寡頭共和制」にて意思決定をリードするエリートは「眞の意味でのエリート」でなくてはならず所謂「嘘コキエリート」の類であってはなりません。
尤も其の「眞の意味でのエリート」はおそらく悲観的な考えの持ち主となることでせう。
其れはまさに釈迦やキリスト並みに悲観主義だと云うことです。
其の正教としての佛やまた救世主は邪教の教祖の如くに「此の世にて壱旗あげやう」などとはまさか考えてなど居られない。
では無くてむしろ純粋無垢に「人類を救う」ことだけを考えて居られる。
ですが邪教の教祖は其の救う範囲がまた物凄く狭くもなる。
要するに自分の範囲の者だけに良い思いをさせ且つ其れだけを救おうとして御座る。
だからそんなもんは所詮邪教であらう。
御釈迦様もまたイエス様ももう御自分の👨👧👧のことなんぞはまるで考えては居られなんだ。
なのに自分の範囲だけが救われると其の邪教の教祖は其ればかりを願って御座る。
たった今邪教の教祖共は地獄へと堕ちよ!!!!!!!!
ああーそんな嘘コキ宗教はイヤだ…。
其の邪教の教祖をたった今全否定し御勉強の日日へと戻るのだ!
ああああああ、此処は何処だ、わたくしは壱體誰だ?
ついに目覚めたか。
良かったなあ、そんな邪教から無事に抜け出せて。
いいえまさか無事ではありません。
かうして心に深手を負いしかも心の地獄を彷徨って居ます。
さうか、其れは如何にも可哀さうだ。
では汝は今後其処にて何を望むのか?
はい、わたくしめはもはや何も望んでは居ない。
望むものは只壱つでまさに其れが此の地球の再生です。
さうか、其れは偉い!!兎に角偉いぞ!!!
ならば是非君には「眞のエリート」としての称号を授けやう。
其れは「自称詩人」と云う肩書のことでしかも原稿料の方がゼロ円なのだ。
あれ、たった今居眠りから目覚めたがヤッパリさうだったのだな。
ヤッパリ僕はかうして世界に選ばれて居て神とさうして佛の言葉をこそ皆に伝えねばならなんだのだ。
さても自称の詩人さん、御體の調子の方は如何で?
まあ危機は脱したことでせう。
でも壱つ問題がありまさに其れが此の寒さです。
ひょっとするとまた灯油代をケチりストーヴを点けて居ませんね?
また良くぞ其れが分かりましたね。
いや此の寒さと精神上の苦悩はしかしながら良く似て居ます。
共にかう何と申すか明らかにキツイです。
でも其れも自分でもってさう選択しやってることでせう。
其の通りです。
其れもかう何か苦行のやうなことがしたくなりおそらくは年末まで此れを続ける積もりです。
アンタでも體を壊すよ。
いいえさうではありません。
其れにイエス様が味あわれた刑の執行による肉體の苦痛、また御釈迦様が體験された断食での苦しみなどと比ぶればこんなもんはまさに屁でも無い!
さうか、さうして全人類の為に自称の詩人様はたった今苦行に入られたのか。
いえ來週からは是非ストーヴに火を点けんとおそらくはまた體を壊しませう。
其の大衆社會に對する壱つの否定的な見方は特に今後の現代社會に取り大事な視点となることかと思われる。
なのではあれ其のことはあくまで社會が方向性として選択すべきことなのではある。
だけれども我我個に對しては常に壱つの課題が突き付けられて居るとも考えられやう。
其の課題とは何でも良いから「御勉強」する時間をなるべく増やして行くことである。
其の御勉強は「読書」することには限らずネットや對人関係などからもして行くことが可能である。
また例えば動植物から學ぶことさえもが可能である。
其のやうに現存在と云う實存に取り常に可能なのは其の「學ぶこと」だけだ。
また其の「學ぶ」と云う姿勢の中にこそ「眞の意味での知的エリート」としての資質がしかと認められやう筈である。