目覚めよ!

文明批判と心の探求と

伝教大師最澄の願文より學ぶーさうして延暦寺は静かな山の中にあるまるで別天地のやうな御寺だー

86.伝教大師最澄の願文より學ぶーさうして延暦寺は静かな山の中にあるまるで別天地のやうな御寺だー

 

 

 

 

さて其れでは認識上物事をどう捉えて行くべきなのかと云うことに就き再度述べます。

 

1.ヒエラルキー認識の解體

2.眞我ー直観的認識=般若智ーによる価値の再構築

3.理性への正しい解釈

 

と大體此の参点がしかと出来れば現存在の認識としてはまさに横綱級ープレジデント・クラスーでせう。

 

でもって1.と2.と3.の過程を纏めると其れがまさに「個的脱構築」での精神的な流れとなります。

 

また此の精神の上での変容の流れは所謂佛教に於ける修行やまたジャイナ教による苦行の流れにも通ずるものだ。

 

 

4.理性⇔獣性

そも人間の理性は不完全なるもので其処はかのカントが述べた如くにあくまで限定的なものです。

例えば神は實在しますが現存在は其の神を直接把握は出来ぬ訳だ。

 

また佛も實在することでせうが其れを現存在が概念的に把握することは出来ません。

人間は其のやうに常に不完全であり悩み苦しみに惑い聖なる心の段階より隔てられたところでの単なる現象でしか無い。

 

つまりは其れを偉いなどと思っては最初からイケません。

ところが近代的原理は其の人間共をあえて持ち上げて行った訳だ。

 

要するに人間は神の僕として此の世を統べる者である、などとまた勘違いをして仕舞いました。

よって現存在に取っての現代の不幸とは近代思想に元元含まれて居た誤謬の部分が肥大化し其れが自然ー環境ーと根本対立を引き起こしたこと=人間の根本矛盾=人間と云う自己矛盾と云うことに尽きて居ます。

 

 

では何だ、さうして人間其れ自體が何ぞ悪いものだとでも言うのか?とさうして血相を変えて皆は怒りますがあくまで其れが眞相の部分なのであり其れは分かって無いのはアナタ方が社會に洗脳されて居るからなのですよとさう實に嫌らしくも詩人はほんたうのことを述べて仕舞いました。

 

そんなんの壱體何処が詩人か!

だってかうしてあくまで理性的詩人なのですもの…。

 

 

さて其の獣性を眞近に見れば見る程に所謂獣には理性は無いと云うことが實感されて参ります。

即ち家に居る🐈共は所詮は獣です。

 

だから平気で道路へ飛び出したりも致します。

其れもトラックが走って居ると云うのに。

 

やられたと思いましたが車輪の間を通り抜けどうやら助かったやうだ。

 

勿論其れを見て居る我が視座はほぼ獣に取っての神の視座です。

其の神は獣の誤りを逐壱正すことは出来るが他方で此の神の如き人間の誤りを正すことは出来ない。

 

何故なら其の人間自身が自己矛盾的存在であるに過ぎぬ生命なのであるから。

尚わたくし自身に取り常に周りの認識に対し欠けて居るとさう判断されるのが其の人間自身に対する懐疑の眼差しです。

 

だけれども幸か不幸か詩人には其の眼差しがむしろ強くある。

何が違うのかと言えばまさに其の点での認識の違いがある。

 

 

尚お釈迦様は最終的に人間はやってはイケナイものだとさう判断なされた訳です。

 

ところが世間の宗教者やまた中には僧侶ですら其のことがまるで分かって居ない人人が居られます。

特に世俗レヴェルでは「お釈迦様の教えは人間の役に立つ」筈だとさう信仰などされても居るやうです。

 

でもお釈迦様の説かれた「解脱の方法」とはそも其の人間であることを辞めんが為の教えなのです。

 

またイエス様の場合でも其の侭に人間をやって居ては金輪際ダメだとさう判断され神の國へと入る為の教えをさうして説かれて行ったのです。

では果たして其処では何が悪い即ち悪の対象として考えられるものなのだらうか?

 

ズバリ其れが人間です。

其の人間がそも悪なので其れを辞めよ、又は其の邪なる信仰を止めよとさう佛陀とキリストは御説きになられました。ー互いに相手が邪教となることもまたあり得ますがあくまでさうして共に同じことを述べられたのだー

 

 

まずは其の御弐方の視座こそが「完全なる正答」其のものです。

だからどうのかうのでは無くズバリと人間が全て悪いんです。

 

もうズバリと馬鹿野郎でありクソ垂れでありもう即刻食われよ此のアホ共めが…。

 

…てなものでせう。

 

でもさうして現存在自身に対し罵倒して頂けること程嬉しい教導は他に御座りません。

 

人間共はまさに其処にひれ伏し只只神佛に対し頭を垂れ続けねばならぬ。

でもって詩人の仕事とは特に宗教詩人の仕事とは其の聖なる認識の所在を明らかにし其れに対し如何に己が心を向けて来て居るかと云う事を周囲に対し告白することだ。

 

なる程、だからアナタはかうして人間界に対し常にもの申されて来て居るのですね。

さうです、ですがわたくしの述べて居ることは其の聖なる認識其のもののことには非ず。

 

 

只其の狭き門、不滅の法門へと至らんが為の其の精神の方向性、精神のあり方をのみ述べて来て居るだけのことです。

 

さてより正確にはお釈迦様の場合には其の善悪規定にて人間を判断される訳ではあくまで無い。

其れも禅宗や原始佛法などではそも其の善悪規定其のものを脱論理化、脱概念化し謂わば精神として乗り越えて行く訳だらう。

 

されど其れ以外の多くの宗教は其れもキリスト教イスラーム教などの壱神教等に於いても人間の行為をあえて善悪規定し其処で宗教や宗派に応じた謂わば勧善懲悪の世界観をつくり上げて行く訳です。

ですが禅宗や原始佛法からすればまた其れも概念化、分別化の檻に捉われし善悪となるが故に其処はまた認められぬと言えば認められ得ぬこととなる。

 

左様に禅宗や原始佛法はあくまで観念的には常により潔癖です。

尤も自分の宗教や宗派の考え方に囚われて居るー洗脳されて居るー人人からすればむしろ其れを悪く言うことなどもまたある訳ですが…。ー曰く、禅宗は金がかかるよ、釈迦の教えはあくまで方便だよ、などと。ー

 

さて問題は其の聖なる認識の中での軋轢や葛藤では無く現代人としての現存在に「精神としての潔癖さ」が欠けて仕舞って居ることなのでせう。

さう言うとまた誰かに怒られさうですが其れは事實としてさうでせう。

 

 

逆に申せばそんな「精神としての潔癖さ」が弱まった世界であるからこそ其の現存在が本質として持つ悪の部分がより活性化されかうして日日噴出して来る訳だ。

 

ではアナタだけは違うのだと?

まさかさうは言ってませんのですよ。

 

だけれども僕はかうして半分が其の聖なる心の持ち主ですのでまさに其のケモノが暴れ出して居る様がしかと見えるのです。

また所謂共感覚の世界の話ですか。

 

また所謂藝術的感性の発揮の御話ですか。

さうですよ、其れで壱體何が悪いと仰るのか?

 

いや悪くは無いですが只此の話は面白く無い。

いやだから其の面白く無いと云う心其のものがまるで面白く無い心である。

 

では例えば君に取り何が面白いのだ?

いやあ、ですから其れは酒飲んだりネエチャンの尻を撫でたり競輪、競馬でもって大勝ちすることこそが…。

 

また分厚いビフテキにかうしてかぶりつくことなどが…。

其れもガブリ!と。

 

 

まあ何だか知らぬが趣味が違うよ、まるで趣味が。

 

君には精神の悩みと云うことがそも理解されて居らぬのか?

さうですね、こんなボンクラ野郎ですのでそんなややこしい精神の上でのデリカシーの話などはもう願い下げだな。

 

すると君には其の精神の上でのデリカシーが元元欠けて居るの?

さうなんだ、だから僕はそんな純文學だの哲學だの宗教だのとは無縁にかうしていつも元気なのだ、どうだ、分かったか、此の気鬱詩人めが!

 

 

うーむ、其れも確かに壱理ある。

そもかうして詩人の人生は純文學と哲學と宗教だけのまさに精神だけの世界であった。

 

だがケモノである彼の其の心はこんな気鬱詩人よりも明らかに元気なのだ。

うーむ、さうすると矢張りと言うべきかかの芥川 龍之介の場合などもまた其の生活力の構築に失敗しああして早う世を去ったのではないか。

 

おお其のケモノ臭い世間の者共の心の有様よ!!

 

 

ちなみに以前から感じられたことなのだったが、奥三河の山の中で壱日石採りをし名古屋へ帰るともはや其の空気が臭くて仕方が無いのだった。

要するにそんなゴミ臭が都市全體を覆って居るのである。

 

特に感覚的にピユアーな部分を持つわたくしには其のことがまた強く感ぜられたのだらう。

 

 

さて先週の土曜に『「12年 孤独に自分と向き合って〜比叡山 籠山行〜」 - こころの時代〜宗教・人生〜 - NHK』と云う番組を視て先に此処で我が比叡山の佛法の根本での部分を批判的に見詰めたことに対し考え込んで居た。

但し其の批判部は撤回しないこととあえてしてみた。

 

兎に角さうして我は最澄が好きであり且つ尊敬してさえも居る。

だけれども其の好きなのと思想的に納得し得るかと云うこととはまた別の話である。

 

但し其れもまた思想以前に其の比叡山での修行はかうして尊い訳だ。

勿論其れはかの永平寺での修行が尊いことと同じくしてあくまで其れは尊いのだ。

 

其の「拾弐年籠山行」が終わるとまた色色と世間での感覚とは違うことが引き起こされるさうである。

 

 

―ひとつの境地を極められていたように感じますね。達成した人はどれくらいいるのでしょうか。

宮本:私で116人目でしたが、達成者はもっと少ないです。7~8割はギブアップというか、亡くなられていたり、中には姿が見えなくなったりという方もいらしたようです。修行中の食事は1000キロカロリー程度ですし、栄養不足になってしまうことも。ただ、体が順応して、それで生きていけるようになります。舌が敏感になって、野菜のおいしさ、米のうまみといった自然の味わいを感じるようになることも驚きました。

―確か、成人女性で1日に1800キロカロリーは必要だったと記憶しています。俗世の人間には計り知れません。宮本住職は見事達成されましたが、下山の時はどんな感覚でしたか。

宮本:侍真職は、次の人と交代しないといけない修行のため、私も渡部住職がいらしたから、2009(平成21)年に下山しました。BS放送がない時代から、いきなり4Kの世界になり、携帯電話はスマートフォンとなっていた。また、徒歩以外で移動したことが12年ありませんから、車のスピードに慣れず、目が回りました。

―タイムスリップのようですね。

宮本:人と会話もしないので、コミュニケーションも取れなくて……。籠山行中は、浄土院の本堂で、御廟に訪れる方の会話を漏れ聞く程度です。自分の思うことを言葉にすることが難しかったですね。そうそう、トイレの使い方がわかりませんでした(笑)

―12年経てば凄まじい進化をしますものね。他に驚かれたことはありますか?

宮本:どこもニンニクくさく感じましたね。匂いがきつい。テレビもラジオもネットも週刊誌もないので、情報の多さに驚きました。東京でのオリンピック開催が決まっていたことも知りませんでしたよ。

 

―本当にタイムスリップ……!十二年籠山行を通じて、強く感じられたことを教えてください。

宮本:生かされている、という実感ですね。毎日淡々と過ごしていますが、ずっと自分を見つめています。そして、死が身近なぶん、生きているという感覚も、現代社会とは思えないほど強かった。生き生きと楽しんでいたと、振り返ってみれば思います。

新型コロナウイルスの影響で、死が身近になった感覚は私達にも起こりました。先のことが不安になる人も多いと思うのですが、宮本住職は12年という長い期間に不安でたまらなくなることはなかったですか?

宮本:もちろん、指導僧の顔を潰すのではないか、本当にできるのか、プレッシャーや不安はつきまといました。大切なのは、今、ここだけを生きることです。時には嫌になることもありました。でも、1回くらいやってみよう、もう1回だけやってみよう、と重たい腰を無理やりあげていると、3日もやれば慣れて、まだできるようになる。先のことを考えるより、まず、やってみましょう。疲れたら休んでも大丈夫ですから。

どこか楽しそうに修行の日々を語られる宮本住職。1200年続く最澄の教えは、今も比叡山延暦寺、そして何より住職たちの中に息づいているのだと感じました。…瞳孔が開き、幻覚も…12年にわたる厳しい修行「籠山行」達成者に聞く、修行と俗世【比叡山】 | 和樂web 日本文化の入り口マガジン (intojapanwaraku.com)より

 

其の拾弐年籠山行が終わると宮本 祖豊住職は「世間がニンニク臭かった」とつまりは俗世間の匂いはキツイとさう思われたのでした。

尚僕はそんな立派な御坊様とはまるで違いタダの宗教ヲタクの自称詩人ですが、其の感度に関しては其れとまさに同じことでさう感じることが多い。

自分ではさうした潔癖さが何より嫌いですがさう感じられること自體はあくまで自称詩人として仕方の無いことです。

さて死はより正確にはまさに生と対になるものです。

 

死⇔生

つまりは、

生→死

なのでは無く生だから死で死だから生なのだ。ー生即死、死即生ー

さうして自然界ー獣性=本能が支配する世界ーはある種清い世界ですが其れは人間の煩悩や罪に対し所謂「効く」世界なのでは無い。

其れをあえてゴタ混ぜにしてまた善悪規定をも取り入れ謂わば不純化することによりあえて神を取り入れやうとしたのが最澄による天台の思想なのだったと今我は理解する。

 

従って最澄による思想以降は日本の佛法はより分からんものと化して行く訳ですが、あくまで個人的には此の比叡山の環境と申しますか静かなる佇まいには矢張り強く魅力を感じます。

宮本 祖豊住職は我と同い年でかって大學受験に失敗されたとのことですがまた其処から良くも此処比叡山にて修行の道に入られたものです。

ちなみにわたくしは修行は嫌いでまた掃除なども好きでは無い。

 

だから何時まで経っても家が綺麗にならずまさにこれではダニが涌くぞよ、其れも野良猫が始終家には入り浸るので大層危険である。

とさう思いますのですがとりあえずはムヒとキンカンだけはすでに用意して居り従って其れでもって此の夏場を乗り切らう!

としますがすでにもう何やら體中が痒い訳です。

其れと比べますとおお其の塵壱つ無き御寺の様が!!

 

其の掃除、掃除でまさに掃除地獄をくぐり抜けて来し尊い御坊様方。

要するに其の寺でも教會でも至って綺麗ですね。

他方で場末の飲み屋だの競馬場だの公衆便所だのそんなところは何故か滅茶苦茶に汚い訳だ。

わたくしが今拘るのは其の思想以前にかうして宗教が概してきちんとして居ることです。

 

おそらくは政治家や官僚、其れに色んな組織上の様様なことが今汚れて来て居る可能性が高く御座ります。

其の中で壱番汚いのが所謂自然破壊の様となるのでせう。

要するに其れは人間の心が醜くあったことのまさに現れでせう。

 

ー「修行中は精進料理ですので、肉魚を食べようと思っても、すぐには身体が受け付けない感じで、むしろどこへ行ってもニンニクの臭いがきつくて気持ちが悪くなりました。また、車に乗って比叡山のドライブウェイを下りたのですが、やはり歩く以上のスピードを目にすることがなかったので、景色に目が追いついていかず、なんとなく車酔いするような感覚もありました」。

 

尚わたくし自身は矢張り生まれつきに変わって居るのか、幼い頃に其の肉🐟を體が受け付けませんでした。

だから私の生涯はむしろ聖なる何かから還俗して行くやうな過程其のものであり其の事が兎に角我に取っては苦しみの連続でした。

其の後文學に目覚め様様な純文學と接したがむしろそちらの世界の方が元来の自分の世界でありだから本来はまさに其処でこそ生きて居たい訳だが勿論世間は其れを許しては呉れない。

なので其処でバランスを取る積もりにて家庭教師だの塾の先生などをやった。

また参拾、四拾と次第に山へ入るやうになり其の折に分かったことが我は其処にて独りで居る方がむしろ幼い頃の本来の自分に戻れると云うことであった。-そんな風に根っから此の人間社會が嫌いなのです-

 

「やはり20年もの間、他人とほとんど接することがない、会話がないという状態だったので、延暦寺、あるいは天台宗の方から修行の話を聞かせて欲しいと言われても、やっぱり自分の思ったこと、考えていることを言葉に出すというのが非常に難しい。“人に伝える”ということでの苦労がありました。いわばコミュニケーション能力が非常に落ちてしまったため、今度は、社会で経験を活かして人のために何かをしようというときに、大きな壁になってしまう。そこはある意味で“バランス”のいい修業、籠るにしても、期間を決めて修行をする。そして社会との関わりの中で多くの人のために、という修行も大切になってくるのではないかと思いました」。

「中断するなら死か還俗」「“悟り”なんていうものは得られませんし、煩悩もあります」比叡山延暦寺「十二年籠山行」を達成した住職が見たもの | 国内 | ABEMA TIMESより

 

其の人間界での所謂コミュニケーションの部分が酷い言い方をすれば此の破壊文明を成り立たせて来て居ます。

さうした面ではわたくしの場合はあくまでさうして「人間でもってヨシ」とはせぬ考え方でありよって其の種の孤独行やまた永平寺での如き深山での脱俗主義を大いに肯定する者です。

逆に「人間でもってヨシ」とする思想へと傾くと其れこそ佛教にせよキリスト教にせよある面では堕するのだとさう思えてならない。

 

まさに、「人間ではダメ=✖」だ。

壱言で申せば其れが我が宗教解釈の根幹にある考えでありでも其れはオウム教の如くにじゃあ人類は抹殺されてしかるべきものだ、などとは思わず要するに其れー人間と云う社會関係ーからは逃げたー離れたー方が良いと云う考え方です。

 

『願文(がんもん)』を読む (yuyusangai.com)

では此処で此の最澄の願文に就き是非學んでみませう。

此処での【『願文』現代語訳解釈文】を読む限りは最澄もまた独りの人間として苦しみに苦しんだ人であったことが此処よりしかと分からう。

勿論其処は何より共感乃至は共苦出来る部分です。

 

但し其の善悪規定での所謂善行に就いてはとりあえず善行を強調するのは釈迦の佛法よりは隔たった大乗の教説からのことだとさう規定することが出来る。

御釈迦様御自身の教えはもっとかう自律的なもので要するに「コレをやっちゃダメだ」と云う形での常に人間に対しては厳しいものです。

 

おそらくは其の部分が社會化され要するに人間化されたのが大乗の教説なのでせう。

但しかうしてイザ最澄の肉声のやうな願文に接しますと彼最澄がとても反省力の強い要するに可成に眞面目で且つ潔癖な人であったことが此処からも感じ取れる。

 

また其れは自嘲が過ぎる内容なのでもまたあるのですが其れでも佛道修行に対する最澄の信念のやうなものがヒシヒシと伝わって来るまさに魂の叫びでの文でせう。

かうして此処までの気持ちがあったが故に其の偉い學僧の最澄は格下の空海にも頭を下げ密教の教えを乞うたのでした。

 

 

さて元元我は大乗佛法其れ自體に対し概して批判的な人間ですので其れこそ論理を駆使し其れを批判することもまた可能ですが實は其れをやりたいなどとはほぼ思いません。

と云うよりも我は比叡山延暦寺へ行ったことが無いので是非行きたいだけのことです。

 

或は幼い頃旅行の折に寄ったことがあるのやもしれぬが其れもまるで覚えては居ない。

 

天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]

かうして面白さうな動画もまた此処にはあります。

 

比叡山の修行 | 天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]

居士林のご案内 | 修行体験 | 天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]

今はやって居ないさうですが此の居士林にて在家の為の修行が出来るさうです。

 

尚同じ山でも御岳山には縁がありかっては何度も出向いた我ですが何故か比叡山にはかうして縁が薄い訳です。

 

 

さて佛法が語る眞理の根本の部分とは好奇心の醸成では無くまさしく其れの消去でありまた學的な論理の涵養では無くまさに其れの消去にこそあります。

要するに人間であることの認識の全否定こそが釈迦の佛法の要諦の部分です。

 

逆に人間を神の次元にて統壱し全肯定するのがキリスト教の教義としての要諦の部分です。

ではどちらかがより分かり易いですかとさう問われれば誰しもキリスト教の方がより分かり易い。

 

なので元元其の潔癖だった佛法も次第にキリスト教化、即ち壱神教化し其処に阿弥陀佛だのまた大日如来だのが其の神様の代わりに置かれることとなりました。

 

天台本覚思想はさうした意味でのまさに神化された佛法でせう。

ですが神化された佛法は自然破壊などはせずむしろ自然を大切に扱いさうして山の中を駈けずり回り常に修行を欠かさぬ訳だ。

 

ちなみに我は別に山の中で修行をして居たのでは無く只遊んで居ただけのことなのです。

さうして石だのまた大木だの渓流だの大岩だのと交感して居ただけのことだ。

 

さう云うのが生まれ付きに好きな人とさうでは無い人があるやうです。

我は勿論其ればっかりをむしろして居たい方で要するに兎に角山が大好きだったかの宮澤 賢治のやうなものなのです。

 

ちなみに其の賢治は山へ行くとむしろ元気になれたさうですが其の点では僕なども全くさうですね。

 

 

さて要するに釈尊の佛法の方を尊重する禅宗は謂わば善悪規定以前での認識を目指して居りだからまさにあんな👩まみれでの壱休禅師のやうな風狂の僧がまた輩出したりもまた致しましたのです。

但し其れは世間の👨共が御触りサロンなどがとても好きなこととはまるで次元の違う類での👩遊びの態です。

 

要するに至極理性的に人間を眺むればあくまで其れは余計でありまさに不要物です。

御釈迦様の智慧とはまさにそんな理性のレヴェルでのことでありだから其れは何宗の教義の方がより優れて居るだとかまた禅宗はだから偉いだとかさう云うことでもまた無いのです。

でもって御釈迦様はお若い頃に👩に触り過ぎよってもうイヤだとさうなられて以降はあくまで佛法は女人禁制とさうなりましたのでした。

 

 

さて其の我と同い年の宮本 祖豊住職は今末期癌を患われて居るのださうだ。

確かに人間もイザ還暦を過ぎればもはや何時死んでもオカシクはありません。

 

生⇔死

其の本質的関係性を無視しつつあえて虚的価値観の上での大伽藍を築き上げて行くのが現代文明の奉ずる「前向き」だけでの価値観だ。

 

だが其処には常に死の影がさうして寄り添って居る。

其の死は宗教や宗旨等とは関係無くかうして常に人間に対し襲い掛かって来る。

 

どんなに偉い坊主であれまた聖職者であれ其の自然界の齎す理からは免れ得ぬ。

自然界の掟とは或はさうしたことであるのやもしれぬ。

 

ならば自然界を神とみる其の思想、其れを佛其のものと見る其の思想が全的に誤りであるとはまた言い難くもなる。

そんな壱種難しい御話では御座りまするがとりあえずは其の御寺のやうに我が家にも是非行き届いた清潔さが是非欲しいと思うこと頻りでの今の我です。ー特に梅雨時は其の綺麗さこそがさわやかに過ごす為の大事な要件となるー