目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

組織とは壱體何の為のものでせうか?

54.組織とは壱體何の為のものでせうか?

 

 

 

 

さて其のタブーとしての女性批判と云うことは、結局のところ「本能」に対する批判なのだとさう思われやう。

曰く「女性は本能ー子宮ー思考」をする。

 

其れはまさに其の通りなのではないか。

但し我は其の👩が持つ良いところもまた良く知って居る。

 

まさに其れが生命への慈愛や生や性其のものへの構築力の高さ、強さを持つ面である。

逆に👨は本質的に其れに欠けて居ることが多く、其れでもって破壊的な何かを此の世に齎して仕舞うことが其の女共よりは多くなる。

 

要するに生命としての次元で本質的に🚺は打たれ強く逆に🚹は打たれ弱いのである。

さてでは壱體どちらがより良いのだらうと云う話となると結局其れは弐元的な価値分裂の御話なので常にどちらが良いとも決め切れぬ訳だ。

 

 

女性⇔男性

但し此処で気を付けて見て置かねばならぬこととは、畢竟其れが単独にて現象するものでは無いと云うことに留意して置かねばならぬことだ。

 

即ち性とはあくまで其の分離なのである。

また生其れ自體が其の分離なのである。

 

分離とは矛盾を其処に生じることである。

即ち生其れ自體が其の矛盾である。

 

ですが、其の矛盾をむしろ美化することで其れこそ別次元へと昇華させることが出来る。

まさに其れが藝術である。

 

また其の矛盾其のものを昇華させることで人間の心の面を救うことなども出来る。

まさに其れが宗教である。

 

 

ところが其処に壱つの問題が生ずる。

まさに其れが組織ー社會ーの問題である。

 

其れは組織ー社會ーが抱える根本的な命題だと言って良い。

 

即ち其の組織ー社會ーは本質的に利己的になりがちなのだ。

だから組織ー社會ーの中では其の本質的に巣食う利己主義に洗脳されて仕舞い易くなる。

 

 

だが妻は會社へ行けと云うので仕方が無くスーツを着込んで毎日其の摩天楼へと、其れもウイルスの充満した満員🚈や満員の🚇地下鉄に乗りアア會社へ着いたらもはやヘトヘトに疲れ果てても居た!

其のやうに實は其の會社を動かして居るのは子宮の欲望なのだ。

 

なる程、だから資本主義はもう何処まで行っても欲深くしかも無慈悲なのだな。

 

でも其の子宮の慈愛は壱體何処へ行ったのだ?

其の命の母としての慈愛はおおまるでマリヤ観音様の如き慈愛は壱體何処へ行ったのだ?

 

ですが其れはあくまで限定的慈愛である即ち本能的な慈愛のことなのだ。

だから其の慈愛はむしろ自らの子の仕合せを願わんが為に他の子を殺すことさえ厭わぬ無慈悲さをもまた持ち合わせても居やう。

 

 

逆に🚹の愛はより普遍的且つ観念的であり要するにイエス様が説かれる愛が其の典型例でありまさに其れが其の本能的利己的領域を放逐せんが為の無垢なる愛としての領域のことなのだ。

 

では元元組織ー社會ーの中には其の普遍の愛が欠けて居るのだと仰る?

さうだ、だからイエス様はかってあえて暴力を振るわれ市場を破壊なされたのだった。

 

 

で壱體何が仰りたいので?

いつもの如くにもう👩には触るな、其れにエロ動画などは金輪際視るなとさう仰りたいのですか、教育詩人さん。

 

いえさうでは無く、其のエロースの本質とはあくまで利己的な愛のことだとさう規定してみただけのことよ。

なので釈尊の場合などもまずは壱番初めにまずは其れを放棄なされて居る。

 

つまりはさうしてイエス様とお釈迦様の御弐方共に其れを否定的に扱われて居るのである。

されど逆に世間は其のエロースを組織にまで拡大する形にて此れ迄文明を築いて来たのである。

 

だからまさに其れが文明の眞の姿であり要するに其れが此の矛盾に満ち利己愛に刺し貫かれし文明のあり方なのだ。

うわあー、もうソコまで仰いますともう生きる気力が削がれるやうな気さえ致しますが…。

 

 

だから其れで良いのだ。

其の生きる気力をなるべく弱く小さくして行くことこそが肝要である。

 

また何処ぞの教祖のやうなことを言い始めたな、宗教詩人さん。

 

 

さて問題はまさに其の本能との闘い方に関する部分である。

だが此れ迄此処でわたくしが述べて来たことを眞面目に読んで頂いて居れば其の本能との闘い方が所謂世間での其れとは異なる方向性を向くものであることに皆様は気付かれたことかと思う。

 

つまるところ現代文明は即ちさうして利己的に自然に対する収奪やまた矛盾的に推進されるエロースの次元での幸福追求を為し其の結果所謂進歩と云う形での成果を獲得して来た訳だが詩人に限りそんなもんは屁の如きもので要するに全ては悪行による仕業であり要するに其れは其の大なる子宮が幻想せし悪夢である。

 

とさう申して居るのでありつまりはそんなもんはまるで認められません、と言うことを此の際是非言わせて頂きたい。

 

だから其れは理窟的には原始退行せし理性の自己矛盾過程であり要するにお万さんがお万を生きて御座ることとまるで瓜弐つのことでありとどのつまりは人間の全理性が逆流し其のお万さんの腹の中へと全部吸い込まれて仕舞って居るのだ。

 

うわああー、コイツ今決して此の世では言ってはイカンことを言ったぞよ。

いやつい観念的に力が入って仕舞いました。

 

 

さて宗教的な価値の次元に限れば人間と云うものはそも本能的次元を生きるものであってはならない訳です。

何故なら其れが利己愛に縛られた生活か又は価値を生きることに繋がるであらうことが明白です。

 

ですのであくまで価値上の眞理、道理上の摂理に基づけばまさに其れを放棄する方向性に生きなければ人間存在の本質的幸福など得られるべくもありません。

なので宗教に勤しむ人人は其の本質的幸福をこそ乞い願い自らに取っての可能な立場でもって修行に勤しんだり活動をしたりまたする訳だ。

 

なのでまずは其の意味で宗教と云う精神的次元は人間存在に取りむしろ必須のものです。

逆に組織ー社會ーの論理に従い現世利益的に生活を享受しつつある現代人の精神性は可成に低められたものとなると見て置かねばなるまい。

 

要するに其の信仰の対象がそも間違って居ます。

組織ー社會ーの論理を信仰することは逆に生活への利己的耽溺の様を増し己の中の精神性の部分を破壊して行くことにもまた繋がりかねぬ。

 

 

故に我はまさに其の様を「洗脳」とさう称して居るのであり其れは邪教からの洗脳とは別次元での現代を生きるホモ・サピエンスへの社會的な価値観の洗脳の様です。

しかしながらまずほとんどの人は其の「洗脳」の事實にはまず気付けぬことでせう。

 

ですがまさに精神として自立的に「目覚める」為にはどうしても其の洗脳を解く必要があります。

 

尚其の「洗脳」は執拗でありしかも強固に築かれて居ます。

故に少し頭が良い位では其れに気付き其れと闘うことなどまず不可能なことだらう。

 

我はたまたまかうして直観能力に恵まれた人間ですので其れが分かると云うだけのことだらう。

其の「洗脳」の基本構造とは「生活教」への入信と本能への崇拝と云ったまさに邪教並の価値観の顛倒が其れを成立させて居るのです。

 

 

自分の👪こそが大事だ…。

自分の會社こそが壱番大事。

また自分の郷里、國が兎に角大事だ。

 

まさに其れは当たり前のことだ。

ですが当たり前のことであるが故に其れが實は本能的な欲望のことです。

 

其の本能的な欲望に対する異なるアプローチの場としてむしろ理性は作用します。

故に理性は其の種の本能的アプローチを逆に自らブロックして行くのです。

 

又は其れを放棄して行く訳である、其れもかの原始佛教に於ける釈尊による教えの内容の如くに。

 

 

故にさうした本能的な守りの気持ちからは眞理などはむしろ見えては来ない、むしろ其れが煩悩其のもの、罪其のものであり向いて居る方向性がそも違います、と云うことを本日我は語らせて頂いた。

逆に眞理への道筋とはさうした類での組織ー社會ー上の欲得勘定から無理にでも己を引き剥がす部分にこそ生じるのである。

 

或は其れこそが👩の腹の中からの離脱でありエロースの放棄でありつまりは其れが👪の放棄であり會社の放棄であり共同體や國の放棄です。

 

とは言えあくまで概念的にはさうして「半分死んで生きる」訳ですので實際には會社や共同體に属しましてや日本人であることを辞めると云うことなのではありません。

逆に自然環境を大事にすると云う意味では共同體の価値を再認識し其処に都會では得られぬことだらう精神の健全さを見出して行くことなどは勿論有意義なことだ。

 

尚此の種の「愛」の次元に就きネルケ 無方氏が『仏教の冷たさ キリスト教の危うさ』と云う著作の中で合理的に且つ分かり易い解釈をされて居ます。

其のネルケ師こそがかっては洗礼を受けたキリスト教徒でありながら其れを棄却し佛門に入られたと云うまさに優れた佛法解釈をお持ちでもある曹洞宗の僧侶の方です。

 

其処ではまず其の愛と云う概念はそも希臘では四つに分かれて居たものだとされて居る。

 

 

エロースー恋愛や性愛ー我が纏めー

フィリアー同士愛、同胞愛ー我が纏めー

ストルゲーー親子愛、郷土愛、愛國心などの無条件の愛着ー我が纏めー

アガペーー見返りを求めぬ「無私」の愛=神の愛や隣人愛ー我が纏めー

 

さて此のやうに分類しますとむしろ愛の構造が良く見えても参りませう。

で、日本人は特にストルゲーを強く持って居るかのやうに思われます。

 

また會社生活などでは或は其処にフィリアが要求されて居るのやもしれません。

 

さて問題は其のエロースとアガペーには著しい隔たりがあると云う部分でせう。

即ちエロースは本能に基づく愛のことですがアガペーは本能には基づかぬ理性的な愛の形だと云うことだ。

 

では所謂「母の愛」はアガペーとは違うのでせうか?

元元全然違うものでせう。

 

要するに其れはストルゲーとエロースを足して弐で割ったやうなものです。

だからと言って其のストルゲーとエロースが低級な愛だと言って蔑む訳なのではないが其れがあくまで本能に基づく次元の愛であることにしかと留意して置く必要がまずはある。

 

ですので彼つボイノリオが批判したものとはあくまで其のアソコの盲目的且つ本能的生産性のやうなものでつまりは女性が本能的に備えて居るエロースのことを皮肉っただけのことなのです。

また其れが何でかと申しますとエロースだのストルゲーに強く支配された愛を履行することによりより本質的な愛が見えにくくなる=宗教的な愛に目覚められ無くなると云うことをおそらくは批判したかったのだと思われる。

 

 

其の命の母の愛を批判し得るものとはおそらく男性的な理性の力だけでもまたあることだらう。

つまるところは男性の役目とはまさに其の批判精神を此の世にて発揮することのみなのだ。

 

対して女性の役目とは其のストルゲーとエロースの発揮にこそ尽きて居ります。

尚かうしたことを申しますと平等論者からまさに怒られさうですが、其れはどーのかうのでは無く事實に基づきさう規定されて居ることです。

 

所謂其れが自然の摂理としての役目であると云う御話をさせて頂きました。

 

 

ですので、確かに宗教団体などにはまた🚺の方方が多く入信、参加されて居たりもまたするものですが、其のうちのほぼほとんどの方方がむしろ神の愛だの佛の慈悲だのとは無関係の愛の段階を成就させんが為に日日其の活動に勤しんで居られることかと思う。

其れはわたくしがかって拾年程とある宗教団体にて活動致しました時の偽らざる感想なので御座ります。

 

尤も宗教団体に関わって居られる🚹の方方が其の神の愛だの佛の慈悲に気付いて居られるかと申せば其れもまるでさうでは無く結局はストルゲーだのフィリアだのを成就せんが為に彼等は其の宗教団体と関わって居るのです。

 

従って宗教をやって居れば宗教的か、其れも眞理を視野に捉えつつ其れをやっているのかと言えばむしろ其れは大いに疑問なので御座ります。

逆に僕なんぞはかうして人間嫌いでもって組織が大嫌いのある種偏った人間ですがこと眞理探究の面に関しては潔癖であり誠實な面を常に持ち合わせて居りませう。

 

そんな訳で「本能」と眞理はそも違うのだしまた「生活」と宗教も本来はまるで違うものなのです。

まさに其の区別と申しますか仕分けと申しますか其の部分が日本の宗教生活では特にゴタ混ぜとなって仕舞って居り要するに何が聖で何が俗なのかもはやこんがらがって仕舞いもう訳が分からぬのであります。

 

ですので其の「愛」と壱言に申しましても全く正反対の性質すらをも其処では帯びて居るものなのだ。

だから本能的に規定される「愛」と云う概念には是非注意が必要です。

 

 

より正確にはおそらく其のアガペー以外の愛は本能がかったものであるに過ぎぬことだらう。

だから戦争にでもなればストルゲーやフィリアがより重視されアガペーのことなんぞは脇に置きみんなはさうして祖國や👪を守らんが為に戦闘するのです。

 

其の極めて本能的な現象を為し即ち本能に寄り掛かり常に意思決定をするものが所詮は人間の本性です。

ですが其処からは「世界平和」もまた文明の「持続可能性」をも得ることなどはまさか出来ません。

 

「世界平和」や文明の「持続可能性」を得んが為にはアナタ方の本能に対し理性的にブロックを行うより他に方法は無いのです。

無論のこと其のアナタ方の中には組織ー社會ーとしての國、共同體、其れに會社や👪の単位などが全て含まれて居ます。

 

 

でもって宗教をやってれば、また哲學をして居れば其のことが治外法権となるかと言えばまるでさうでは無いのであります。

即ちわたくしの如くにあえて其れには与しない生き方をして来て居る者ならば壱面では其の真理方面への眺望が開けても参りませうが其れでもあくまで治外法権となる訳では無く故に常に努力を怠らぬやうにせねばなりません。

 

ですので其の努力と云うのは何かを守らんが為の努力では無くむしろ其れ等の放棄としての努力なのだ。

 

ちなみに今わたくしはネルケ師による『仏教の冷たさ キリスト教の危うさ』と云う著作を読み返して居る最中ですが其れが兎に角勉強となります。

ネルケ師はさうしてキリスト教キリスト教圏を放棄され日本で禅宗の僧侶として今は後進を指導する立場におなりなのだが其れでも猶「イエス・キリストの説く愛は偉大だった」とさう仰せである。

 

さらに言えば浄土教密教は壱神教化した佛教であるとする御考えなどはまさに我が考えと同じであります。

 

尚佛教では「慈愛」と云う概念が屡語られるが、其れもまた原始佛教と大乗佛教では意味合いが全く違うものとなって居る可能性が高いものと個人的には見て居る。

 

原始佛教に於ける慈愛とは其れ即ち「本能に踊らされて居る無明者への憐憫の情」であり大乗佛教にて語られる慈愛とはあくまで「菩薩行としての他者への奉仕としての愛」のことだらう。

其のやうに實は此の佛教とキリスト教と云う世界宗教はある意味で良く似た道を辿って来たのである。

 

其れは教祖である釈迦とキリストの後に大幅な教義上の改変が何時の間にか為されて行き次第次第に大元での教えとはかけ離れたものとなって行った点で實は瓜二つなのだった。

 

また其れは後に凡人の考えが其処に加わりもはや純粋な佛教とキリスト教の教えでは無くなったことをもしかと示して居やう。

即ちかのジョン・レノンがかっていみじくも述べしやうに「イエスは正しかったが後がダメだった」のであり、また何だか知らぬがまさに雨後の筍の如くに日本ではかって新宗派が開かれ其処で何やらキリスト教の如き佛教やさらにヒンズー教の如き佛教もまた盛んとなり最終的にはかの家康公が浄土信仰を保護したので結局今や其の信徒が壱番多いのが浄土教ー浄土宗と浄土眞宗ーなのださうだ。

 

まああえて嫌らしいことを申せば其の様も何やら「佛陀は正しかったが後がダメだった」風の匂いがどうしても致しますのです。

まあでも兎に角僕は佛教はみんな好きですのでお前等を全否定したりはまさかせぬのでむしろ安心して修行に勤しんで下さりませ。

 

でも信長公はかの比叡山を焼き討ちし坊主共をも皆殺しにした訳です。

 

 

ー信長が足利義昭を伴い上洛(1568年)した後、畿内平定の際に奪った「寺領」を家臣に与えていたことを、もともとは延暦寺の寺領であると主張し、返領するようにと訴えていました。

延暦寺は朝廷とのつながりが深かったため、朝廷を動かし、寺領回復を求める綸旨を下したものの、信長はこれに従いませんでした。

そもそも、一介の寺院が朝廷を動かし「政(まつりごと)」に口を挟むような対応をひどく嫌っていた信長ですが、延暦寺のその後の対応(「志賀の陣」逃げ込んだ浅井・朝倉に味方しなければ寺領回復に応じると伝えたにも関わらず、これを無視し、その上浅井・朝倉を匿(かくま)い、信長に対抗する姿勢を見せた)に怒りを覚えていました。

信長の延暦寺に対する怒りはこれだけではありません。

信長が見ていた延暦寺は、元来聖職者であるべき僧侶が、日ごろの仏事や仏法をなおざりにし、天道の恐れを省みず、戒律で禁じられているはずの「色欲」にふけり、「魚鳥」の肉を喰らい、「金銀財宝」を欲しいままにし、中立であるはずが「浅井・朝倉」という個への庇護等、信長はそのような特権に驕(おご)る延暦寺が許せませんでした。ー【比叡山延暦寺焼き討ち】鬼信長!女、子供、すべて焼き殺せ!! | 戦国バトルヒストリー (sengoku-battle-history.net)より

 

 

左様に「色欲」にふけり、且つ「🐟🐦の肉」を喰らいさらに「金銀財宝」に目が眩んだ悪逆の僧共を是非成敗せねばなりますまい!

ええーい、此の謗法坊主共等めが!死にさらせーい!

 

其の頭が良く潔癖な性格の信長はたとえ坊主共ですら赦しはしない。

我もまたファミリーマートや郵便局、区役所の対応の悪さを決して赦してはあげない。

 

 

其の信長公は頭が良く批判力が強くある人だったことでせう。

要するに可成に理性的な人であり且つ感性面の方でもまた優れた人でした。

 

ですので、そんな信長公に取り其の坊主共の堕落振りは決して許せぬものだった筈です。

比叡山延暦寺は何も信長公だけに焼き討ちされたのでは無く實は信長公の焼き討ちで参度目だったのです。

 

但し潔癖で且つ苛烈な性格を持つ信長公は当時もうほんたうに逆上して居たことかと思われます。

 

ー永享7年(1435年)、度重なる比叡山制圧の機会にことごとく和議を諸大名から薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出して斬首した。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立て籠って義教を激しく非難した。しかし、義教の姿勢は変わらず、絶望した僧侶たちは2月に根本中堂に火を放って焼身自殺した。当時の有力者の日記には「山門惣持院炎上」(満済准后日記)などと記載されており、根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼したと思われる。また、「本尊薬師三体焼了」(大乗院日記目録)の記述の通り、このときに円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失している。同年8月、義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に段銭を課して数年のうちに竣工させた。ー延暦寺 武家との確執 - Wikipediaより

戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していたが、明応8年(1499年)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と、それに呼応しようとした延暦寺を攻めて焼き討ちを行った。これによって根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍が焼かれた。ー延暦寺 武家との確執 - Wikipediaより

元亀2年(1571年)、信長は自らに敵対する延暦寺とその僧兵4千人に対し、自らの味方になるか、それが嫌なら織田方、浅井・朝倉方どちらにも付かず中立の立場をとるように再三通達を行ったが、延暦寺は断固拒否した。それを受け、信長は自らに味方する園城寺に本陣を置いて9月12日延暦寺を取り囲み焼き討ちを行った。これにより延暦寺日吉社の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。ー延暦寺 武家との確執 - Wikipediaより

 

いずれにせよかうして当時比叡山は独立國化、武装勢力化して居り其処からしてもまともな佛教組織だとはもはや呼べなかったことだらう。

佛教勢力も結局はさうしてよりデカくなること、勢力を拡大し此の世に社會的な欲を築くことでむしろ其の内部より腐敗して行きます。

 

第壱其の延暦寺が権威、権勢を拡大して行く様とお釈迦様の説法との間に壱體どんな関係があると云うのだらう。

まさに其れはまるで何の関係も無い邪教としての悪の推進其のものではなかったか。

 

此処からしてもどうも当時の延暦寺のあり方其のものが悪其のものだったやうだ。

でもってして我は信長公のことを擁護して居るのでは無くむしろかうして絶対だと思われるやうな価値の落とし穴のことに就き述べて居るのです。

 

佛に逆らうのは確かに謗法であり佛罰が当たることだらうが其の佛に逆らい俗化して其の邪なる煩悩を最大限に燃やして居たのはあらうことか比叡山延暦寺の方であった可能性が高くある。

 

 

比叡山焼き討ち - Wikipedia

尚かうして比叡山延暦寺自身も他の寺を屡焼き討ちして居たのださうです。

 

其れも大昔のことだとは言えもはや滅茶苦茶です。

かうして宗教勢力ですらもが組織上に生ずる利己的な罠のやうなものに抗うことが出来なんだと云う御話です。

 

ですので、わたくしは今まさに組織ー社會ーの論理を信仰することの危険さに就き考え始めて居ます。

まさに其の組織ー社會ーの論理こそが個による理性的判断を狂わせ何か大きな破壊的な所業を生み出して仕舞うものだ。

 

でもって壱體なんでさうなって仕舞うのかと云うことがなかなか分かりませんのです。

其の集団心理的な要素であり社會的に齎される価値こそが何故おかしな方向を向いて仕舞うものであるのかと云うことこそが…。

 

 

ー後世の比叡山側への同情も薄く、小瀬甫庵も『太閤記』で「山門を亡ぼす者は山門なり」と批判している。儒学者である新井白石が『読史余論』で「その事は残忍なりといえども、永く叡僧(比叡山の僧)の兇悪を除けり、是亦天下に功有事の一つ成べし」として以降、比叡山焼き討ちは肯定的に評価されてきた。ー比叡山焼き討ち (1571年) - Wikipediaより

 

さうして組織が誤った方向へ進めば其れはほんたうに社會が腐ると云うことだ。

個が独り腐る位ではむしろ何事も起きぬことだらうがいざ社會が腐ればもはや其れは取り返しのつかぬことともなる。

 

ですから、たった今グローバル資本主義が腐って来て居るやうに感ぜられるのだが果たして大丈夫なのですか?

たった今気候変動も起きて居るやうに思われるのだが果たして大丈夫なのですか?

 

第壱もう梅雨にでも入っては居ませんのですか?

其処で年老いた母などとも良く話すのですが昭和の頃、其れも我我還暦世代が小学生の頃はもっともっと安定した気候でこんな五月の中旬に長雨が降るなんてことはまず無かったです。

ひょっとして人間は進歩と引き替えに其の生息圏を根本的に壊して来て居るのではないのか?

 

 

だから僕はもう組織を悉く捨てました。

そんなもんもーどーでもエエです。

 

ですが雨が降ると採集にも行けずで結局かうして毎日此処へ出て来ることとなるではないか!

まままあ其れも良いではないですか、かうして書きたいことが書けて…。

 

さうでしたか?

僕の書くことがそんなに此の腐った世の中の役に立って居るのですか?

 

はい、とっても…。

うわあー、コレでまた明日も何かを書かないといけなくなった。

 

もしやお前は僕をして日日作家生活に縛り付ける👿だらう?

はいさうです、ではまた明日。

 

うわあーまたやってもうたー。

またもや👿の目論見に引っ掛かりいい気になって作家先生気取りのおバカなボクなのです。