目覚めよ!

文明批判と心の探求と

持てる者と持たざる者の眞の意味 弐ー欠落部=前半部ー

持つ者と持たざる者


此の庶民としての問いに対しさても御坊様方は何を答えられて居るのでせうか?


まずは他と「比較する」と云うこと其れ自体がオカシイと云うことを述べられて居るやうだ。

ところが我我はつい比較して仕舞いがちだ。

でも所詮其れは認識上の曇りが齎す相対論議なのです。


だが其の相対論と云うのは現代に於ける価値認識のむしろ主流でもある考え方です。

科学的思考ー相対論や量子力学にせよーまたさらに哲學ですら例えば構造主義による文化相対主義などと云うやうに相対的価値認識こそが現代の主流での価値観です。


ですが其の価値観こそがむしろ個としての幸福のあり方を圧迫しさうした所謂金儲け至上主義だの行き過ぎた自由の蔓延だのに繋がって行く虞がまた大きくありませう。

ならば我我個はさうした社會が奉ずる価値観を一旦退いた上で御坊様方や神父様方がかうして御教えになって下さる価値に就き學んでいくべきなのではなからうか。


其の御勉強と云う事には矢張り弐種があり、其れは頭の内容に関するものと心の内容に関するもののことだらう。

しかしながら現代人は概ね後者に関することがまさになって居ない訳だ。


またつい其のプライドに拘る部分なども現代人の悪い癖なのだらう。


だがむしろ眞に理性的なこととはプライドを減じて行くことである、などとも私は考えて居る。

でもおまえはいつもさうして自分は理性的な人間だと何処までも威張って居るぞ!


いや其れはあくまで文學上のプライドのことでむしろ私は其れこそルンペンさん並にプライドには縁が無い。

ところで其の煩悩と云う事はむしろ社會的な関係性から生じて居るものがほとんどである訳だ。


家族の中で言えば家族の中で、また親類縁者の中で言えば親類縁者の中で、さらに町内会の中で言えば町内会の中で、さうして會社の中では其の會社の中で常に力関係だの何だのさうした社會的価値を比較されることこそが近現代社會が奉ずる相対的価値観のことですので其れにドップリ浸って仕舞ったが最後もはや其処で身動きが出来ぬやうにもなって居ります。

 

 

 

以上の部分が欠落して仕舞い訳の分からぬ文章になって仕舞って居りましたので補足して置きます。

 

尚ネット上で大乗各派の御坊様方はむしろ最大限に説法をされたりもして居る訳です。

 

さて変なことを申しますが、御坊様もまた宗教としての社會的価値にドップリ浸かって居ない若い世代の方々の方がむしろ分かり易く法を説いて居られるのやもしれません。

 

世俗だらうが出家の世界だらうが所謂しがらみと云うものが事の眞相の部分、また本質的な意味の部分を何故か隠し其れ以上其の価値を吟味して行くこと自体を不可能として仕舞います。

 

さうした意味では旧来の価値にドップリと浸かり其処でもって温泉気分になって居る露還暦以降の世代はむしろイカンのではないだらうか。

 

むしろ還暦世代は現代社會に対し是非宣戦布告するべきだ。

アンタの孫、其の弐匹も参匹も居る孫はむしろこれからどんだけ苦労することだらうか。

 

だから孫の顔を見るなどして単純に喜んでおってはイカンぞ。

 

孫?

ヘッ、居るか、そんなもん。

 

我はかうして社會を糾弾し其れと共に宗教的自我を生きるのだよ。

 

ああ、でも🐈に孫はすでに生まれて居り實は其の数が多くて困っても居ります。

 

 

まあいずれは曹洞宗の若住職と禅の教義の上での観念論議を是非したいところです。

 

何せ私が佛法上の疑問をぶつけさせて頂いた御住職は御二人ともすでに身罷れて仕舞ったからなのです。

 

かうして人間は坊主だらうが學者だらうが必ずや死にます。

まあ私は死ぬる瞬間まで多分考え込んで居りませう。

何故なら其れこそが私にとっての一番の幸福だからなのです。

自分の頭とペースでもってさうして考えて居ることこそが。