目覚めよ!

文明批判と心の探求と

持てる者と持たざる者の眞の意味 参

ですので、其れはむしろ其の顛倒せし認識でもって自己が成り立って居る訳ですので変わりやうが無いのです。

変わりやうは無いが、其れを続けて居る限りは苦は逆に増して行くと云う事なのだらう。


であるからこそ他と比較しつまりは社會的に比較し自己を規定してはならぬのだと私は思う。



また此の曹洞禅の御坊様は最後に凄いことを述べられて居ます。

要するに其の「持つ」「持たぬ」と云う分け方其れ自体が分別概念による妄想其のものでもある訳だ。=「莫妄想」


尚此の部分は少し考えてみますればすぐに分かります。


投資での儲けが好き⇔そんなあぶく銭が嫌い

👩好き⇔👩嫌い

明るい⇔暗い

無頓着⇔神経質

軽い⇔重い


自身が壱方に規定されれば他方の気持ちは本質的には分からなくなります。

ですが他方は常にまさに自分には欠けるものをこそ持って居るのです。


金持ち⇔貧乏人

會社員⇔ルンペンさん

お馬鹿⇔お利口


其れは實はどちらが偉いと云う問題では無く其の分別概念其れ自体が妄想だと云うことなのです。

何故ならあくまで他は自分が決して持ち得ぬ価値を持って居る訳なのだから。


尚個人的には此の相対分別による認識上の誤謬は哲學的即ち理性的にも判断することが可能だとさう考えて居ります。

尤も其の先での認識に就いてはもはや観念的論議では収拾が付かなくなる問題となるのやもしれませんのですが。


宗教的な解釈にせよまた學問的な解釈にせよいずれにせよ其処には強靭なる理性の場が是非必要となる訳です。

特に釈迦の佛法は高度に理性的なものであり基本的には其れは他力救済を認めぬ程に強靭なる理性としてのものでした。


但し他力救済は其の人間の矛盾を矛盾として受け持った侭で何かに救われて行くと云う考え方のことです。

さうした或る意味では現實に即した救済法ですので釈迦の佛法や禅宗程に突き詰めて考えて行く必要は無いのやもしれぬ。


要するに人間の馬鹿ー無明=迷いの様ーをそも前提とした救済としてのあり方なのだらうから。


然し個人的にはあくまでかうした禅の持つ理論性にもう何処までも惹かれて行って仕舞うのです。

其の論理とは本質的にはむしろ脱論理ですが、其の脱論理するまでの観念性たるやもう脱帽したくなる程にやられて居て矢張りと言うべきかどうしても其の部分にこそかうして引き寄せられて行く訳だ。


禅!

もしや其の禅と勝負する時が愈愈来たのか?

いやでも其の前に大乗佛教に於ける問題点に就き幾つかを是非考えて置かねばなりませ

ん。