目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

南 直哉師の御話より

さて其の「カルトな旅」もまた良いのですが、気分的に本日は佛教の御話をさせて頂きます。

 

南  直哉 (禅僧)

尚私は此の方をまさに心の師と仰がせて頂いて居る。

 

さうして曹洞禅の僧であると同時に同年代ー私が壱歳下ーであり、さうして何より此の方は「何でも言っちゃう」やうなところのあるまさに直球勝負での禅僧ですので私のやり方にも基本的に合うのです。

さらに我があこがれの早稲田大學を出て居られる方なのでもある。

 

で、此の方が何と2018年に小林 秀雄賞を受賞されておりました。

 

其れを受賞した作品がこちらださうです。南直哉 『超越と実存―「無常」をめぐる仏教史―』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)

 

ですが何かと私は忙しいので其のことをまるで存じ上げませんでした。

 

 

なのですが其の南師の本を實は今読んで居ります。

 

其れが此の本です。「悟り」は開けない (ベスト新書) | 南 直哉 |本 | 通販 | Amazon

 

かやうに衝撃的な本のタイトルでありかってのめりこむやうに此の本を読んだ覚えがある。

ちなみに私は読んだ日を本に記して居るのですが其れを見ると2019年の八月十一日から読んで居る。

 

だから凡そ弐年振りに此の本を読んで居る訳だ。

 

 

尚読書は理性を磨くには大事な行為です。

なのですが最終的には其の知識の集積を基に自分の頭で考えられるやうにならねばなりません。

 

じぶんでもって思考しもしも其の結果世を捨てることになるのだとしても決して後悔してはならない。

己としての思考には其の位のプライドを是非与えてやるべきです。

 

またじぶんでもって思考しもしもあらゆる書、あらゆる思想を否定することになるのだとしても其の結果に対し後悔してはならない。

己としての思考には其の位の矜持を是非与えてやるべきです。

 

なので全部本を捨て去りもしも観念的にまるで仙人化したにせよ其れを他人がどうかう言うことではありません。

 

でも私はむしろ其の逆で、かうして時折本を読み返し喜んで居る訳ですので實は可成の俗物です。

其の知的な欲望に捉われて居ると云う面での明らかに俗物なのだらう。

 

で、其の欲望の本質はみんなが妻子だの恋人だの何だのにさうしてどうしても捉われて仕舞うことと實はまるで同じカラクリなのでもある。

 

 

さて其の南師が仰いますには、

「前向きに生きる」必要はないー「悟り」は開けない (ベスト新書) 190頁よりー

 

 

流石は禅僧だ!!

まさにイキナリ凄いことを仰る。

 

ー私は学校と相性が悪かった。さらに不思議でならなかった。「夢」と「希望」を持ち「前向きに」「積極的に」生きよとさう訓示する先生だの来賓だのの価値観が理解出来なかった。ー大体の要約である私の創作部

 

ー私は幼い頃から根本的に大人をナメていた、何故なら彼等には人間にとっての壱大事である筈の「死」に対する理解が無くしかも安直な「夢」だの「希望」だのと云う「誤った」価値観に洗脳されて御座る。ー大体の要約である私の創作部

 

ー何故なら根源的に受け身である謂わば自性を奪われた存在である我我獣共がそんな「前向き」だの「積極的」になど生きれば其処に無理や無駄が生ずるのはむしろ必然としての理だらう。ー大体の要約である私の創作部

 

ーおまえらはみんな馬鹿だ!其の知能が低過ぎる。おまえらと一緒に居るだけで其の馬鹿が移る。だから僕はもうおまえらなど永久に無視することとした!!-あくまで私の創作部

 

 

で、南師は昔の人はむしろ「前向き」にも「積極的」にも生きられぬ日々を懸命に生きて居ただけなのだとさう仰る。

まさに其の通りなのではなからうか。

 

さらに「前向き」にまた「積極的」に走り続けると其れは全力疾走となり足元や周りの風景が見えなくなるのだとさうも仰る。

しかも彼の人生は常に未来へ投げ出され今の大事な何かを失いかねない。ー大体の要約

 

其れは逆に「後ろ向き」にまた「消極的」に生きたことと同じくして何かを失うことともならう。ー大体の要約

 

尚、個人的に私は其の-方面での価値をむしろ「遊び」の価値として利用することにして来て居ます。

故に「前向き」にまた「積極的」に走ることを實は全否定するのでは無く其れを個人化する即ち個の範囲にて藝術化するか乃至は仙人化してむしろ其処でもって其れを積極的に追及すべきだとさう申して居るのです。

 

 

ですが社會的な意味での+の価値の追求は全体の弐元分離を齎すものですので須らく✖です。

逆に社會的に-の価値を目指すことは特に今や意義あることなのだとさう思われる。

 

要するに私は世間では其の両極としての価値の認識の仕方其れ自体が悪い、間違ってるとさう述べて居るのです。

 

また其の「今」の解釈に就いては多々難しい面もまた御座りますのですが、現在の私は「今」はむしろ滅し去るべきもの即ち「たった今では無い今」として認識されるべきものであるとさう捉えられるやうになって来たところです。

要するに私は今「解脱することなどとても出来ぬ」人間のことをむしろ其の侭に見詰め彼等に対する処方箋を捻り出そうとして居る訳だ。

 

尤も私自身もまた其の処方箋を欲する人種の中にしかと含まれて居る訳だ。

何故なら私は聖人様なのでもまた解脱者なのでも無く只の壱ウンコ垂れとしてのまさに人間であり且つ苦悩する自我其のものなのですから。

 

 

ですがかうして文人気質がある故にか何かと考えて来ては居ります。

でもそのうちにかうして文人である侭にそのまま何処かへ逃げて行く可能性もまた高く御座ります。

 

私はさうしていつも「逃げたい」人ですのでイザ逃げるとなればまさにほんたうに山奥へと逃げて行く所存です。

詩人さん、アナタはさうしてみんなの為に書いて居るのですね、さうして日々心に訴えるやうな何かを!

 

いやむしろじぶんの為にだけ書いて居ります。

其れは単なる内面の懺悔であり回顧録ですのでまるでもって歴史物語のやうなものでせう。

 

 

尚以前にも申しましたが「希望」だの「未来」だの「成功」だの「進歩」だのと言った観念的価値に拘れば拘る程に其処には-の価値が生じても参ります。

事實として資本の論理は「成功者」と「脱落者」を生み「進歩」は「破壊」を生むに至って居る。

 

他方で近代主義の履行から多くの國々で「人権」が保障されるに至ったが元々其れは無制限に認められるものには非ず。

其のやうに「人権」は社會的関係により必然的に常に制約を受け続けるものです。

 

逆に言えば「人権」は流動的にまた國家に対して従属しつつさう履行されて居るものだ。

と言うことは、「人権」は相対的にのみ實現し得るものでありまるで絶対的な尺度ではあり得ぬものです。

 

まさにわたくしのやうな隠遁者寄りの思想とは、さうしたデカい概念が必然として齎す社會的矛盾からむしろ個としての思考を救い出すことなのでもまたある。

だから其れは必然としての個人主義の形を取る訳ですがむしろ眞理に対し潔癖な分其れこそ「前向き」に且つ「積極的に」其の考えを指向して居る訳だ。

 

 

で、兎に角南禅師はズバズバとものを申されまさにソコが本を読んで居て痛快でありまた時折は「ドカーン」とやられたやうな気にさえもして下さります。

 

例えば、

「幸せになるのをやめる」ー「悟り」は開けない (ベスト新書) 197頁より引用

 

 

などとも述べられて居る。

エエッ?よりによって禅宗の御坊様がそんなことを言っても良いの?

 

いや禅宗の御坊様ならば如何にも言われさうなことです。

禅宗って何やらかうしてブッ飛んでますので其処から何が出て来るものやら正直なところ分かりません。

 

其の理由を南師はかう説明される。

 

 

其れは「幸せ」と云う概念では無く単に「好き」なことがやりたいだけなのだから何もさう大上段に構え「幸せ」であることに拘らずとも良い。ー大体の要約

さらに「幸せ」とは目標では無く結果であるとさう言い切られやう。ー大体の要約

 

逆に申せば、確かに人間は「幸せ」にならなければならぬと云う圧力を受けますと逆に「幸せ」であることから遠のいて行くかのやうに思われがちだ。

どだい「幸せ」である状態とは個々人の価値観により其々に異なる。

たとえば自称詩人はさうして「逃げるが価値ー勝ちー」だとさう思って居るのであるが読者の方々は皆が皆さう思っては居ないことであらう。

 

其れでもって変な奴だなと正直さう思って居るだらう筈だ。

 

 

でもって南師は「今日は幸せだった」とイチイチさう思わずとも「ああ、今日も一日終わったな」位な方がより望ましい幸せの捉え方だとさうも述べて居られる。ー大体の要約

 

ですがコレって凄い考え方なのだと私は思う。

其のデカい観念的目標に対しての本日を評価するのでは無く「今日がかうして普通にー小さくー終わったから」こそ「まあまあ」でありむしろ上出来なのでもあることだらう。ー大体の要約である私の創作部

 

其のデカい観念的目標に対しての本日の成果、成果に付随する価値の向上、即ち今日じぶんが進歩したかどうか、と云うことなど實は根本的にはどーでも良いことなのです。

重要なのはかうして日々を食って出して寝て過ごすことなのであり進歩の為にこき使われることでもまた皆が皆金持ちになり贅沢に暮らすことでもありません。

 

だからそんなもんは所詮は価値観の問題なので其れを個の領域へ押し付けるのであれば實は其処には近代的原理などまるで働いては居りません。

近代的原理とはさうして精神的に革命し個としての自由や独立を勝ち取らうとしたことであり、ところが實際には其れがまさに全体主義的に制約を受けるやうでは其れこそ人権の抑圧に他ならぬことでせう。

 

だから近代國家の基本構造を為政者や國家元首はまさに寸毫も理解しては居らぬ。

近代國家をやりアンタ方が如何にも偉そうにさうして振る舞うのであれば、其処に最低限個としての思考の自由は担保されたものでなければならぬ。

 

要するに私は文明の価値観に対したった今ほぼ全面的に反対して置きたい!!!

 

 

でも實際のところではどうぞ、どうぞ、御自由に。

ワタシはもうアナタ方とは違う宇宙に生きてますのでほんたうは螽斯では無く👽なのだ。

 

即ち宇宙詩人だと云うことです。

宇宙詩人さん、さても今日の宇宙の塩梅などは如何ですか?

 

いや、それがね、このところ何やら雨降りばかりで気が晴れぬ日々なのだ。

だが逆にそんな雨降りの日こそが沈思黙考するのには最適なのですが…。

 

 

其の後南師は世代論や自由の意味、さらにかっての学生運動や「オウム事件」に対しても言及されて居ます。

其処で何故知的エリート達が荒唐無稽な教祖の教えに嵌り込んで行ったのかと云うことに就き述べられて居る。

 

また「しらけ世代」ー我我六拾代ーからやがて「価値其のものが機能しない世代」ーオウム世代ーが生じ「価値其のものを考えぬ少年A世代」へと行き着いたとさうも述べられて居ます。ー大体の要約である私の創作部

さらに「ヲタク」のことに就いても言及されて居る。

 

其処では所謂「悟り世代」や「草食系世代」が其の「ヲタク」の価値観を母体として居る旨さえもが述べられて居る。ー大体の要約

つまり南禅師は此の世代に対する価値観を肯定的にさえ捉えられて居て、つまるところ彼等は「降りる」テクニックを持って居て「幸せ」ばかりを追い求めることに概して懐疑的だとさう仰る訳だ。ー大体の要約

 

 

でもって結論として「夢」や「希望」に追い立てられ「成功体験」を積み重ねて来た旧世代ー現在七十歳以上の世代ーが持ち得る価値観はもはや今の世の中では通用しないこと、さうした社會的条件其のものがもはや欠落して居ることをハッキリと述べても居られる。ー大体の要約

 

また「夢」に拘らずむしろ其れを見ずに自己の日常の歓びを其の小さな喜びを積み重ねていくべきだとも仰って居る。ー大体の要約

しかる後に「他人の役に立つ、嫌ではないこと」をやると云う価値基準への転換を勧められて居ますが此の部分に限り私は違う考えを持って居ります。

私の場合にはまさにソコを「他人の役には決して立たぬやう、好きなことのみ」を勝手に追求して行きなされとさう述べて居りますのです。

 

 

尚御自身でも述べて居られるのですが此の方は相当に「哲學」の出来る方です。

そんな南師は學生の頃もまた出家後も屡「哲學者」になることを周りから勧められたのださうです。

 

元々其の禅とは至極哲學的な部分をも含む教えでもある訳です。

其れは大元でのお釈迦様の思想が元々至極哲學的なものであり難解さを含むものでもまたあったからなのです。

 

お釈迦様の思想はまさにカント並に難解なのでもまたあるのだと個人的には思う。

其処を大乗の思想がある意味で嫌い変質させて行った訳です。

 

ですがお釈迦様の思想がまんまキリスト教化するのは矢張りどうかとも思われる訳なのだが…。

 

お釈迦様の思想には其の「夢」だの「希望」だの「発展」だの「現世利益」だのは全く含まれて居ないのだと思います。

お釈迦様の思想はまさに脱力系でありどちらかと申せばそんな「逃げ」系ですのでわたくしなんぞはむしろ頭を撫でて頂ける筈だとさうも思うのですが果たして其処はどうなのでせう?

 

 

ですから其のオウムの間違いは「逃げ」ずに「やりにやった」ところにこそある訳だ。

其れも死刑になりました新実  智光と云う男は三河出の秀才だったさうですが、あんなことを仕出かした割に本来は至極優しい人でもまたあったさうです。ー五歳下ですー

 

ですので兎に角其の社會の矛盾に対しまともに闘うのでしたらまあ左翼運動でも良いのですがー其れは表向きにはあくまで合法的社會闘争なのでー、實はわたくしの如くに逃げ回ることはむしろ壱番完璧な闘争でありいや闘争以前でのまさに逃亡なんですー。

ところが社會はむしろさうして逃げられるのが壱番困る訳です。

 

さうして逃げられるとたとえば税金も入って来ないし其れに統治側を尊敬せずむしろバカにして居るー其れも相手にさえして居ないー訳ですからそんなのは事實上思想犯として確實に反抗してる訳でせう。

 

だから社會にとり壱番憎たらしく壱番許せないのがまさにそんな世捨て人達なのですよ。

でも世捨て人は暴力革命だの人類抹殺だのを目指す訳では無いのであくまで平和ですよね、さう少なくとも其の平和主義者其のものだらう。

 

さうして至極平和なのですが實は左翼やオウム教以上に社會其のものを馬鹿にしておると言うそんな壱種おそろしくもおぞましき観念の世界での出来事に就き述べてみました。

 

 

さて事實上もはや現代社會はボロボロの様相を呈して来て居る。

ひょっとすればひょっとしてまさに此れが「神の怒り」なのやもしれません。

 

でも其れは「佛の諫め」では無かったのか?

うーん、さうですね、とりあえず佛は自己の内部にあるものと特に大乗思想ではそんなことが言われるのでどうも其れとはまた違うやうにも思われる。

 

では神様が怒って居るのか、其れもエホバの神様がさうして怒り狂って居られるのか?

まあ其の可能性もまた高まって来ては居ます。

 

だから今は是非神に祈りを捧げるべき時なのだと思われる。

 

 

でもさうして佛に帰依して居るのでは無かったのか?

第壱そんな神佛がごちゃ混ぜの状態でもって壱體どうやっておまえ自身が救われると云うのだ?

 

いや私はさうして結局ドチラも信じることにしたのであります。

其れにもはやドチラがどうのと言って居る時では無いので…。

 

 

嗚呼、其の破壊が、ハルマゲドンが!

最後の審判が!!

 

宇宙詩人!果たしておまえはほんたうのほんたうに眞面目に之を書いて居るのか?

僕はいつも至極眞面目です。

 

其れも至極眞面目にかうして叢へとまた山へと逃げて行くだけのことなのだ。

ですが其れもまたあくまで観念上はさうしたスタンスを取り生きると云うことだ。

 

 

どのみち人間と云う存在程罪深くしかも煩悩にまみれし者は他に居ません。

であるからこそ其の實相さえ認識して居るのだとすればどう生きるのかと云うことが自ずと分かって来る筈です。

 

ところがまさに其の認識が汚れたことで其のことがまるで見えなくなって仕舞った。

またオウム教にせよ根本のところではさうした危機感もまた抱えて居た筈なのですが其処で出来たこととは結局テロ犯罪のみだった。

 

其の認識の誤り、認識上の汚れを修復して行くには宗教へと寄り掛かって行く他は無いと個人的にはさう思います。

其れもまあなるべく正教の範囲にて其れを修復して行くべきかと思う。

 

 

私自身はかうして世を批判は致しますが人間を導く力など元より無い訳です。

むしろ自身が導かれたくまさに精神的に救っても頂きたい訳だ。

 

禅僧が教える心がラクになる生き方 | 南 直哉 |本 | 通販 | Amazon

例えばこんな本などもまた御座ります。

個人的に此の方の著作は間違い無い内容のものかと常にさう思って居ます。

 

 

高村薫 | 著者プロフィール | 新潮社 (shinchosha.co.jp)

尚たった今気付きましたが南直哉 『超越と実存―「無常」をめぐる仏教史―』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)でもって書評を書かれて居る高村 薫氏の筆力にはまさに圧倒されて仕舞いました。

かうして世の中には聡明な女性が居られるものですね。

 

其の書評を読み進めるにつれ毎回ウンコ、ウンコと叫んで居るじぶんが何やらとても恥ずかしくもなりました。

出来れば近く是非ウンコ離れしたいところですが果たして其れが成ることでせうか?