目覚めよ!

文明批判と心の探求と

カルトな旅ー六 死の観念と観光旅行(長野県)ー

俳優の千葉真一さん死去 82歳 新型コロナ感染による肺炎

かの千葉 真一氏が本人の意向でワクチン接種をせずに82歳にて永眠す。

いやー、また素晴らしく男らしい死に方だな。

 

尚私も何時死ぬものかまるで分かりませんのでもしも壱ヵ月程出て来なくなったら死んだものと思って置いて下され。

尚お香典もまた献花の類も結構です。

 

只私の作品を読み返し故人を偲んで下されば其れで宜しい。

 

 

さて其の概念分別上の∞の正の価値ヒエラルキーの追求こそが我我自身を追い詰め今後何処までをも「苦」を生み出して行くのだと言って良いことだらう。

其処での鍵は其の∞と云うことにまさにあり要するに其れはすでに歯止めが効かない、其れも社會が奉ずる思想としてさうなって仕舞って居るものだからもはや如何ともし難い訳だ。

 

其の如何ともし難いものは本来ならばじぶんのケツはじぶんで拭くつまり下の始末位はたとえ幼稚園児であれやれる筈なので自分でもってしかと後始末をして行く他は無い。

だが始終其れに付き合わされて居れば其れこそ気が狂いさうにもまたなるので其処は社會とは一線を引き精神的に隠居するのが壱部の頭の良い人のやることなのだと思われる。

 

 

南直哉『死ぬ練習』――「自分を大切にしない」姿勢とは何か - 佐藤美奈子|論座 - 朝日新聞社の言論サイト (asahi.com)

 

尚本日はこちらをテキストとして其の「死」と云う論題に就き論じていくこととしてみやう。

ちなみに私は其の南直哉著『死ぬ練習』(宝島社)と云う本をまだ読んで居ない。

 

是非読みたいとは思うのですが、本は其れこそ死んだりはせぬものなので焦って読む必要などは無い。

 

で、以前から私は「死」に就いて語っても来た。

其の「死」こそは實存の崩壊でありまさに此の世との別れのことである。

 

此の世がもしも樂園であるのならばまさしく其れは樂園の喪失であり且つ愛の喪失である。

尤も其の愛とは所謂エロース的な愛のことで眞の愛即ちアガペーの次元では神のみが其の其の愛を受け止め且つ与える存在でもある訳だ。

 

エロつまり👩の裸、また其処からポコッと出て来た子供、さらに可愛い🐈や🐕の子。

其れ等に対する愛もまた其のエロース的な愛即ちエロ愛のことだ。

 

 

エロガッパ―ーー。

 

何ですか、其れ?

所詮はさうして壱匹のエロガッパでのことでした。

 

エロ愛はしかし常に限定されて居る。

何故限定されて居るのかと言えば其れはエロ即ち肉体ー物質ーに規定されし愛だからなのだ。

 

然し神への愛即ちアガペーの場合は其の肉體をも超越する愛である。

だからキリスト教ではたとえ死んでも猶神に愛されて居る。

 

なので其の後善人とされれば神の國へと再生することも出来やう。

また浄土教の信者は「南無阿弥陀佛」と唱えるだけで西方の極楽浄土へと往生し其処で佛になる為の修行を開始するのだ。

 

往生の本来の意味は、仏になり悟りを開くために、仏の国に往き生まれる事である。よって、往生の本義は、ただ極楽浄土に往く事にあるのでなく、仏になる事にある。ー往生より

往生とは極楽往生浄土往生といわれるように、人間が死んで仏の国に生まれるから、一般的に死後の往生の意味である。しかも、往生する世界は仏の世界であり、そこに生まれる事は成仏する事である。そこから意味が派生して、往生とはになる事と考えられ、往生は現実にはであり、さらに仏になることなので死んだら仏という考え方が一般化したと考えられる。中でも老衰やそれに伴う多臓器不全などの自然死による他界を大往生と呼ぶことが多い。ー往生より

何故仏国土に往生する事が、成仏の方法となるかというと、成仏には、仏の導き仏による成仏への保証(授記)がなければならないからで、これらのない独自の修行は、阿羅漢(あらかん)や辟支仏(びゃくしぶつ)となる事は出来るが、それらになると二度ととなる事が出来ない、と大乗仏教では考えられていた。
仏教さとり無我の証得である。自己の空無なる事を悟るためには、修行している事に「自らが」という立場があってはならない。自我意識が残る限り成仏は不可能とすれば、自我意識の払拭は自己自らでは不可能となる。ここに、成仏に逢仏見仏を必要とする理由がある、というのが浄土門の立場である。ー
往生より

 

但し其の極楽浄土へ往生すれば即佛になれるなどとは誰も言って居ない。

だから其の「死んだら佛」、「死んだら涅槃」と云う考えは完全な誤解で普通人間が死ねばその辺の動物の死骸と同じやうに腐り果て骨と化し其れもやがては朽ち果て土へと還る訳だ。


だが浄土教の信者は死に対し強くなれる。

其れは何故か?


何故なら死への恐怖もまた死に際しての痛みや苦しみも全てを「極樂往生」と云う観念が支えて居るからなのだ。

また其れこそがキリスト教に於ける神による救済、神の國に於ける善なる魂の復活と云う観念的な支えとほぼ同じものでもある訳だ。


まず其のやうに観念的な存在である我我人間は観念的な支え=観念による支えを是が非でも得やうとする。

ところが常に死は観念を離れた存在なのだ。


つまり死は観念でははかり知れずむしろ其の肉體としての死に其れが引き摺られて行く形でのものなのだ。

故に其れは怖い。


逆に申せば我我が知り得る死のイメージとは観念が形作るものであるに過ぎずしかしながら死は確實に其の観念の期待を裏切り未知の領域で行われるものであるが故にまさに其れが怖い訳だ。



問題は其の死が他人事では無いからなのである。

其れは自己と云う實存に与えられしひとつの試練である。


要するに誰も代わりには死んでは呉れぬ。

だから自分でもってしかも独り死んで行かねばならない。


ですが神や佛ー阿弥陀佛ーに救って頂けるのであれば其れは究極としての観念の助け舟である。


だから全てを其処に預ける。

私は其れもまた現實的な意味での人間の救済法なのだと考える。


尚先に無神論者のことを述べたが、かように浄土教は構造的に壱神教化しても居りまた禅宗やさらに原始佛教ともなれば無神論化する訳だ。

だが佛教はまさに佛を信仰する無神論なので其れは超越的な存在を全否定する現代の無神論とはまるで異なって居る。



さて我我人間は「死」其れ自体には触れることが出来ない。

其のことを實はわたくしも以前から此処で述べて来て居た。

 

ー著者は言う。死は「絶対にわからない」から、経験として語れないにもかかわらず、世の中には「死についての語り」があふれている。つまりそれらはほとんど、死に至るまでの話(「老いと病と我が身の始末についての話」)や、死後についての話なのだ。

 こうした話の需要が「厳然と、しかも大規模に」あるのは、死への不安が拭えないからであり、なぜ拭えないかと言えば、死には腑に落ちる根拠や理由がないからだ。そして根拠や理由の不在をさらに追求すれば、そもそも自己の存在というものに根拠や理由が欠けていることにも思い至る、と。ー南直哉『死ぬ練習』――「自分を大切にしない」姿勢とは何か - 佐藤美奈子|論座 - 朝日新聞社の言論サイト (asahi.com)より

 

しかしながら其の「死」の問題は須らく「生」の問題へと帰結することだらう。

何故なら「死」を観念を離れたものとして規定し得ぬのであるから其の「死」はむしろ生の側での問題なのだ。

 

即ちまさにさうして「死を怖がる」我我の問題なのであり何故其れが怖くもあるのかと云う類での問題なのだ。

左様に「死」其のものとまた「死後」のことは壱神教か其れとも浄土教に其の恐怖ごと丸投げすれば良い話なのであり問題はでは其れ以外の人々はどう死ねば良いのかと云う点に尽きて来る。

 

 

ー「神」の存在を「自らに引き込むこと」で、「根拠と理由への欲望に応え」るわけだ。「一神教浄土教の説く教説を全面的に信じることができるなら、心配は何もない」。死への不安は和らぎ、人は落ち着くことができる。

 しかし、「絶対神的なものにコミットしない」一般の人々にとって、死を受容するのはそれほど簡単ではない。宗教が提供する意味やストーリーに「素直に乗れない人」たちは、死を「丸吞み」するしかない、と著者は述べる。ー南直哉『死ぬ練習』――「自分を大切にしない」姿勢とは何か - 佐藤美奈子|論座 - 朝日新聞社の言論サイト (asahi.com)より

 

 

左様に理性的でもまたある現代人は純粋な意味での信仰を持ちにくくなって居る。

だが私はまた其れとは違う捉え方をして居る。

 

何故なら理性的である者はむしろ信仰を最も大事にする筈なのだ。

逆に中途半端な理性、生半可な知識の集積がさうして宗教を馬鹿にしてかかる訳だ。

 

でもアンタはさうして社會を馬鹿にして居るじゃないか。

だが社會と宗教はまた違うぞよ。

 

社會が制度的構造的にオカシイから其れを批判するだけなのであり私は宗教が悪いなどとは一言も言って居ない。

 

 

ともあれ現代社會に対し我我が感ずる不安とは妄想や杞憂の類では無くむしろほんたうの意味での不安であり危惧なのだ。

だから其れを救うのが宗教の役割であり何故なら他のものでそんなデカいものをまさか救う訳にはいかぬ訳なのだから。

 

其の神の領域でのやうな絶対的な指針のやうなものを現代社會は与えては呉れない。

現代社會はむしろ我我を惑わせに惑わせさらに無能として判断されれば容赦無く個を切り捨てにかかることだらう。

 

左様に無慈悲且つ人殺しなのは誰あらう其の現代社會其のものである。

故に其の社會への不安をむしろ信仰の面へと是非転換して行くべきだ。

 

 

ーそして彼の経験によれば、死を「丸呑み」するには、3つほど方法があるという。ー南直哉『死ぬ練習』――「自分を大切にしない」姿勢とは何か - 佐藤美奈子|論座 - 朝日新聞社の言論サイト (asahi.com)より


1,「体当たり玉砕」法

2.「90歳超え」法

3.「自分を大切にしない」法

南直哉『死ぬ練習』――「自分を大切にしない」姿勢とは何か - 佐藤美奈子|論座 - 朝日新聞社の言論サイト (asahi.com)より

 

 

實は佛教で問題とされることは「死」其れ自体なのでは無く「死」に於ける「苦」の発生なのだ。

何故なら「死」其れ自体は操作出来ず何故なら其れは観念を離れた現象であるからなのだ。

 

だが動物は動物でさうして死ぬが其れがイヤだとか其れを思うと辛いなどとはまさか思わぬものなのである。

但しイザ死ぬる時には苦しそうにし哭いたり喚いたりもまたすることであらう。

 

ですが其の肉體の苦はたとえ神であれ佛であれ消し去ることなど出来ぬ相談だ。

其れは其のひとつきりの現象であり神であれ佛であれまさに代わりやうの無いものなのだから。

 

 

だから宗教は其処を問題とするのでは無く、如何にして「観念的に死ねるか」と云うことをまさに學ぶ場なのだ。

だが現代人はもうずっとそんな領域のことを軽視して来た。

 

其れは宗教側の責任であると同時に現代人自身の責任なのでもまたある。

我我はさうして社會にこそ此の現代社會にこそ全ての価値があるとさう信じ込んで来た。

 

だがどうであらう。

さうして社會の歯車は壱つ狂えば全てが狂う。

 

であるからこそ是非自身としての価値を構築して置かねばなるまい。

むしろ其れが他をも大事にしまた自身をも救う契機なのだ。

 

 

ー「自分を大切にしない」、つまり他者との共通の問題に取り組む姿勢が大事なのは、自分の死に臨む時だけではない。「大切な他者」の死を受容する場合にも、この姿勢が鍵なのだ、と読み進むうちに気づかされる。

 死は「絶対にわからない」ものの、死への「意識」は誰にもある。だからこそ人は「未来」や「自由」を実感できる、と死をめぐる議論の前提に立ち戻って著者は確認する。生の「イメージの鮮明さは、死を光源にして」おり、死は生に対して決定的な力を持つ。そう語りながら、死の「意識」に強烈に影響を及ぼすのは「大切な他人の死」であることに、注意を促していく。宗教が提供する意味やストーリーには素直に乗れなくても、自らの人生で紡ぎ/紡がれた意味を噛みしめずに、人は死ねないものだ。そうした意味を紡ぎ出すには、「他人」「他者」の存在が不可欠なのだ、と。従って「自分を大切にしない」姿勢がなぜ大切なのかが、おのずと理解されてくる。ー南直哉『死ぬ練習』――「自分を大切にしない」姿勢とは何か - 佐藤美奈子|論座 - 朝日新聞社の言論サイト (asahi.com)より より

 

 

其の「自他」の解釈の課題こそが近年私の頭の中で巡りに巡りある意味で其れにずっと苦しめられても居たものだった。

其の観念的課題を解決する為の壱つの鍵が「自灯明」と云う釈尊御自身による教えにこそあった。

 

さて「無我」でありまた「利他」であること。

まさに其れを大乗佛教は重視する。

 

だがほんたうは其れは「非我」であり「排他」では無いのか?

 

お釈迦様はさうしてむしろ孤独に哲學されることこそが性に合う方なのでもまたあるらしかった。

だからおそらくは王族同士で宴会をしたりまた美女を宛がわれたりすることがイヤでイヤでたまらなかった筈なのである。

 

かうして人間には持って生まれた心の性分と云うものがしかとある。

 

 

諸法無我即ち何処にも我などは無い。

所詮はさうなのであればどんな我もまた無い。

 

若い頃に法華経の教えに帰依したわたくしは其れが正しいのだと常にさう信じ込んで居た。

だがお釈迦様は例えばインテリ層には逆の教えを説かれて居たものらしい。

 

インテリはさうして何せ頭の中が眞っ暗なので兎に角悲観へと傾き易い。

だからおまえはもう諸法有我であり諸行常住であることを信じて宴会にも出よ、さらに👩にもちょろりと触れ!

 

 

まさか!!

 

まさか、まさかまさかまさか!!!

 

 

結論としてようやく其処から其のお釈迦様の両極否定の論理の様が何となく分かって来たのである。

で、其処でもって結局無我では無く非我であることにもようやく気付けた訳なのだった。

 

つまるところ我我は眞の意味での我を見詰めては居らずかうして虚としての我を信奉して居る。

其の虚としての我とはむしろ社會が我我に対し強いて居るものなのでもまたある。

 

大乗佛法がさうして利他行を重んじるのは其れ自体が変容した佛法であり其れが何故さうなったのかと言えばまさに「人間は悟れない」からだったからなのだ。

但し其れが悪いと言って居るのでは無く、謂わば、

 

大乗佛教⇔原始佛教

 

との佛教内での分裂が生じて仕舞って居たからなのだ。

 

だから大乗佛教では壱般に「我は無い」とされるが實は其れが「其れは我には非ず」とのお釈迦様の眞意であった可能性がまた高い。

 

「我は無い」のであれば価値は他へと丸投げされるので後は全部がもう「他の為に生きませう」と云う論理とならざるを得ない。

ところが其れをやったが最後キリスト教化するか又は壱神教化して行く感はどうしても否めない。

 

 

でもかの宮澤 賢治も實は其処のところで酷く悩んでも居たのだった。

事實詩人は其の晩年に自分がやって来た法華広宣流布行としての利他行をむしろ否定するかのやうな発言さえして居たのだ。

 

即ち「他」の為にこそ生き自らの幸福を決して願わなんだばかりに病を得て早死にすることと彼はなって仕舞う。

だから私はそんな心の清い彼ならばむしろ👩教師が押しかけて来た時に所帯を持つべきであったとかって此処でさう述べた訳なのだった。

 

 

ーそして、ここにこそ仏教の出番がある。仏教の立場を代表する「無常」「無我」「縁起」という考えはいずれも、「常に・変わらない・そのもの自体で存在するもの」を否定する。同時に、「私」という自意識を融解させ、自己は「自己以外のものとの関係性から構成される」ありようを提示する。通常は疑わずにいる「自己」や「私」の存在を、それらが実は「他者」なしには成立しないと示すことで、死に臨んで呼び覚まされる世界が不安や恐怖だけでないことに気づかされる。こうした立場で死を考えたとき、砕いた表現でいう「自分を大切にしない」姿勢が仏教的に最も勧められる、というわけだ。ー南直哉『死ぬ練習』――「自分を大切にしない」姿勢とは何か - 佐藤美奈子|論座 - 朝日新聞社の言論サイト (asahi.com)より より

 

さうして此の世の全てのものに自性が無い。

まさに其のことは眞實なのだ。

 

逆に言うと自性が無いからこそ自性としての佛をまた希求するのやもしれぬ。

だがさうして求められた佛とはまたウソの佛、ニセの佛である可能性もまた出て来る。

 

観念とは所詮さうしてウソコキなものなのだ。

 

尚私は今あらゆる想念としての活字や言葉を自分の歩んで来た観念的過程に寄り沿わせ部分的に其処に取り入れる形にて慎重に吸収することとして来て居る。

要するに決して其の侭には取り入れて居ない訳である。

 

故にまさに其の「他者あっての自分」なのだが、「他者が間違って居ると自分にも其の間違いが移る」こともまた確かなことなのでもある。

まさに其れは眞我の破壊であり地球の破壊なのでもまたあることだらう。

 

 

尚今回つい南師に反抗するやうなことまで述べてみたのだったが、南師御自身は實は現代文明其れも資本主義経済体制に対し極めて批判的な方なのでもまたある。

結局資本主義はダメだ、位なこともまた實は言われる方なので其処は是非気に留めて置く必要がある。

 

ー同時に、「自己」に囚われず他者との関係性に目を向けさせる仏教の考えとは真逆な方向に、現代の資本と市場の論理は人々を誘導し続けている、と著者は危惧する。同感だ。自殺者が増え、リーダーは「自助」「共助」「公助」のうち「自助」を真っ先に推奨する。こうした社会では、「自己」への幻想を解毒する仏教的思考と実践が何より有効だ、との感を強めている。ー南直哉『死ぬ練習』――「自分を大切にしない」姿勢とは何か - 佐藤美奈子|論座 - 朝日新聞社の言論サイト (asahi.com)より

 

ほらね、其の通りでせう。

また其のリーダーが「自助」努力ばかりを強調するのは現代社會のリーダー其れ自身が壊れて来て居る証拠だらう。


現代社會のリーダーは自分ばかりが肥え太りたがるしかも近代社會に於ける社會契約の根本の部分さえもがまるで分かって居ない大馬鹿者ばかりである。

まさに其れはギロチン刑の対象者ばかりでもあると云うことだな。



尚本日もまた夕方から豪雨が降り始めた。

だから其の点がむしろ気にかかる。


何故なら人間の観念の世界の誤りはまさに何とでもなる世界のことだからなのだ。

だが壱番怖いのは此の種の「自然」の「破壊」である。


第壱こんなに雨降りばかりだと夏休みもクソも無くまた海も山もまた無い。

其処からすれば矢張り昔は良かったなあ。



我我が小学生の頃夏休みは兎に角外ばかりに居たものだった。

セミがいつも鳴いて居て兎に角うるさかったものだ。


だが最近其のセミが鳴いて居ないのは果たして何故なのだらう?

またアゲハ蝶などもまるで見ない。


かうして人間ばかりが繁栄すると自然が壊されて行くのは果たして何故なのだらう?




開田高原 - Bing images1

開田高原 - Bing images2


其の開田高原へ行きたい!



御岳山 - Bing images1

御岳山 - Bing images2

御岳山 - Bing images3

御岳山 - Bing images4

 

其の御岳山へ行きたい!



と思いつつ100分de名著の「正法眼蔵 道元ひろさちや著を本日半日でもって読み返しました。

其の感想は「道元禅師のお考えも矢張り何処かブッ飛んで居た」ことでした。

 

 

古民家宿 旅館 ふもと屋【公式サイト】 (kaidasoba.com)


さて其の開田高原でもって是非御勧めしたいのが此の宿です。

實は此処が弟の嫁の親戚の家です。


昔弐度程訪れましたが、

1.古民家としての佇まいが重厚でもって最高

2.開田高原其れ自体がもう最高のロケーション

でした。



何せ木曽馬ー木曽馬の里ーも居ますし蕎麦も採れますし御岳山は近くに見えコスモスも咲き白樺並木もあります。

また温泉も御座ります。


が、其の温泉のやまゆり荘が今はやって居ないやうです。


ですが「ふもと屋」の風呂がまた良い。



其れでは此の「ふもと屋」の重厚な館内を是非ご堪能あれ!

歴史香る館内|古民家宿 旅館 ふもと屋 (kaidasoba.com)

また此の風呂が最高で、無論のことヒノキ風呂です。

しかも宿泊料金が安くてビックリする程です。


でも今予約出来るのか、また宿をやってるのかどうかは分かりません。


また開田高原にはブルーベリーファームも御座ります。KAIDA FARM (hif.jp)

 


さうだ、今こそ、今こそ我我は是非観光旅行へと立ち上がるべきなのだ!


何そんな気にはまるでなれない?

此のいくじなし共めが。


夏休みはもう今年で終わりだぞ。(?)

だから死ぬ気でもって遊んで来い!!



いや夏休み気分に浸るだけでも何やら非常に有難いものです。

どうも有難う御座りました、合掌…。


ところで皆さん、どうせコロナに罹り死ぬるのならこんな自然の懐に抱かれて死にたいとさう思われませんでしたか?

もう僕などは明らかにさうしたいところです。


實際もはや其れ以外にどんな望みも無い。

さうして自然こそが最高の価値です、我我は其の自然の僕でしかあり得ません。