筆記詩人が筆記に求める其の本格性とは?-かうして自己本位に筆記具を価値化する御話
さて本日もまさに秋晴れの壱日にて本来ならば掃除に勤しむべきなのだが結局天気が良い=光の良い日には決まって遊んで仕舞う。
でもって昨夜は改造ボールペンを其れも夜中迄製作して居たがまた其れが凄いモノが出来て仕舞った。
僕はどうもかうして改造が出来る人間であり他方では常に體制をブチ壊すやうなこと述べるので結局は其れも同じやうなことなのか。
尚其のボールペンのことは画像を付けぬ限り實質的には説明出来ない。
我が改造したモノは大抵此のやうに壱種複雑怪奇なので言葉にて其の不思議さの全貌をお伝えすることはなかなか難しい。
ちなみに壱言だけ付け加えれば、ズバリ其れは万年筆をボールペン化した物である。
だから其れはサイズが大きく如何にも立派なボールペンとなって居る。
尚此処弐年程はさうして万年筆をボールペン化することが多い。
其の理由は、
1.万年筆はペン先周りが複雑且つ繊細で其の部分が壊れ易い
2.だが万年筆の軸は概して市販のボールペンの軸より高級である
3.我はボールペンをバカにして使わぬ愛好家では無くむしろ現在では筆記に於いて六割方程はボールペンを使う
とのことより要するに所謂本格的なボールペンが欲しいのである。
其れも、
4.ボールペンの芯代だけかけた上で凄いボールペンが欲しい
のだ。
尚ボールペンの高級版などはまさに巷に溢れても居やう。
要するに金さえかければ高級ボールペンは幾らでも手に入る。
されど我が筆記具趣味はさう云うのとはまた違う。
尤も其の高級な筆記具のことにかけても我は實に良く知って居る。
なんとなればかって我はまさに其の高級な筆記具のコレクターだったのだから。
だけれども其の高級な筆記具のコレクターでもって終わらぬところがこんな筆記詩人のユニークなところなのだ。
でもってして我が今筆記具の価値として重視して居ることとはズバリ筆記具を選ぶ際の自律性である。
其れを噛み砕いて言うと、
壱、世間に於ける筆記具に對する価値尺度に惑わされず
弐、あくまで自分が良いと思った筆記具とトコトン添い遂げる
と云うことだ。
つまりは所謂「自己流」の筆記具解釈をかうして押し進めるに及んだ。
だから高価な筆記具が必ずしも筆記詩人に取りサイコーの筆記具とはならない。
勿論高価な筆記具には其れなりに価値があり故にタダで呉れると云うのであればどうも有難うと頂きますが其れが必ずしも我に取りサイコーの筆記具となる訳ではないのだ。
例えば昨日作りし此の八角銀胴軸のボールペンは今日の我に取りほぼサイコーの品である。
其れは見た目にはまさに変で筆記具愛好家の面面に或いは笑われる虞などもあるがあくまで我に取り其れはほぼサイコーの品である。
また弐週間程前には廿年程前にセリアで求めた百円ボールペンを復活させJS芯仕様となして居る。
實は其れもまたあくまで我に取りほぼサイコーの品なのだ。
左様に筆記具趣味、また石趣味、さらにあらゆる物に對する趣味には實はさうした意味でのディープな世界が拡がって居る。
さう言うと或はお若い方方には分からぬものかともまた思われるが長年に亘り其れをやった方方に對しては通じることかとさう思うのだ。
其のやうに「価値認識の自己化」と云うやうなことを此処数年來我は物心両面に亘り行って来て居る。
まさに其れは「無我」化するのでは無く「有我」化する試みであり所謂「虚我」=世間體を生きるのでは無く「眞我」=内面としての實存的価値を生きると云うことなのだ。
まさに其れを精神的にまた同時に物質的領域にても行う訳だ。
或は少し話が難しい?
ではもっとカンタンに言えば言わば自己本位、自分本位に価値を組み上げて行けば其れで良いのである。
其の自己本位、自分本位に価値を組み上げることの具體例こそが筆記具の改造である。
さて其の筆記具の改造であるが、
5.其れは犯罪では無い
6.其れは謗法には非ず
7.金がかかって居ない
とのことより實はすげえ行いである。
さて我は以前東京の社長さんで高名な万年筆コレクターの方と懇意にさせて頂いて居り兎に角色んなことに就き教えて頂いたり自分のペンを送り改造して頂いたりもまたして居る。
同時に神戸の大學の先生ー大阪大學の教授の方ーで古典的な萬年筆のコレクターの方ともまた懇意にさせて頂いて居りこちらの方からもまた影響を強く受けたものだった。
だが我は元來保守的でもって極めて頑固なところのある人間なのでどちらかと言うと次第に現代の万年筆其れ自體を批判する側へと回った、つまりは其の大學の先生の御趣味と言うか象牙の塔としての価値観と言うかそちらの方へと進んで行ったのだった。
要するに我はアカデミズム其れ自體が嫌いでは無く何故かと云うと最終的に知性はアカデミズム其れ自體の権威主義を否定するに至る力をもまた秘めて居るからなのだ。
でもって古典的な萬年筆を扱うまさに高尚な萬年筆愛好家となり壱種威張っても居たのであった。
だが其のW先生程の學も無いのに威張るのはちとオカシイので同時に學の方もまた仕込んで行った。
だけれども其の東京のYさんの改造と云うことがまた懐かしく思い起こされるのである。
Yさんは工場を経営されて居たやうで兎に角手の動く方であり其の点ではW先生とはまた違って居られる。
でもって其れにも感化されたのか拾五年程前から我は筆記具の改造をするやうにまたなったのだった。
ところが壱方には其れこそ厳密に程度の良い古典の萬年筆を保持して行くと云う姿勢もまたある。
なので其れは使ってもイケナイのだしましてやインクを入れたりしてもイケナイのだ。
要するにあえてさうして死蔵し萬年筆を文化として保存するのである。
まずはソコ迄の域に達すること自體が万年筆愛好家としては珍しいのである。
ですがかって我の場合はあくまでソコへと到達した。
なのだが其の壱方でかうしてやりたい放題での筆記具の改変をまた行う訳だ。
尚其の改造に就いてはあくまで直接に東京のYさんの改造から大きく影響を受けた訳では無い。
何故ならYさんは主にペン先の方を弄られるが我の場合は主に軸の方の改造である。
尚其の筆記具の軸はペン先やペンポイント以上に大きい要件である。
何故なら軸が悪いともはや其の筆記具を使う気にはなれぬ。
尤も軸が幾ら良くてもペン先やペンポイントが悪いとまた自分に取っての良い筆記具とはならない。
要するに筆記具の世界もまた其の弐元的要素に分離されて居るのである。
またさらに言えば人生其れ自體が其の弐元的要素に分離されて居るのである。
と申すか現存在の認識其のものがまさに其の弐元的要素に分離されて居るのである。
まあ其の哲學の部分は脇に置くとして、兎に角其の改造は至極樂しい世界でのものだ。
例えば今此処に使わなくなった伊太利亜の銀製の八角軸が転がって居るとしてみやう。
其れは拾年程前にすでに壊れてさうしてキャップを失いタダ転がって居る。
では果たして其のペンは幸せなのか?
いやすでに筆記具として其れは死んでるから幸せでは無い。
より正確には其のやうな無駄が生じて仕舞って居ることこそが我に取り幸せなことだとは言い難い。
うーむ、しかしながら如何にもコイツはまだまだ使えさうだ。
どだい其の銀製八角形の胴軸は最低五萬程出さねば手には入らぬことだらう。
でもって或る日突然にやる気が出て其の改造が始まる訳だ。
また其の改造の過程は所謂直感に基ずくものでありつまりは場当たり的なものでマニュアル化出来ぬものだ。
要するに壱種職人技的か又は藝術的な作業なのだ。
ではまず此の銀製八角形の胴軸に首から錐を突っ込み穴を開けてみやう。
ギリギリギリ。
結構苦労しおまけに左手にキリが刺さったりもしたが余り血が出ずに済んで良かった。
確か半年位前の改造では左手にキリが深く刺さり凄く血が出たのであった。
さて其処へボールペンの芯を入れねばなるまい。
おや、此れではJS芯は無理だな、其れではパイロットのアクロボールの芯BP替芯適合表_2022版 (pilot.co.jp)の方だ。ー其のパイロットのアクロボールの芯の方がスリムであり改造には良く使うー
ところが其の芯が其の侭では入らない。
何故ならペンの内部でピストンの部品が固着して仕舞って居りしかも首軸も取れないので其れを取り除かうにも如何ともしやうが無い。
では早速にアクロボールの芯のカットである。
さて芯は入った。
ではコレをどう固定するかだ。
結局今回の場合は家へタダで送って来るボールペンのソケット部と四半世紀前に丸善にて求めたステッドラーのペン型消しゴムに付いて居た固定の為の部品を組み合わせ其れを固定した。
ーとある會社が販促目的で以前商売を會社組織にして居た家へボールペンを定期的に送り付けて来る、故に其の會社名が其処には印刷してあるー
やったー、此処までは完璧な改造だ!
では早速書いてみやう。
キャー、然し良い書き心地だな。
あれえ、でもインキが切れたぞ…。
ー其のインキが途切れる場合には芯の後端部に錐で穴を開けると直ることが経験上分かって居るー
さて完全に直った。
さーすがは僕だ。
次にキャップを被せてみやう。
ーキャップは無しでも良いのだが我は長い軸を好むのでさうしてキャップを被せることが多い
但しオリジナルのキャップには非ずで、其の銀製のキャップはすでに他のペンのキャップとして使われて居る訳だー
勿論我が持って居るキャップ部品の中に嵌る物が見つからぬこともまた多い。
だが古い日本のインキ止めの萬年筆のキャップがたまたまピタリと合った。
そんな作業の積み重ねの後に其の壱本は仕上がった。
では此れにて何かを書いてみやう。
「無頼派」
「地球温暖化」
「逃げたい」
「美少年」
おおまさに完璧なボールペンが今此処に完成せり!!
さらに何かを書いてみやう。
「愛知県には佛像が何故か多い」
「教育委員会」
「秋の日のヴィオロンの溜息の…」
「つまりはみんなが馬鹿だな」
うーんもう完璧だぞ、完璧!!
さても此の苦労を重ねて創った壱本と其の辺に売られて居る高級ボールペンとではどちらがより大事なのだらうか。
ちなみに此処弐月ばかりの間に八本程改造ボールペンを仕上げて来て居ます。
其れも、
万年筆→改造ボールペン
とした物ばかりだ。
但し、
ボールペン→改造万年筆
となす場合などもまたたまにあります。
さて此の改造ボールペン製作の理由の大元には壱つの事情がある。
其れ即ち、
8.以前集めた伊太利亜や中國の万年筆の軸の有効活用
9.また其れ等に重い軸が多いこと
がまずは挙げられる。
以前我は正統派としての独逸や日本の限定万年筆のコレクターだったー主に九拾年代にーが同時に伊太利亜や中國の万年筆をもまた蒐集して居たのだった。
ところが伊太利亜や中國の万年筆は概ね軸の方の作りが悪い即ち大雑把にて拾年、廿年経過すると壊れて仕舞ったりもするのである。
だが其れ等は部品としてはむしろかうして大活躍する訳だ。
即ち其処では正の価値ヒエラルキーがむしろ無用のものと化すのである。ー売られて居る高級ボールペンこそが良いとされる価値ー
要するに其のマイナスとしての負の部品としての価値が逆に有用な物へ、いや自らに取ってのむしろ唯壱の貴重な価値へと変貌を遂げる訳だ。
さう、まさに其れがオンリーワンの価値として今かうして我が目の前に組み上がり其の能力を発揮して居るぞ。
今僕が現代文明に對し言いたいことの全てがむしろ其のことなのだ。
さうして価値は文明の推進者側が勝手に決めるー所謂進歩思想として決めるーものでは本來無く元來ならば其の生きる上での価値ー實存としての価値ーとはかうして如何にも自由であり且つ創造的なものなのではないか。
また其れが個の範囲にて成就されるべきことなのだ。
尤も今我我はかうして文明の押し付けた範囲で物事を共有する他は無いが其の中でもかうして個性化と自由化を同時に實現することは常に可能である。
などと今回はまた単なる筆記具の改造話と文明批判の部分とをくっつけてもみました。
さらに申せば其のオンリーワンの価値は文明の提示する新しいものばかりの価値よりもむしろ物が良い訳です。
尤もアナログの物に限ればと云うことです。
デジタルの物はどう考えても確かに新製品の方が良い。
ですがかうしてイザアナログの物の中でオンリーワンの価値を築いて仕舞うと其のデジタルの新製品の価値は不要であるとさう見做すことさえもが可能となる。
其れも實際には生活の中でデジタル的な価値を否定するには至れぬ訳ですが少なくともアナログ的な物の追求の中では其の個性化や自由化が果たせると云うことをこそ今回筆記詩人は述べてみたかったのです。
まあ其れも可成に経験値が必要であらうことは申すまでも無いことですが…。
さうしてとどのつまりはモノに限らず思想面でも其のことは成り立つ道理であり法則の如きものなのだらう。
だから世の意識が高い系の方方が新製品などには群がらず其れこそ田舎でもってかっての民藝運動などを學びつつも落ち着いた暮らしを営むことなどにも其れが繋がることなのではないか。
でもって僕の意識はかうして筆記具に関してはもうどうしても高くある。
なので其れはもはや誰も否定し切れません。
其れもまあ石の方では大したことは無いのだがかうして筆記具にかけては誰にも負けませんのでね…。
そんな筆記具に於ける独走態勢のわたくしもかってはさうして師匠の方方に恵まれたのだった。
其れも関東と関西の双方にまさに得難い先輩が居られたのです。
なんですが、其れもあくまでワタシはワタシで他の誰も代わりやうが無くつまりはオンリーワンとしての實存的価値なので別に卑屈になる必要などはありません。
むしろワタシはかうして威張りちらかすのでソコがまるでかの信長公並に嫌われたりもまたするのでせう。
其の改造ボールペンのデータ
全長177ミリ、重量38グラム、重心位置が六對四
胴軸が銀製軸なので35グラムを超えるのは仕方の無い部分です。
ちなみに其の177ミリは自分に取っての理想的な筆記具としての長さである。
ー長年に亘る筆記體験より導き出したところでの自分に取っての理想的な筆記具の長さー
尚先程伊太利亜と中國の特に現代の万年筆ー其れも九拾年代物ーの軸が重いと云うことを述べました。
ところが實は其の重い軸こそがボールペンのペンポイントとの相性がむしろ抜群です。
即ち、
「ボールポイントの筆記具は軸が重い方が書き心地が良く感ぜられる」
のです。
ところが勿論軸が重過ぎれば書きにくくもなるのでとりあえずは35グラム辺りが限界となる。
ところが177ミリもある大きなペンでは實際には40グラム辺りまで許容されるものともまたなる。
ちなみに個人的にはボールペンもまた大きなペンの方が書き易く感ぜられる。
また大きなペンはペン其れ自體に存在感があり失くなったりもまたしにくいものとなる。
尤も其れは机上での話です。
我が携帯する筆記具は軽くてしかも小さい百円の筆記具ばかりである。
つまりは其の机上での筆記と戸外での筆記は本質的に異なるものである。
また我は机上での筆記具に限り本格性のある物を常に求めて居るのです。
其れも所謂高級感なのでは無く筆記上の本格性をこそ兎に角其処に求めて来て居ます。