「場」としての「具象的現實世界」に就いてー「洞窟おじさん」と「よし川」と千種区の御話ー
さて物の世界は元より豊かである。
其のことは神がさう造り給うたところでもまたある。
だが過剰な富による豊かさは眞の意味での豊穣さを齎さない。
其は所謂「偽善」のうちにあるニセの富であり豊かさなのだ。
例えば「偽善」とは信じないことである。
信じないからさうして持って居るのにさらに持たうとして躍起となる。
だがすでに我我は持って居る。
持って居るが故に今此処に有る。
或は我我は何をも持ち得ない。
持ち得ないからこそ今此処に有る。
其の両極の間を生きるのがまさに人間の認識の常ぞ。
物の世界は常にさうして豊かで且つ貧しい。
だが満ち足りた日常にイザ浸されて仕舞えば其の「貧しさ」の方を常に忘れがちとなる。
さうしてネット世界でもまた現實世界でも常に世界は「豊かさ」に溢れて居る。
でも其れも壱皮剥けば「貧しさ」の方が顕わとなる。
ところが其の場合にむしろそんな「貧しさ」の方が逆に「豊かさ」を感じさせて呉れることになりはしないか。
其れも個人的には時に「偽善」としての「豊かさ」の方にはあえて背を向け其の「貧しさ」の方に向き直ることが屡有る。
「豊かさ」⇔「貧しさ」
何故なら「豊かさ」はまた「貧しさ」は絶對的な価値尺度では無くあくまで相對的に「絶對的」となる価値であるに過ぎぬからなのだ。
其の相對的に「絶對的」となる価値をこそ主に現代人は日日生きて居ざるを得ない。
だが其のことを続けるうちに「満ち足りる」と云うことがどんなことであるのかがまるで分からなくもなったりする。
洞窟オジさん | 書籍 | 小学館 (shogakukan.co.jp)
NHKオンデマンド 洞窟おじさん 完全版 (nhk-ondemand.jp)
其れが分からなくなると個人的には此の作品を読み返しまた動画の方の視聴をすることとして居る。
其れが分からなくなると例えば「宗教」などに救いを求めたりしてもまた良いのであらうが其の「宗教」にもまた「偽善」的要素はしかとあるものなので「宗教」の方を向けば人間には全てが分かり其の心が救われる訳でも實は無いのである。
さてNHKにはかうしたものが有るだけで其の存在意義は絶大である。
民放ではまさか此の種の話はドラマ化など出來ず、よって大衆は耳当たりの良い且つ目に心地良いもののみに心を奪われつまりは次第に洗脳されて行かざるを得ぬ。
NHKはむしろかうしたカルト番組を垂れ流しにする位で丁度良くむしろ此の種での番組の数数をオンデマンドから是非配信してみたりしてはどうか?
NHKは實は眞面目では無くわたくしの知る限りでは可成に反體制であり且つ反逆児なのだ。
でもNHKは流石だ。
流石はNHKだ。
兎に角こんなカルト番組をもまた創るのでNHKは案外偉いのだ。
そんな「豊穣」さとはまさに豊かさのことである。
だが其の「豊穣」さと「資本の論理」とはまるで違うものとなる。
なんとなれば「資本の論理」には「搾取」が必然的に組み込まれるが故に其れは基本的に「偽善」としての「豊かさ」と必然的にならざるを得ない。
洞窟のカズマさん(加村一馬)wiki!親や再会した兄、現在の生活は?【激レアさん】 | macoログ (my-own-pace.com)
加村一馬/洞窟おじさんの今現在2020年のwiki!親や家族や初体験や自宅場所がどこかについても! | Kindトレンド (kind-trend.com)
其れにつけても此の方などはまた良くぞ社會復帰されたものだと思う。
おそらく彼は社會自體には疑問又は不満が無く只運命に弄ばれるが侭に山奥にて独居生活をする羽目となったのだらう。
ですが山奥にて独居生活をすることが所謂普通の暮らしをすることよりも「惡い」と云うことは言えない。
何故ならそんな山奥にて独居生活をすることが所謂普通の暮らしをすることよりもむしろ「良い」場合さえもがまた有るのだから。
尚自分などもまた山奥が好きなのですが其れも日中は良いが山奥は普通夜になると闇に包まれもう怖くて怖くてとても眠るどころではありません。
ですが人間には常にかうして「生活としての幅」が有ると云うことなのだらう。
さうして其の幅の部分をむしろ「社會的常識」として狭め選択した上で生活を営む訳です。
なのではあれ人間が選択し得る生活上の幅は本來ならばもっともっと広いと云うこととなる。
我我人間はさうしていつしか「社會的常識」なるものに縛られ主に其処にてしかと「偽善的」に生かされて行く、などとも申せばまた其れも言い過ぎなのだらうか?
問題は現代社會の価値観を個による選択の主たる部分として仕舞うことでむしろ内面としての良心の如きものに蓋をし其れこそ「偽善的」に生きて行かねばならなくのだとすれば其れが果たして「良いこと」=「善」と呼べるのだらうか。
ズバリ言えば其れではまんま「惡」の履行者と成り下がることとなる。
まあそんな「惡」をやらぬ限りに於いて「洞窟おじさん」はむしろ幸せだったのではなからうか。
極貧生活から「歩く百億円」になった88歳女性社長に学ぶ、お金儲け上手になる考え方「100円でも余計な散財はしたくない」 (msn.com)
逆に申せば此の吉川の社長が金持ちで有名で要するにデカい💎をジャラジャラとさせて居りますが何せもう婆さんですので余命の方があと僅かでせう。
此のよし川の料亭街のあるところは此処名古屋でも壱等地で所謂高級住宅街としての「覚王山 - Wikipedia」がほど近くつまりは閑静でもって落ち着いた処です。
よし川/社長プロフィール (yoshikawa-sachie.co.jp)
おそらくは三河の山奥とかそんなところからナゴヤへ出て來たのではなかったか。
【よし川】吉川幸枝さんの名古屋の自宅 | 社長の家~日本の豪邸写真集 (presidenthouse.net)
「骨年齢20歳」88歳現役社長が実践する3つの習慣 「¥マネーの虎」に出演、呼び名は「歩く百億円」 | 健康 | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)
いずれにせよ此の方は間違い無く所謂社會的な意味での「女傑」のうちの壱人でせう。
ですが其の眞逆に加村 一馬氏の生き方などもまた明らかに「豪傑」の部類です。
左様に人間の生き方、生き様には陰陽即ちプラスとマイナスの側面がある訳だ。
またマイナスの側面がある生き方であるにせよ其れが絶對的に劣るのでは無く要するに相對的評価を絶對視するからこそ其のやうに見えて仕舞うだけのことなのだ。
尚自分は今どちらの生き方も「有り」だとさう考えるやうになりました。
但し金銭的に多額な価値の追求は明らかに「搾取」または「略取」を含むのでまさか「良い」とは申せないです。
特に佛教やクリスト教の立場からは否定されてしかるべき価値観となることだらう。
しかしながら其の吉川氏の生き様は別に惡をやらんが為にさうなって居る訳では無いのだらう。
其処では確かに利己主義が過ぎますが其れは「人生をより良く生きる」との此処🗾に於ける「現世利益」的な価値観がさうなさしめて居るところのものではなからうか。
だとすれば其れを否定するに忍びない気持ちがどうも🗾人としては出て参りますのです。
またわたくしは金持ちをバカ扱いし常に罵倒したりもするが其の反面豪邸街が大好きで特に街中へ出て家へ帰る時にワザワザ其の豪邸街を自転車にて駆け抜け帰ることにして居る程です。高級住宅街 #愛知- Wikipedia
さらに金持ちのパトロンの方を以前から募集するなどもして居ります。
金持ちは其の多くが「偽善」としての価値を平気で生きて御座るので心が腐って居るとさう詩人に言われたにせよ反論は出來ぬことだらうがどうも此の吉川さんは「本物志向」が強い方のやうなのだ。
「本物志向」が強いとどうしても金がかかりよって弐、参千万位はすぐに使って仕舞う訳です。ー吉川氏はでも億単位での御話なのでせうがー
「骨年齢20歳」88歳現役社長が実践する3つの習慣 「¥マネーの虎」に出演、呼び名は「歩く百億円」 P.6| 健康 | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)
かうして至極「眞っ当」なことなどを述べても居られる。
吉川幸枝 | 講師プロフィール | 講演依頼ならTBSキャスティング (tbs-casting.com)
吉川幸枝の結婚(旦那・子供)や宝石と若い頃がヤバい!年収や資産も! | 起業家大百科 (kigyoka-shacho.com)
尚此の吉川氏がジャラジャラさせて居るデカい💎は皆本物とのことです。
従って時価数億円にもならうかと云う💎をかうして身に纏う訳です。
では其の💎其れ自體が下品なのだらうか?
いいえ決してさうでは無くむしろ其れ等をジャラジャラさせて居ること自體が下品であるに過ぎません。
従ってわたくしは其の物自體のことを語らうかとさう思いますのです。
そんな「物自體」を語ることは不可能であるとかって哲學者のカントは述べたが其の「物自體」とわたくしが語るモノとはまた完全に別箇のものです。
さうデカい💎をジャラジャラさせて居ること自體が下品であるにせよ其れを得んとする「欲望」はむしろ生きる意欲に繋がるものです。
「欲望」が有るからこそ人間は今日をまた明日を生きられるのであり其れを消し去れば其処に拡がるのはむしろ「虚無」の世界ばかりでせう。
だけれどもあくまで「偽善」的なデカい欲望は醜いものです。
また例えば「洞窟おじさん」にせよ彼が生きんが為には其れこそ「🐗や🐰を捕獲」し其の肉を食わねばならずまた時には「🐍」さえをも食わねばならず兎に角生きること、生き抜くこととはまさにそんな言わば「待った無し」での闘争の世界其のものです。
生きることとは左様に綺麗ごとばかりでは無くむしろグタグタでありゴタゴタでの實存的な闘争其のもののことだらう。
そんな實存的な闘争其のもののことを誰も嗤うことなどは出來ぬ。
さう誰しもがさうしてそんな實存的な闘争を続ける生存の上での☆であり名優なのだ。
まずは其の意味での實存的な闘争を肯定的に見詰めると云う意味で此処🗾に脈脈として受け継がれるだらう「物的思想」はむしろ大きく評価されてしかるべきなのではなからうか。
そんな☆であり名優の方方に何時か大粒の💎の恵みが降り注ぎますやうに!!
※参考資料
ときめきサロン (yoshikawa-sachie.co.jp)
こちらなどはむしろ大層眞面目な教育指導としての場です。
要するに「本物」を知る女性としての「良妻賢母」思想教育の為の場なのだらう。
名古屋・古川美術館へようこそ (furukawa-museum.or.jp)
さてよし川の伊太利亜料理店のすぐ際に「古川為三郎記念館」爲三郎記念館 - Wikipediaなるものがありかって弐度程訪れたことがあった。
其れも茶華道の関係者は大抵知る処であり私自身は関係者では無いが関係者の👨👧👧となる訳です。
ですが古川美術館 - Wikipediaの方はいまだ訪れて居らず出來得ればまた近く訪れてみたい処となる。
一本鰻のうなぎ四代目菊川 (yondaimekikukawa.com)
さて覚王山にはどうしても行きたい鰻屋があり其れがココでズバリ其の「壱本鰻」こそがどうしても御持ち帰りしたい料理となる。
ところが確か五年位前にも其のことを述べて居たが其れはいまだ實現して居ない訳です。
ですのでどうのかうのでは無く是非其のことを實現し「壱本鰻」に齧り付くことこそが我が人生の最大の目的だと言っても過言では無い。
我が人生の最大の目的とは左様に「思想」の實現には非ずしてむしろ極めて現實的な何かを「食う」話でありまた「物」を愛でる話となる。
あえて哲學的に其のことを言えば要するに事象の「具象的な限定」を行う訳です。
またそんな「具象的な限定」は卑しい御話なのでは無くむしろ「観念的放逸」を戒めんが為の教義の如きものなのです。
ちなみに「壱本鰻」は現在通販の方もして居るやうですが矢張りお持ち帰りの品の方が美味さが違うやうに思えてならん。
ところが覚王山までは距離がありまた足が痛くなりさうだがバカ野郎そんなもんに負けとって「壱本鰻」が食えるか!
たとえ死んでも其れをやり遂げるとの御前の気迫をまずは見せてみよ!
さて實存的眞實の部分と所謂観念的眞理にはそも大きく隔たりが有るとの部分に就き今回はあえて御話をさせて頂いた。
實存的眞實は常に變え難く其処に有り其れが例えばどう此の世を生きたかと云うまさに具象的な事實であり要するに「ドラマツルギー」のことである。
現存在は各各がまさにそんなドラマツルギー (社会学) - Wikipediaの最中を生きる喜劇役者であり且つ悲劇役者である。
さう其れは喜劇であると同時に悲劇である。
また其のことを悲劇として受け取る其の視点を失えばあらゆる行為及び認識は即「偽善」化するのである。
では「物的思想」は所詮「偽善」として作用することだらう「思い込み」=「妄信」のやうなものに過ぎぬのか?
わたくしは其のことを「違うこと」として今受け取りつつある訳です。
何故なら彼「洞窟おじさん」はまさに今日肉を食わねば其れこそ死んで仕舞うからなのだ。
また吉川氏は吉川氏で今日もまたデカい💎をジャラジャラさせることでこそ其の生の舞台を演じ切るのだ。
即ち其の「罪深さ」に於いて本質的な差異を認めることが出來ぬ訳です。
同様にあらゆる認識価値ー認識手段ーに於いて其の倒錯度としての本質的な差異を認めることはついぞ適わぬことだらう。
名古屋・池下の日本料理 よし川~懐石料理・寿司・点心~ (washoku-yoshikawa.com)
【休業】2020/1/15から覚王山の「よし川ビレッジ」が再開発のため一斉休業していた!!|ちくさん (chiku-san.com)
【ニュース】解体工事中の「よし川ビレッジ」の敷地が更地になりました!!|ちくさん (chiku-san.com)
そんなよし川の辺りの景観をまた観たくもなりましたので調べましたところ何と休業中でマンションが建てられて居るとのことで寂しい限りです。
ですが此の世に於ける価値とは常にかうして「期間限定」のものとならざるを得ない。
其れもあらゆる価値がまさにさうであり所詮はさうして「移り變わる」ものでしかあり得無い。=さうして諸行が無常である
また大抵の場合はむしろ「過去」に於ける価値の方が現在及び未來に訪れるだらう価値よりも何故か優れて居ることが多い。
また以前此の近くの名古屋市公會堂で美輪 明宏氏の公演を観ても居るが其れももはや夢幻の如き思い出でしか無い。
兎に角其れは感動的な舞台であり且つ歌の数数でもあった訳ですが…。
されど城山八幡宮の方へ店が移転するともまた書かれて居ますのでさうであるのだとすればまた其処はサイコーのロケーションの処である。
兎に角此の辺りはまた特別な場所となる。
此の辺りは高台の高級住宅地でありつまりは壱等地なのだ。
また「連理木」なるものが在るが其れがまた最高に美しい大木となる。
尚其の千種区は個人的にほぼ行かない処ですので我が實存的展開には余り関係が無いのではあれ何せレヴェルの高い場所ですので時に引き寄せられ訪れるやうになって居る。
さう言えばもう拾年近く行って居らぬのではなからうか。
ちなみに其の覚王山の出の人で知り合いが壱人居りますが現在は連絡を取り合っては居ない。
兎に角其の「場と實存」との関わり合いと云うことこそが文明が云云と云うことよりもより重要で且つ核となるべきことなのだ。
即ち「場」と云うことが即「限定」であり其のことが「具象的現實世界」を繰り広げることとなる。
そんな「具象的現實世界」はネットでの情報化された世界以上にむしろ實存に取り重要な場なのである。
どだい此の世界ー具象的で具體化された「場」の世界ーにはむしろそんな素晴らしい物が満ちて居るのである。