目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

ファン・ゴッホによる靑い背景の「向日葵」ー靑い背景の「向日葵」に宿る彼の哀しみとは?ー

ボクはもう40年も黄色い大きな「向日葵」の繪のジグソーパズルを眺めつつ暮らして來て居りますが…



 

 


このところ彼ファン・ゴッホのことをずっと考え続けて居た。

けれども私はファン・ゴッホの繪が特に好きな訳では無い。


私が好きな繪とは所謂象徴主義の画家達のものとなり具體的にはかのルドンやモローなどとなる。

さらにマティスやミロの画風は肌に合いまたモネの睡蓮の繪なども好きである。


さうどちらかと言えばほんたうに好きなのはソノ種の「静けさ」に包まれた感じでのものとなる。

わたくしは元來超神経質で並外れて氣難しいニンゲン故にさう兎に角落ち着いた感じでのものが好みなのだ。


だがこと藝術では落ち着いた感じでのものの中にも激しい情念や深い精神的な苦悩などが織り込まれて居たりするものだ。

なのでおおまさにソコんトコが読み取れるニンゲンで無ければ本來藝術作品を論ずる資格などは無いのだ。


では君にはソレが観えるので?

ああ観えて観えてもう見え過ぎちゃってー困るのー、だ。


見え過ぎちゃってー困るのー、見え過ぎちゃってー困るのー、見え過ぎちゃってーこーまーるのーお。

いかん彼は高感度過ぎる…。

 


もうボクはかう頭も良いわ感度も髙いわでほんに生涯に亘り生きるのに兎に角苦勞を重ねて参りました。

また文學や哲學、さらに宗教や音樂、また繪画に就きほとんど玄人はだしに論ずることが出來る。


どうだエライだらう?

いやまともな人ならまずそんなことは言わないのでアナタはやっぱし變人です。

 

ソレはソレはどうもありがたう。

「變人」おおまさにコレぞ藝術の母體なりズバリ母なり。


ああっあんなところに美の女神が羽根を拡げ飛んで御座るぞよ。

ええっそんな變なもの迄もがまさか観えてしまうのですか?


ひょっとしてソレはすでに精神科へかかる領域では御座りませんでせうか?

いや自分は残念ながらキチ外になる程の才能が無い。


キチ外になる程の才能が無いのでかうしていつもココにて駄文を書き散らしとる。

…それはでも何て美しい御話なのか。


ありがたう、さう言って下さるのはむしろ君だけだよ。

さう世間の奴等はなむしろそんなボクの懊悩をこそ嗤うのだ。


ええっソレは酷い!

でもボクがボクだけが君を君だと認めてあげるよ。


うわあもお涙さえもが出て來ちゃう。

…でも御前等何時迄そんな臭い芝居を続ける積もりなのか?


だから彼ゴッホにはそんな分身がおそらくは居なかった。

おおまさにソコこそが彼の悲劇じゃった。


彼ゴッホはニンゲンと即ち社會と生涯に亘り闘い続けた。

即ち彼の鋭敏な感受性に取りソノ社會は大きな壁となりのしかかる。


だがついにソノ壁が崩されることは無く嗚呼ついに彼は拳銃の引き金を引く。

…バアアアーン。


おおさぞや痛かったらう、辛かったらう…。

じゃあ僕はたった今彼を救いに行きまーす!


いえそもイケませんソレは。

…何で?


だって君はあくまでボクの分身なので…。

 


どうも彼はさう「社會性」と云う壁に實存=自己實現を阻まれたのではなかったか。

即ち「周囲に理解されぬ」ことから解放されること無くさう彼は自決へと追い込まれた。


されどソノ「實存」としての敗北と彼の藝術とはまるで別の価値となる。

即ち彼の藝術こそがソノ「實存的闘争」の証であり自己實現ソノモノなのだ。


さう世の中に分かって貰えるかどうかは関係無くさう彼は「實存的闘争」を貫き通す。

されど世の中に画家だと認められた訳でも無くまた牧師への道も途中で投げ出しとる。


さう神もナニも無くまたどんな救いもソコにはネエ。

逆に言えば完璧にさう閉ざされもはや後は繪を描くしかにゃあ。


挙句に藝術家のゴーガンとも氣が合わずおまけに弟テオには子が出來た。

また次第にアタマがおかしくもなりついに🏥ー精神病棟ーへ入ることとなる。

 


尚藝術家のアタマがおかしいのはソレはむしろ當たり前のことだ。ー當ったり前田のクラッカーー

なんとなれば世間の人人の方のアタマがむしろオカシイからなんだな。


世間の人の方のアタマがむしろオカシイからこそさうみんなでもって「赤信号」を渡れるのさ。

でもゲージツ者は厳格に潔癖なのでソコんトコを壱諸になり御遊戯をすることがまさかやれぬ訳です。


ソレは丁度グレタ氏が文明をトコトン批判するが彼女が果たしてナニに對し怒っとるのかが世間の人人にはまるで分らぬことにやう似とる。

す、す、すると詩人さんはむしろ世間の無知をイマココで嗤うのかい?


ほうじゃなハッキリ申してワタシは常に社會の方こそが惡いとさう考えとる。

では彼ゴッホのやうに死んでもエエので?


…死んでもエエがさう早う死ぬのはつまらん。

正しくはさう社會をむしろ惡者にしつつ生き延びる。


例えばアノ岡本 太郎先生のやうに藝術をば爆発させんが為に生き延びる。

また例えばかのゴーガンのやうに文明を否定し是非とも南海の樂園に遊んでみ給え。


ええか藝術家に社會性の部分が欠けとるのはそも仕方がにゃあことだ。

しかも藝術家の中でもひときわ繊細な彼ゴッホに社會性の部分が欠けとるのはそも仕方がにゃあことだ。


即ちソノ代わりに彼は藝術的感度=藝術的實存をしかと持ち合わせとる。

アア彼ゴッホが如何に負け犬であれオオソノ死が如何に憤死でありまさに惨めなものであれそんな彼ダケの藝術的實存を果たして誰が嗤うことが出來やうぞ?

 

 

どうだ御前等ソレが分かったか。


ちなみにソノ藝術をして藝術たらしめるものとは畢竟藝術的感度である。

藝術的感度とはしかしながら誰にでも備わるものでは無からう。


藝術的感度即ち所謂「才能」とはむしろ断然に持って生まれたものとならう。

持って生まれたもの=天分とのことである。


従ってソレは所謂「努力」により発現するものには非ず。

「努力」では無くして元元さうなっとる。


画才にせよまた詩才にせよまた音樂的センスにせよ兎に角元元さうなっとる。

丁度凡人共に凡暗での感度がしかと備わるが如くに元元さうなっとる。


またソレにも似て宗教的センスなどもさうなのではないか。

さらに言えば哲學的思考力などもまたさうである可能性が髙い。

 

逆に申せば「常識人」の方方が思い悩むことの大半と藝術家が思い悩むことの内容の大半はまず混じり合うことが無からう。

また例えば「常識人」の方方が思い悩むことの大半と科学者が思い悩むことの内容の大半はまず混じり合うことが無からう。


要するにソコはさう「日常」を越える場なのだ。

つまりがさう「超越」するのである。


ところが普通のサラリーマンは現實がむしろ社會寄りに洗脳されとる訳です。

ソノ逆に藝術家や宗教家や科学者共は現實が超越世界に向け洗脳されとる訳だ。


なんだ、ドッチも「洗脳」なのかい?

いや前者の方が所謂「全體主義」となり後者の方はむしろ「個的崩壊」を迎え易いものと來てる。


するとよりヤバいのはズバリどちらでせう?

そりゃあ前者ですよ。


す、するとあくまで自称詩人さんの見解ではコノ世を滅ぼすのは變人の藝術家や宗教家や科学者共では無くフツーのイイ人ばかりなんですか!!!

だからベートーヴェンやら彼ゴッホやら宮澤 賢治やらではまさか世は滅びますまい。


コノ世界を滅ぼすのはさうしてみんなでもって赤信号を渡ることにこそよりませう。

きゃあーでもひっでえ世間貶し=社會批判ですな!!


ですから自称詩人はおおまさにソノコトを皆様に御伝えするが為にコノ世に生を受けた。

なのでああまさにソレがボクの作品ソノモノなのだ。


だから其はゴッホやゴーガンの作品とはまるで違うのだよ。


しっかしまたイヤミな詩人やなあ。

あえてさうして社會を貶しにかかり挙句の果てにはソレを全否定、ですか。


イヤミな詩人さん、するとおんみもまたさう日常を「超越」して居られるので?

まあ誰が視てもワシの言うとることは世界で唯壱無弐のことじゃらうて。


なのでハッキリ申して「超越」しとるでよー。

 

 

さてココからはまさに私的なゴッホとの縁のことを書きます。


私の部屋の壁には大きな「向日葵」の繪のジグソーパズルが掛かって居る。(1米×50糎程の)

ソレは凡そ40年程前に親友より頂いたものです。


確か親友が結婚し御祝いをしてソノ御返しとして頂いたものです。

ソノ「向日葵」の繪の色調は黄色です。


ソレでもって苦しい時にはコノデカい「向日葵」の繪を眺めつつ何時も踏ん張っても來た。

また當時(26、7歳の頃)初めて「ゴッホ展」を訪れた。


ソノ折にゴッホの繪の色合いの鮮やかさに深く感銘を受けた。

まさにソノ黄色と其れから靑色に深く感銘を受けた。


ですが壱般的にはゴッホの黄色の方が好まれて居るか。

でも私はゴッホの靑色の方がずっと好きでした。


ソノ後ゴッホが大好きなココ🗾國の芦屋にかって背景の靑い「向日葵」の繪があったことを知った。

だがソノ靑い「向日葵」の繪はすでに戦災により焼失して居り有りません。

 

芦屋のひまわり1

芦屋のひまわり3



ソコで数年前にあれこれと調べてみるとパリ時代にゴッホは背景の靑い「向日葵」を描いて居たことが分かった。

 

例えばこんな作品です。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ《4本の切ったひまわり》(1887年)/クレラー・ミュラー美術館-Vier_uitgebloeide_zonnebloemen-

 

さてコノ繪は所謂黄色い「向日葵」の繪とはまるで別物です。

まずは背景のブルーの色がとても深く美しい。


さらに「向日葵」がすでに干からびても居ます。

切り取られたソノ🌸がすでに干からびて居るのです。


だが私はあくまでこちらの方の「向日葵」の方が良い。

ですが先に申しましたやうに私をして元気付けて呉れたのはむしろ黄色い「向日葵」の繪の方でした。


ところで他にも深く美しい靑の背景を持つ彼ゴッホの作品が何点も存在する。

 

石膏彫刻の女性トルソーー1886年春パリー

 

ライラック 1889年5月

 

例えばこれらなども好きな繪です。

 


さて個人的にゴッホのことは身につまされるとでも申すか心のあり方の本質部が似て居る(特に不器用なところが)ので逆に避けてさえ居ります。

どちらかと言いますと盟友のゴーガンの方により興味がある。


彼ゴーガンはむしろ酷く文明を批判的に見詰め要するに「社會が惡い」とさう思っておったフシが多分にある。

けれどもゴッホはもっとナイーヴで「ニンゲンへの愛が有るのに愛されない、そも何で?」と云うやうな深い實存の哀しみを宿した人であったやうに思う。


ですがどちらもまた「社會」とは闘ったのだと思います。

でもゴーガンはそも文明をバカにし見下しても居り逆にゴッホは文明が惡いんじゃなくオレが惡いんだとさう思っちゃったのか。

 

あれワタシですか?

私はあくまで文明をバカにし見下しても居りそればかりか最近は「公的災厄」により文明は滅ぶのだぞよ!!


などと云う考えにさえ至っておるのです。

ソレもまあかう詩人ですので繪を描く代わりにかうしてあれこれと考え作文するのですがね。

 


さて今年の参月に私は「ゴッホ展」を訪れた。

凡そ四拾年振りに纏まった数のゴッホの繪を観た。


されどオバサン連中の何と多いことか。

ゴッホの繪よりもソノオバサン連中がまずは氣になるわい。


でもってしてそも何で中高年の👩はゲージツ作品に群がるのだらう?

ソレは韓國の俳優などに群がるのとヤッパシ同じことなんだらうな。


まあイイ。

別に特に臭い訳でも無いのだし。


だがソノ展覧會ソレ自體が小じんまりとしたものであり思った程あれこれと作品を観る機會には恵まれず。

但し何点かイイなと思った繪は有った。


ソノ中の壱点がこんな麦の穂のみを描く作品である。

 

麦の穂 ゴッホ1

麦の穂 ゴッホ3

 

さう「草のみを描く」

實はコレが可成に屈折した藝術家の内面を表して居る。


「叢のみが小宇宙だ」

とかって自分は言いましたがまさにソレに近い視座なのではあるまいか。


藝術と云うのはソノマクロとミクロの境界のむしろ喪失のことでありさらに言えば己と世界の間との距離の喪失のことなのではないだらうか。

ソレはさう小と大、また正と負、又は聖と俗、さらに愛と憎しみなどの對立がむしろソノ侭に交錯する場を藝術家の内面が享受するとのことだらう。


要するに「境界層の消失」=「ヒエラルキーの破壊又は崩壊」とのことではないだらうか。

無論のことソノ破壊は意図的に藝術的感度により行われやう。


尚そんな藝術的作為は宗教的作為と實は繋がって居はしないかと個人的にはかねてより睨んで來ております。

まさにそんな意味で藝術と宗教とはまた何処かで繋がって居るのではないか。


だけれどもオバサン連中がまたソノドッチも好きな訳ですわ。

どだい宗教にドハマリするのはもう何と言ってもオバサン連中ですぞ。


あれっしかし考えてみればワタシもまた藝術と宗教にドハマリしております。

するとワタシの正體はむしろそんなオバハンだったのかえ!!

 

ー尚活動シーズンとなりましたので半月程投稿を休みます。じゃあねー。ー