目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

まるで春壱番でのやうな読書ー養老孟司 『ヒトの壁』 | 新潮社の書評1ー

養老孟司 『ヒトの壁』 | 新潮社の書評1

 

 

 

 

さりげないのにスゴイ! 本好きが育つ町の本屋さん、名古屋・七五書店 | 週末の旅は本屋さん (bunshun.jp)

七五書店 - Wikipedia

寒い冬は巣篭りをし春になると本能に目覚め活動をし始めるまさにケモノの如き我は昨日あれこれと用事を済ませ最終的には其の七五書店へと駆け込んだ。

其の目的は無論の事人文関係の書の発掘である。

 

で、壱時間程立ち読みをした挙句に参冊の本を買って来た。

だが其れ以外にも凄さうな本が何冊かあり其れをボールペンにて左手首に書き込みメモして置いたのだがー不覚にも紙が無くー其れを後で確認するとまるで読めないやうな字ばかりなのだ。

 

分かったのは此の本ばかりである。青土社 ||ユリイカ:ユリイカ2019年4月臨時増刊号 総特集=梅原猛 (seidosha.co.jp)

が、コレは壱冊しか無く壱冊しか無い本は誰が読んで触ったのやもしれず潔癖なわたくしには気持ちが悪く買えないのである。

 

だがこんなものはネット上に幾らでも売って居やう。

 

 

でもって書棚の上に飾ってある作家の色紙を見て居たところ、地元の直木賞作家大島 真寿美氏は無論のことながら何と又吉 直樹氏の色紙が飾られて居た。

其れもまるで馬鹿みたいな感じの字であったが作家の良し悪しは字の綺麗さなどとはまず関係が無くむしろ字が綺麗過ぎる文人はロクなものが書けないものとさう相場が決まっても居らう。

 

ちなみに僕はかの三島 由紀夫先生に似た美しい字を書く人間なのだがー趣味が筆記でもまたあるが故にー三島先生だけは例外で字が上手いと同時に作品の方もまた優れて居たのであった。

 

 

スットン経 諏訪哲史(著/文) - 風媒社 | 版元ドットコム (hanmoto.com)

こんな地元の作家の本も入口近くの書棚に並んで居た。

拾歳下の人だがどうやら躁鬱病を患って居るものらしい。

 

或は対人恐怖などもまたあるのやもしれぬ。

文學系の人は兎に角かうした所謂境界層の人が多い。

精神的な病とかうして常に接して居る訳だ。ー精神的な感度が高いと必然としてさうなるー

 

だが僕の場合は神経質が昂じた神経症なのであり所謂分裂病などとは異なるものであるらしい。

 

さうして題名が分からんやうになった本はまた立ち読みでもして調べて来たいところだ。

さて本日はまた本の話である。

 

何だ、また本の話か。

本の話ばかりではないか。

 

 

いや本を読むのが自己形成に関する學び其のものなのだ。

逆に申せば本を読まねば馬鹿になる。

 

だからネットばかりに浸り切り本を読まぬ奴等は皆馬鹿になる。

尚其れは年齢に限らずさうだ。

 

SNSとゲームばかりやってる若い奴等が馬鹿だと云うばかりでは無く孫の頭ばかり撫でて居る爺ちゃん、婆ちゃんなども皆馬鹿となる。

 

だが本を読むといや其れに埋没すると極めて不健康だ。

だから書など捨てよ。

 

 

確かに其れも壱理ある。

どうも本を読み過ぎて我は體を壊したのやもしれぬ。

 

たとえ其れでも本は読まねばならぬ。

其れは理性の機能を維持せんが為にだ。

 

分かった。

能書きはもう良いから早うどんな本を買って来たのかを述べよ。

 

 

1.養老孟司 『ヒトの壁』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)

2.『生物はなぜ死ぬのか』(小林 武彦):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)

3.公共性 - 岩波書店 (iwanami.co.jp)

 

の参冊を買って来た。

3.は専門性の高い學術的な書で僕は昔社會科を教えても居たのでかうした本にもたまに手を出して居る。

 

2.は好きな生物學関連のもので如何にも面白さうな本だ。

1.は養老先生による壁シリーズの最新刊である。

 

 

さて我は養老先生が好きだと云うか自分とは良く似ているものとさう思って居る。

自己流と云う意味での無手勝流的な思考が何より良く似て居るのではなからうか。

 

但し養老流の思考は哲學的で難解な部分をも含んで居る。

其れも年寄りとなられた現在ではこなれた表現でもって読み易く書かれて居るのだけれど其の根底には文明に対する批判的な精神があるので其れを理解するのは其れ程簡単では無い。

 

さて其の『ヒトの壁』をすでに半分は読んだ。

 

 

「人生は不要不急か」と題された章にてまずは「不要不急」とは周囲ー世間ーのモノサシだとさう述べられて居る。

何故なら自分のやることは全て自分でもって考えるしかない。

 

さう云うのを「自立」と言うのである。

「自立」しなければ世間に流される訳だ。

其れも精神的な「自立」と云う意味に於いて流される。

 

だからまずは其の精神の「自立」こそが大事だ。

ところが精神の自立には不要不急の考えこそが必要とされて居る。

 

 

其の「不要」とは「無用」のことでもある。

「無用」=役立たずである。

 

ところがヒトゲノムの四割がウィルス由来だとする研究成果があるのださうだ。

其のやうにヒトゲノムであれ其のほとんどが不要不急である。

 

其のジャンクDNAの方が量的には多いとされる。

だとすれば逆に有用であり急であることこそが生物学的には例外なのだ。養老孟司 『ヒトの壁』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)より

 

其れ即ち社會が勝手にさう決めて仕舞って居る訳だ。-わたくしの意見として-

 

其の有用であり急であることをことさらに強調するのが現代文明の思考回路の常套手段だがむしろ其れ自體がオカシイのではないか。-わたくしの意見として-

で、養老先生が仰りたいことも結局は其の「人生とは本来不要不急である」と云う精神の受け取り方のことである。

 

 

第壱抽象的価値に対し社會が振り回されて居る。

戦争ー戦闘や経済戦争ーで勝つことだのまた宇宙開発で勝つことだのさらにオリムピックで勝つことだのに。

 

其処で勝つことは同時に負けると云う不幸を生み出すことだ。

だからまずは其の思考法自體が幼稚である。

 

理性的なものでは無いとさう言って居る。-わたくしの意見として-

 

 

「無用の用」無用の用とは - コトバンク (kotobank.jp)

 

左様に無用なものが實は役立って居る。

むしろ無用なものの価値を知ることこそが眞の意味での理性の役割だ。

 

だが「無用」と「無駄」とはまた違う。

逆に文明社會には無駄が多い。

 

ところが其の「無駄」に就いては合理化せず逆に「無用」なものを合理化して仕舞う。-わたくしの意見として-

 

ある意味で養老先生のものの見方は常に文明とは大きく距離を取って居られる。

個人的に其処が同調出来る部分であり且つ尊敬し得る部分でもある。

 

例えば科学的に世界を出来るだけ正確に見やうとすると全體像はかえってぼやけるのだと仰る。

其れが「認識に於ける不確定性原理」なのだとも。ー養老孟司 『ヒトの壁』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)P.25よりー

 

其れをエントロピー概念で言えば、大雑把には、どこかに秩序が生まれれば、無秩序がそれだけ増える、と云うこととなる。ー養老孟司 『ヒトの壁』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)P.26よりー

 

 

尚人文的に其れを理解すれば、

 

有用⇔無用

秩序⇔無秩序

とのことで反する概念同士が無関係では無く其れこそ相剋し且つ相即する関係性を築いて居る。-わたくしの理論ー

 

さらに哲學的に考えれば、合理化により文明が有用で意味あるものばかりー都市化ーを築くと必然として何処かに無駄なものが増えまた文明が秩序立ったものばかりを築くと必然として何処かに無秩序な状態が逆に増えて行くのである。

其の意味ではコロナ禍こそが其の逆の目が出た形なのだと言えやう。

 

よって文明がやり過ぎて居ることこそがまずは本質的に自滅行為なのだ。

さうして壱番になること、組織自らが勝って良い思いをすることばかりを考え続けさうした自然の摂理と申すかかうしてちゃんと知性にて捉えられる眞理、眞相の部分をないがしろにして居るからこそさうして道を誤るのだ。

 

 

次に養老先生は「人知は進んだと言えるのか」と題して其のことに就き疑問を呈されて居る。

「根本問題は大都会に代表されるヒトの秩序指向、あるいは秩序嗜好にある。」のだと。ー養老孟司 『ヒトの壁』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)P.32よりー

 

秩序指向、つまりは合理化が行き過ぎるが為にむしろ自らをも破壊して行くのである。

 

1.具象的破壊

2.抽象的破壊

-わたくしの理論ー

 

其の破壊は1.と2.が同時に引き起こされる。

 

中でもわたくしが屡主張して来たのが2.抽象的破壊であり具體的に言えば其れが現代人にとっての精神的破壊である。

また其のことはかのライアン氏なども著作の中で指摘して居られる部分である。-流石は心理学者だ-

 

さても養老先生は此の根本的問題に対しどう答えられて居るのか?

 

眞の意味での省エネをすれば良いとの仰せである。

 

合理化、効率化、経済化→非合理化、非効率化、非経済化ー養老孟司 『ヒトの壁』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)P.32よりー

する形にて社會を進めるより他は無いやうなことを述べられて居る。

 

さらに「認識は世界を変える。同時に自分を変えてしまう。」とも述べて居られる。ー養老孟司 『ヒトの壁』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)P.32よりー

 

まさに慧眼である。

わたくしもまた別の尺度から世の誤りを追及しついには認識の問題へと立ち至った訳である。

 

 

其処で養老先生曰く、

「理解」と「解釈」は違う。

 

「理解」は外側から内側へ向かう働きで、謂わば向こうから訪れるものだが「解釈」は内側から外側へと向かう働きなのださうだ。

また「理解」は入力系ー感覚系であり「解釈」は出力系ー運動系なのださうだ。ー養老孟司 『ヒトの壁』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)P.72よりー

 

個人的に其の理解とは直観的理解ー無分別智ーのことであり解釈とは分析知ー分別智ーのことなのだと思う。

例えばわたくしは屡自然ー其れも陽の下の自然と夜空の下の自然ーと戯れ其処から啓示のやうなものを受けることがあるのですがまさに其れが「理解」の様其のものでせう。

 

其れは自然の摂理其のものズバリを體得するやうな感覚です。

確かに其れは理窟を超えるであらう直接的な全體の把握であり理解であらう。

 

 

正直言えばそんな折には時間の観念さえもが無いやうな気が致します。

時間以外での経験とでも言うべきか、むしろ時間が流れ無い感じとでも言うかそんなものです。

 

「理解」とは畢竟さうした直接的な體験です。

対する「解釈」に於いて典型的なのは「ああすれば かうなる」形での分別的思考つまりは正の価値ヒエラルキーによる価値構築の世界観のことだ。

 

即ち文明は主に其の「解釈」に基き世界を構築して居る。

故に其の対象は概ね人為的なもの、作為的なものとなりませう。

 

尚文化もまた其の人為的なまた作為的な「解釈」です。

特に養老先生やわたくしが此処で述べるやうな文明論の類や小説形式の文章などは其の「解釈」です。

 

 

ですが我の場合は最終的に此処で書いたものの全てが詩的表現の壱種ともなるものだ。

故に小説の如き物語性が其処にある訳では無くむしろ其の物語性をなるべく排し直観の方をより大事にする点で此れは「詩」なのです。

 

其の詩は例えば絵画や音樂にむしろ近いものでありつまりは其れは藝術が生み出すものだ。

例え其れが言語の機能として抽象化されて居るにせよあくまで詩を駆動させるエネルギーは感性であり直観智です。

 

 

「理解」は入力系ー感覚系であり「解釈」は出力系ー運動系

 

「解釈」ー1.合目的的行動2.試行錯誤的行動

 

運動系にはまた弐種があると養老先生は仰る。ー養老孟司 『ヒトの壁』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)P.75よりー

 

1.社會的行動が其の典型例

2.例えば虫採り

 

合目的的行動は合理的行動ともまた言え試行錯誤的行動は非合理的行動なのだともまた言えやう。

また近代スポーツは合目的的行動の典型例だが散歩やトレッキングの場合は非合理的行動をも含んだ合理的行動であらう。

 

合目的的行動には目的と云う意味が含まれて居るが故に行動が意味化される。ー養老孟司 『ヒトの壁』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)P.77よりー

其の意味が「外部(の体系、システム)を召喚する」。ー養老孟司 『ヒトの壁』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)P.78よりー

 

例えば経済と云う体系、システムを召喚するのが経済的に意味のある合目的的行動だ。

 

 

さて、此の部分より以降はまたさらに抽象度の高い論理が展開され正直なところ我も未だ理解が追いつかない。

此の本の中盤にて展開される養老ワールドは可成に難解であるが故に何度も読み返してみないと理解した気にはとてもなれぬことだらう。

 

故にまた其のさらに後に展開される「巨大システムへの違和感」と題された部分に就き感想を纏めてみたい。

其処でもって現代社會に特有のグローバルなシステムの林立に対しての発言がある。

 

 

1.「自分は関係ない」

2.「其のシステムの関係者だが必然として不明な誰かの意の侭となり其れを行う」

養老孟司 『ヒトの壁』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)P.96~P.97よりー

 

いずれにせよ普通現代人は「巨大システムへの違和感」を抱きつつ其れを眺めて居る訳だ。

わたくしが先に「オリムピックの金メタル」や戦争などは我我個の生活とは別物だから惑わされてはならない、やうなことを述べたのはまさに其の1.の立場からのことである。

 

其の論理をさらに徹底させると「地球温暖化」や「生物種の絶滅」と云った大問題ですら直接の個の責任とは捉えぬ方が良いと云うこととなる。

要するに其れは人類規模=文明規模=近現代文明規模での大問題なので其れを個として背負えば倒れることはまず必定なので其の全てを社會の問題として捉え外部を批判して居れば良いだけの話だとさう述べたのだった。

 

が、無論のこと我我個が現代社會に属する以上事實上は大きく責任を背負って居るのである。

但し其の責任を感じてばかり居ては生きる實感さえもが脅かされやうからむしろ其れとは距離を取ることこそが眞の意味での理性的態度だとさう述べたのである。

 

 

例えば現在世界人口が79億人弱にまで膨れ上がって居りよって自分としての責任は79億分の壱です、位に考えて置かないと其の罪深さと申しますかヤバさと申すか兎に角其の破壊力の凄まじさに対し打ちひしがれて仕舞う他は無い。

だからみんなの責任は基本的には今79億分の壱の重さです。

 

ですが個人個人としての差もまたあります。

まずは金持ち、コレは持ってる金額によりより罪が重くなります。

 

さらに有名人であったりすること、コレなども有名であればある程により罪深くもなりませう。

ですが有名人でもグレタ氏のやうに社會のあり方と闘ったりまた養老先生のやうに文明の批判をして何とかやっつけたらうとされた方方などは其の分罪が軽くもなりませう。

 

また性欲が強くあったり権威、権勢欲が強い場合などもまた相当に罪が重くなる。

ではお前自身の罪は果たしてどうなのだ?

 

 

そんなに食欲と物欲が盛んでは其の罪深いのも壱級品であらう?

さうです、まさに壱級品でした。

 

わたくしは左様に罪深き人間です。

ですが、あくまで今我は79億分の壱の社會的責任しか感じて居りません。

 

さうか、其れは偉いな。

其れでもってまた遊びに行くのだな、其れも「ゴッホ展」を観に行くのだな。

 

ハイ、自転車で行きます。

ですがもし雨が降ったら傘を差して行くので全く悲惨なのですが…。

 

 

問題は其の後に続けて養老先生が書かれて居る「個人の存在が急激に薄れていく」と云う現代社會に特有の現象にこそある。

わたくしは其れを「全体主義」の問題として考えて来て居る。

 

全体主義」とはさうして個としての行動が巨大なイデオロギーに操られて仕舞うことをこそ言う。

だからファシズムばかりが全体主義なのでは無く近代主義への盲信や資本主義経済体制への過信や盲従なども皆其の全体主義の為せる業なのだ。

 

「国家や政治、経済やGAFAを含めて、強大なシステムが個人の理解と行動をはるかに超えてしまった世界に我々は生きている。」ー養老孟司 『ヒトの壁』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)P.99よりー

 

国家や政治、経済やGAFAも全てがイデオロギーを形成する。

其のイデオロギーに対しいつの間にか操られ結果として破壊や悲惨な結末を生じて仕舞うのが現代的価値としてのひとつの極である。

 

 

まさに其れが快適で便利な暮らしや兎に角何でも手に入ること、また何でも金さえ出せば食えることの裏腹として形成される負の側面であり絶対的破壊なのだ。

だが養老先生はオリムピックを我程否定的に見ては居られず例えば常にアテネで行えば良いー規模を縮小し?ーなどとも述べて居られるのだが我に限ればオリムピックは矢張り止めるべきだとさう思う。

 

どだい文明其れ自體が其れどころでは無い筈なのに何でまた其処に拘りますか?

 

我の思想は壱種過激なのでもあり要するに「全否定」をも含めて文明に対し処して行かぬと己と云う自我さえもが損傷を受けかねぬ段階へもはや至ったものと見て置くべきではないか。

ですがあくまで其れはデカいものを「全否定」して置けば良いのであり個としてはむしろ興味を持ったことに対し熱心に取り組み此の世の中のバカバカしさ、阿呆らしさを忘れ前向きに自己流でもって生きて行けば良いのです。

 

要するにデカい馬鹿野郎共はもはや相手にせず其れこそお利口に自分本位でもって樂しく生きて行くことこそが大事である。

まあソコは養老先生なども其れこそ虫捕りだの🐈だのが至ってお好きで適当に気を抜いて居られる訳でありまさにソコを見倣って置かねばなりません。

 

 

尚わたくしもまた🐈が好きなのですが何せ生ものですので色色とあり心理的に大変です。

むしろ物質の方がより心が搔き乱されずに済み平和だ。

 

つまりは物質の方が有情よりも長生きをします。

しかるに有情は罪深くしかも耐え難い試練をも背負って居る。ー其れも見て居るだけで辛くなるやうなー

 

藝術作品などもまた如何にも罪深いものでせうがまさに其れは藝術家の精神の軌跡のことですので生ものでもまた単なる物質でも無い純粋なる観念的営為のことでせう。