目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「ニーバーの祈り」ととある漫画家の生との闘い

「ニーバーの祈り」ととある漫画家の生との闘い

 

 

 

45歳以上の正社員化は難しい…働き盛りの3〜4人に1人が非正規となった「日本社会の深刻実態」 (msn.com)

 

どうのかうのでは無くかうして日本の経済状態はほぼ破壊されて来た訳だ。

 

其れが何でかと云うことをあらゆる人人がまた色んなことを言いますが其れはズバリ政権与党による政策が其の根本より誤って居たからだ。

よって其のことを逐壱批判する手もまたある訳ながら個人的にはもうそんなことには疲れ果てましたのでむしろ出来るだけ余生を樂しく過ごしたい訳だ。

もう兎に角バカバカしいので社會のことなんぞはどうでも宜しい。

 

其れも滅びるなら滅びよ此の馬鹿社會、との訳で自分は主に現存在に取っての救済の形のことや美しいものなどに就いて今後述べて行く所存である。

 

尚日本の社會が抱える深刻度は2030年位から酷いものとなる可能性が高い。

だからむしろ今毎日を愛し慈しみつつ生きて行きたい。

 

 

其れと最近は公明党に對する批判の部分などもまた考えて来て居る。

つまりは學會に對し批判的になりつつあるが但し其の信仰其れ自體に對し否定を突き付けて居る訳では無い。

兎に角壱番問題なのが自民党政権による壱党支配體制=専制政治體制を如何に早く終わらせるかと云うことだ。

 

但し自民党政権による壱党支配體制は日本國民の総意としての全體主義病=何にでも力がありデカいものには擦り寄り且つ従います病と密接に絡む話なので其の治療は極めて難しいことだらう。

だから其れは戦前の日本のインテリ層のアノ骨太な反骨精神を取り戻さねばならぬと云うことなのでもまたある。

 

従って所謂「バンカラ - Wikipedia」の気風を是非復活せしめて行く必要がある。

バンカラが流行したのはなぜ?|語源・特徴・ハイカラもチェック! | 粋-iki- (i-k-i.jp)

さても其のバンカラの復活こそが日本國再生の鍵を握る要件なのだ。

 

バンカラ者は所謂ヤンキーや族共のやうに低脳ーバカーでは無い。

其れもむしろ教師共よりも高等な知性の持主でなくてはならぬ。

 

よってむしろ教師なんぞは足蹴にしておる。

さらに女子供などはまるで相手になどしては居らぬ。

 

また読む哲學書は主にパスカルとカントとショーペンハウアーばかりである。ーデカルトは×でパスカルは〇だー

おおまるで我の如きすっげえ知性の流れだ。

 

 

さて本日はまた食い物の世界に逃げてみたい。

 

塩だれ深谷ねぎ 黒胡椒仕立て 220g ケヤキ堂【埼玉県日高市 送料別】【BS】 (genkioukoku.jp)

 

参箇月前にカインズでもってこんな関東風の物を買い食ってみると独特の風味がありまさに癖になる味だった。

其れがまだ参分の壱程残って居たが本日「ねぎ焼」の上へブチまけてみたところ其れがほぼサイコーに美味くなった。

 

ごっつ旨いねぎ焼 | スナック | 家庭用冷凍食品ならテーブルマーク (tablemark.co.jp)

 

最近は何故か此れを良く食して居る。

其のネギはおそらく健康維持に良い筈だ。ネギの栄養の主な効能5つ!ネギで風邪予防 体の内側から健康に | IENAKA (tokyu-bell.jp)

 

我の場合は思考の維持の為に常に甘いものを食うので逆に體が疲労しがちである。

だからネギだの🥒だのがまた良いのである。

 

商品一覧 | でん六 (denroku.co.jp)

 

また此のでん六の豆菓子は安くて美味しい。

其れも可成に美味しく拾段階評価で8~9が与えられる。

 

さて其の食い物は結構大事なものでもまたあることだらう。

自分の場合は簡単な物ー🍛やカレー饂飩や缶詰めーなどが多くまた百円🍙やサンドウィッチの類も多く決して褒められた食生活なのでは無い。

またさらにさうして菓子食いでもあるので…。

 

だけれども食うことはまた樂しみの壱つである。

其れが樂しみである限りはすぐには死なんやうな気がしてならない。

 

 

尚病院時代に部下が壱人癌でもって還暦で死んだが彼は兎に角食うことに興味の無い人で休み時間となると煙草ばかりを吸って居た。

また酷い偏食の部下もまた壱人居て彼の場合は巨體ながら何とカップ焼きそばしか食わぬのである。

 

さう云う類での全く酷い食生活も見聞きして来たのでまあ其れと比べればマシかとも思うのだがでも夢として思い描くのは是非とも田舎に移住して有機野菜を日日食し肉や魚なども其の御当地のものを消費するそんな左翼風の意識が高い系での暮らしである。ー別に右の思想であれそんな暮らしが出来るものながらー

 

だがかうして長年に亘り菓子の食い放題だったので次第に體が壊れて来た感がしないでも無い。

が、何せ「でん六の豆菓子」は安くて美味いんだ。

 

ちなみに文豪には實は甘党が意外に多い。あのセンセイもスイーツ男子だった!~お菓子と、文豪~|お菓子と、わたし (okashi-to-watashi.jp)

何でかと云うと脳を酷使するからなのだらう。

 

我もまた脳疲労を起こし易い明治・大正期の詩人なので兎に角菓子が好きだが其の菓子は甘いのも鹹いのも同時にイク。

でもって大宰のやうにまさか酒や女には走らないのだ。

酒や女に走る位ならチョッコレートや豆菓子を是非食って居たい。

 

チョッコレートはローオッテー

そりゃ違うって!【ラジオCM史】明治チョコレート 1966年 - YouTube

 

現存在はさうして何とか食えて居るうちが🌸である。

やがて地球温暖化は全ての食い物を奪って行くことだらう。

 

であるからこそ今此処にある全ての食い物を愛し慈しむかのやうに味わって置くべきだ。

 

現存在は左様に欲望が過剰な生き物である。

要するに脳の中身の其の全部がほぼ欲望まみれなのだ。

 

 

「光にむかって」 - こころの時代〜宗教・人生〜 - NHK

NHKオンデマンド | こころの時代~宗教・人生~ 「光にむかって」 (nhk-ondemand.jp)

 

さて見逃して居て是非視たかった番組が此れである。

今此処での音声を聴きつつ此れを書いているが其のやうに藝術と精神的な病との親和性は間違い無くあることだらう。

此処で彼女はまさに壮絶なる體験を話して居られる。

 

尚わたくしは精神病者では無いがおそらく精神病質者ではあるのだと自分でも思う。

だがほんたうのキチガイは藝術だとか食い物だとかさうしたものを愛する心の余裕などまるで無いのである。

 

おそらくは其の壱歩手前であること、其の紙壱重としての狂気の壱歩手前で踏み止まるかどうかだけなのだ。

其処に踏み止まることが出来ればむしろ彼や彼女は常人よりも豊かな世界を實感として生きて行くことが可能である。

 

今番組中にて彼女が「自然は誰にも否定出来ず其処に在るもので言葉では表せない癒やし其のものだ」、「自然の中で生かされて居るのだから自然を信じて居れば良い」と云うやうなことを述べられて居た。

 

左様に自然はまた其の狂気をも癒やして呉れる。

但し自然には癒やすことが出来ぬ狂気もまた此の世には確かにある。

 

まさに其れが文明による狂気の流れである。

むしろ其の文明による狂気の流れこそがはかり知れぬ程に罪深いものである。

 

やがて彼女はとある神学者の言葉に出逢う。

 

THE SERENITY PRAYER

 

O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other.

 

Reinhold Niebuhr

 

ニーバーの祈り

 

神よ、

変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

 

ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)

 

God, give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed, courage to change the things that should be changed, and the wisdom to distinguish the one from the other.

神よ、変えることのできない事柄については冷静に受け入れる恵みを、変えるべき事柄については変える勇気を、そして、それら二つを見分ける知恵をわれらに与えたまえ。

 

      God, grant me the SERENITY to accept the things I cannot change;

 

      COURAGE to change the things I can;

 

      and WISDOM to know the difference.



      Living one day at a time,

 

      Enjoying one moment at a time;

 

      Accepting hardship as the pathway to peace.

 

      Taking, as He did, this sinful world as it is, not as I would have it.

 

      Trusting that He will make all things right if I surrender to His Will;

 

      That I may be reasonably happy in this life, and

 

      supremely happy with Him forever in the next.



    Amen

続きの部分のみ一応訳を示すと、(この訳はどこかで紹介されていたもの)

      いっときに、一日だけを生き

 

      いっときに、一瞬だけを喜ぶ。

 

      苦しみも平和へ続く道として受け入れ

 

      エスの如く、この罪深い世界をあるがままに理解して後悔せず

 

      主の意志に身をゆだねれば、すべてをあるべき姿にしてくれると信じて

 

      そして、現世では適度の幸福を

 

      来世では、主と共に至高の幸福を感じることができるように。

 

    アーメン

 

The Serenity Prayer(ニーバーの祈り) (interlink.or.jp)より

 

其の神又は佛は即ちほんたうの神であり佛である必要がまずはあらう。

ほんたうの神であり佛であるものこそにかうして正しく祈りを捧げることが出来る。

 

對して邪教の教祖による祈りはむしろ自分へと向かうものと相場は決まっておる。

また邪教の教祖は兎に角酒や女さらに権威、権勢を求めるつまりは権力志向が強くある。

 

要するに其の精力の方がギンギンだ。

だが精力ギンギンの教祖こそがおおまさに俗なる偽善者なのだ!

 

逆に聖なる存在はむしろ精力には欠けておる。

要するにそんな獣の力には欠けるのだからこそ。

 

ちょっとでも油断すれば其の精力ギンギンの教祖が何時君を洗脳しに来るものか分からない。

だからもう暗くなる前の17時には必ずや家に帰り是非PCでもって高校講座でも視て勉強して頂きたい。

 

 

「神よ、変えることのできない事柄については冷静に受け入れる恵みを、変えるべき事柄については変える勇気を、そして、それら二つを見分ける知恵をわれらに与えたまえ。」

 

さうなのだ、かって『自分を救う認識論』の方でも述べたが佛陀もまたかって「他己は変えられず」とさう述べられて居る。

 

要するに自分の心が幾ら正しくとも其の周りの間違った認識は正せないのである。

故に其の悲劇からは是非逃げて置かねばなるまい。

 

何故ならまともに向き合うと華厳の滝かまた那智の滝より眞っ逆さまに落ちていくより他は無い。

別に宇宙へ行き死んでも良いがでもみんなにそんな金はねえだらう?

 

だから周りの惡い奴らはむしろ死なない。

其のやうに相場は決まっておる。

 

逆にアンタが死ぬ羽目となる。

其の穢れなき心の持主としての優しいアナタが…。

 

 

なのでそんなもんー周りーはむしろ捨てたれ。

どだいあえて其れにしがみつきみんなでもって赤信号を渡ればもうエライことになるぞよ。

 

おりゃーもうなんもいらんわー。

ゴヤメシ以外はなんもいらんわー。

 

ならチョッコレートやでん六の豆菓子もイランのか?

いえ其れだけは是非置いておきませう、そもソッチはいいじゃないですかかうしてしかと酒色を断って居るのだし。

 

嗚呼まさに其の「知恵」無くば認識を正せない。

では「変えるべきもの」とは果たして何か?

 

無論のこと其れは自然では無い。

まさに其れは己の認識である他は無い。

 

惡は其れでも我我を執拗に追い詰めて行くことだらう。

惡は天にでは無く此の世界の周りにこそ居る。

 

でも其の惡と和解することは畢竟出来ぬ相談だ。

何故なら我我の心のあり方こそが純粋であるつまりは眞正直なのだから。

 

神は其の善なる魂をよりによりさうして御試しになる。

また佛は其の惡を根絶やしにされたりは決してせぬ。

 

 

さらに邪教は蔓延る。

おまけに自民党の政治の方がそもボロボロだ。

 

ああー、もう滝から飛び降りた方が良くはないか?

いやチョット待った!

 

だから此処に今美味しい御菓子が用意されて居るのではないか。

なあんだ、さうだったのか、ボリボリボリ…。

 

お前今でん六の菓子を食いながら此れを書き込んで居るな?

何故分かりますか、よりによりそんなことが。

 

なる程、此の自称の詩人の頭は半分大眞面目ながら後の半分はもう至極適当なんだ。

だから賞なんぞは取れないんだよもう。

 

しっかしこんな至極眞面目な宗教談話の場の筈なのに其れに就き書くでも無く結局アンタは何が言いたいの?

いやもうなんにも言うことなどはありません。

 

 

其処を壱つだけ言うのだとすれば所謂「非眞面目」と云うことに就き學ぶことこそが眞面目な人に取っての最終課題だと云うことである。

其の「非眞面目」と所謂不眞面目とはまた違う。

 

人間は時に「非眞面目」でなければならないこともまたある。

さうして「祈り」とはむしろ「非眞面目」である側から発せられるものなのでもまたある。

 

尚眞面目さの中には洗脳もまた含まれるが「非眞面目さを得た眞面目さ」の中にはもはや洗脳される要素が何処にも見い出せなくなる。

其の世界の罪深さを用意するのは人間の形をした獣共の欲望ー精力ギンギンとしての欲望ーなのだ。

 

だから👪の中にまた會社の中にさらに此の社會の仕組み其れ自體にそんな惡がまた必ずや組み込まれて居る。

おおまさに其れをクソ眞面目に見詰める程にむしろ自分が壊されて行かざるを得ない。

 

 

なのでむしろ自己防衛としての適当さ=エエ加減さを持つ位で丁度良いのだ。

なる程、其れもほぼ「達観」と云う訳ですか。

 

いや「達観」も何も實際に周りは如何にも酷く従って腹が立ちっ放しながらどーにもならんもんはどーにもならんでアホらしいでモー知らんと云うタダそんだけのことですがね。

だってアンタ周りを変える為に死ぬまで尽力するのでせう?

 

いや結局は其れも周りが自分でもって気付かないと何も変えられはしない。

変わらなければ結局時の流れと共に自分等を追い込んで行くだけのこととなる。

 

であるからこそのむしろ自分の側の「勇気」と「知恵」こそが必要となる。

また其の「知恵」の部分は神や佛の「智慧」から間借りして来ることなどもまた可能なのだから。

 

さて、また弐、参日掃除に勤しむことと致します、其れでは。