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確かにデカい神宮程其の運営には大金がかからうー神宮外苑開発問題と熱田神宮の御話ー

確かにデカい神宮程其の運営には大金がかからうー神宮外苑開発問題と熱田神宮の御話ー

 

 

 

中学校長 校内で生徒に乱暴か 動画保存 生徒「誰にも言えず…」 (msn.com)

 

もう止めやう、まさに其の校長の物凄い性欲の流れをこそ!

 

神社でやってはいけない『タブー』とは?実はNGな理由に「うっかりやってたかも」「気をつけないと」 (msn.com)

 

さて自分は結局佛教徒か又はクリスト教徒ですが同時に多神教の神などもまた守備範囲です。

ですが上の記事での「タブー」の内容にはハッキリ申して「違和感」を感ずる。

 

1.「穢れ」とのことですがでは生命とは基本的に穢れの産物なのか?

2.「現世利益」の為の多神教の神であるならばそも何故さうも「形式的な儀礼」のやうなものに拘るのか?

3.「神社」でタブーとされる「殺生」とのことですが元來「殺生」を厳しく戒めるのはむしろ「佛教」や「ジャイナ教」である筈

 

1.に就いて

では女性や動物は穢れて居るのか?

 

ならば何でまた壱體何処が穢れて居るのだ?

 

2.所謂創唱宗教ー人間を救う為の宗教ーでは無いまた自然崇拝より生じた筈の神道がどうのかうのと伝統的儀礼のやうなものばかりに拘ること自體がわたくしには解せませんのです。

元が自然崇拝ならばむしろ「自然崇拝に徹する」位の方が良くはないか?

 

左様に元元神道に對しては何かと疑問の多いわたくしですが始終神社へは行って居ます。

例えば買い物の帰りなどに週に弐、参度は立ち寄ります。

 

されど自分の場合近年は所謂参拝はせずに主に神社にある大木ー楠が多いーを観に行くのであります。

即ち其こそが「自然崇拝」其のものなのですから。

 

兎に角其の「自然崇拝」の壱点に於いて今神道の価値はかってない程に高まって居ます。

個人的に思うのはつまらぬ「現世利益成就」の願掛けなどは止め「地球上の自然を救わんー敬わんがーが為の神道」で是非あるべきなのではないだらうか。

 

 

3.神道の神はかって「殺し」もやりまた👩好きでもあり結構滅茶滅茶です。

どだい注連縄と云うものはズバリ「蛇の交尾」の様を写したものでせう。

 

神道にとっての神聖さとは果たして何のことであるのかが個人的には少少理解に苦しむ部分が御座ります。

ですが其の「観念」の部分とはまた別に所謂「神社の杜」が大好きで其処を好んで良く訪れるわたくしなのです。

 

神道が動物を嫌うのは何より矛盾と言いますか少なくとも教義として整合性の取れぬ部分でせう。

何故なら神道とは「生命信仰」であり且つ其の生命の永続性を何よりも願う宗教性のことなのですから。

 

 

ま、左様にあくまで自分は「animist」ですが「神道」を奉ずる者では無く「自然中心主義者」とでも云うべき考えの者です。

但し「自然中心主義者」ではあれ根のところでは佛教徒か又はクリスト教徒ですので動物の厄介さに對しても常に思考を巡らせて居ります。

 

動物には何せ「理性」が無く故に「聖なる無垢性」を自然として生きるのではあるが其処で往往にして「歯止め」が効かぬものなのだ。

但し植物の場合は滅多矢鱈に増えたとしても余り地球に取り害は無いので其れはまた違う生命の次元だと云うことでせう。

 

だから「聖なる無垢性」を生きる生命だとは言え例えば🐓でも🐈でも其の侭ですと何処までも増えるものですよ。

また其れが自然状態なのであれば良いが彼等は家畜化されて居るが故に實は自然其のものでは無くとどのつまり「人工的な生命」なのだ。

 

尚鹿だの🐗だの🐻だのも自然状態にして置けばむしろドンドン増えませう。

が、實は其れよりもヤバいことがあり其れは人間の人口爆発のことでせう。

 

 

教皇 - Wikipedia

聖フランチェスコの小さい花 - Wikipedia

 

其の聖フランチェスコよりの精神の流れを汲むとされるフランシスコ教皇が先日カナダにて「原住民を殺害するなどしたキリスト教徒の罪」を認め其れに對し謝罪されたさうだ。

其のクリスト教徒は確かにヤバいことをし過ぎて來て居ます。

 

クリスト教徒はかって🗾國を征服しやうとさえして居たフシがある。

だから秀吉公→家康公と切支丹を弾圧し此の世界壱ヤバい邪教を🗾より追い出したのです。

 

なのですが、創唱宗教として構造的には其の切支丹と浄土教徒はほぼ同じ位置にある。

禅宗は流石に切支丹とは違うが大乗佛教は多かれ少なかれ其の切支丹的なのです。

 

 

クリスト教はかってニーチェにより大批判され哲學的に消える予定でしたが其のニーチェの発狂により結局生き延びましたのです。

さらに近年でも十字軍の戦争ー對イスラーム戦闘ーにより兎に角相變わらずー昔と變わらずー「お騒がせな宗教」其のものです。

 

フランシスコ教皇は然し身内の罪を認めた分だけどんだけ偉いことか。

其処が流石は「聖フランチェスコ」による精神性です。

 

クリスト教は唯物史観により滅ぼされる予定でしたがどっこい生き延びかの露西亜正教などもまた復活して居る。

流石は「全能の神」と共に生きる世界宗教です。

 

御前はもしや其の切支丹か?

いいえわたくしはあくまで佛教徒です。

 

其れも其の切支丹をも内包する佛教徒です。

では「全能の神」を信じるのだな?

 

いえむしろ「無能の佛」を信じて居るのかもしれません。

さう言えば御前の話にはルンペンだとか戸外でのションベンだとかそんなことばかりが出て來るぞ。

 

でも神の愛は等しく地球上の全てに注がれて居やう筈だ。

まあさうだな、だからルンペンだとか戸外でのションベンにも其の神の愛が注がれて居る訳だ。

 

では其の「神の愛」と「🗾の神の愛」はどう違うのか?

「🗾の神の愛」と云う言い方其のものが少し變ですが要するに「🗾の神の愛」とは🗾に限った全てへの愛のことでせう。

 

ならば「🗾の神の愛」に元元普遍性など無い?

さう普遍的な愛では無く特殊的なー土着的ー愛着の世界のやうなものなのだらう。

 

但しイザ「大東亜共栄圏」ともなり神國として🗾の領土が拡大されれば🗾の神神が例えば東亜細亜や東南亜細亜を支配するやうになる。

 

また其の切支丹にせよイスラームにせよ本來は普遍の神などでは無い。

其処を普遍的にしやうとしたことの無理が祟り現在世界は困ったことになって居る。

 

では「全能の神」を信じぬのだな?

どだいこんなに疑り深いわたくしが果たして何を信じると云うのだ?

 

ならば佛もまた信じて居ない?

ズバリ信じて居ません、だから人間は解脱なんぞ出來ないと何度も此れ迄述べて來た。

 

決して解脱なんぞ出來ないがのべつまくなしに数を増やし地球を破壊する人間は其の解脱云云の前に大きく問題がある。

だから治すと云うか目指すべきは其の破壊をまずは止めることでありむしろ其れは宗教以前での人間としての務めである。

 

だから環境破壊の問題とはまさに其の「宗教以前」での御話なのだ。

環境破壊の問題とはまさに其の宗教をないがしろにすること以上に罪深く且つ決してやってはならんことである。

 

 

例えば其の「神宮外苑」の木立を伐採することがまさに其の罪深い行為に当たる。

 

サザンオールスターズ - Relay〜杜の詩 [Official Music Video] - YouTube

 

こちらなどは大變良い曲です。

 

桑田佳祐 - Wikipedia氏は近頃こんなメッセージ性を盛り込んだ曲を作って居られる。

 

では何故「藝術」の分野は等しく環境破壊を阻止せんとするのか?

其れは先にも述べた如くに「藝術」とは「感度」だからなのです。

 

「藝術」とは「理論」の前にまずは「感度」の鋭さのことである。

 

故に「藝術」に属する人は有名であるかまた無名であるかは関わり無く鋭い「感度」を有して居ます。

まさに其の「感度」こそがかって聖フランチェスコが持って居た「感度」にも繋がるものです。

 

尚桑田 佳祐氏は自分より年上ですがとりあえずは同世代です。

同い年なのは石井竜也 - Wikipedia氏ですが個人的には彼のことが余り好きでは無い。

 

其の人間が持つ「感度」とはおそらく生まれつきの部分が大きいことだらう。

故にこそ其の「感度」を強く持つアーティストの面面はまさに其の「自然破壊」の面に関して敏感なのだ。

 

 

ですが人間の全てがさうだとはまさか言えぬ訳です。

人間の全てがそんな敏感體質ではむしろ世の中は回って行かぬことだらう。

 

よって鈍感さを恥じる必要は無いのだと個人的には思う。

されど人間にはして良いことと惡いことがあり文明の持続可能性が問われて居るたった今「自然破壊」をして行くと云うことはむしろ有り得ない話です。

 

でもって「自然破壊」をして行く文明の推進者側つまり統治者側の罪をまずは考えねばならぬが實はまた其のことも文明の枠内では問えぬ話となる。

例えば小池都知事の認可のことを先日批判したが統治者と云うものはそもさうした立場に置かれた者なので常に文明の側からの利益を求めて行かざるを得ない。

 

すると其のこともまた所謂「全體主義」の問題であることにピンと來る人もまた中には居られる筈です。

さうなんです、文明による「開発」其のもの又は文明の「進歩」其のものが須らく「全體主義」化して居ります。

 

ところで以前に「全體主義」の特徴のことを述べて居ますが思い出して頂けたでせうか?

 

其れは「全體主義」とはつまりは「社會の暴走」のことですのでそも歯止めが効かずさらに個に對し其の罪を問えぬのです。

勿論戦時中などは例えばヒトラームッソリーニ、さらに東條 英機などの罪が問われた訳ですので必然として社會の最高指導者は其の罪を問われることとなるがでも本質的には社會其のものの罪ですので処刑される社會などは何処にも無いのです。

 

また逆に枢軸國側が大戦を勝利して居たならば逆に連合國側の體制なり指導者なりが罪に問われて行くこととなる。

でもまた其の場合も本質的には社會其のものの罪を問うことは非常に難しい御話とならざるを得ぬ。

 

まさに其の部分こそが「社會が仕出かす犯罪」の厄介さの部分である。

でもって近現代文明は「より良い社會をつくるのだ!」とさう常に叫びつつ逆に「より惡い社會をつくる」のでした。

 

だからまさに其れは「社會が惡い」のですが其の社會のあり方の惡さは「全體主義」により本質的には糾弾出來ぬこととなる。

 

じゃどーすりゃエエんですか?

アーティストがどんだけ叫んでも此の侭自然は破壊されるのか?

 

 

ところでそも明治神宮 - Wikipediaって此の問題に関しどう考えて居るのか?

 

明治神宮外苑 - Wikipedia

 

うーん、結局は再開発することで金が欲しいのはむしろ明治神宮側だったのか?

 

されど今日先に述べましたやうに神社の価値とはまずは「自然其のもの」でありまさに「自然崇拝」としての価値なのだ。

尤も「國家神道」的な要素が加わるとまた違うのかもしれんが、でも戦前でもあるまいし其れはオカシイ。

 

ですが大きな神宮の運営は確かに大金がかかることでせう。

 

 

ちなみに名古屋市には熱田神宮 - Wikipediaと云う大きな神宮があり此処は家より🚲で参拾分位ですので自分なども屡訪れて居ます。

 

神宮内の食事処で「宮きしめん」を食いに行くのがまずは目的ですが其ればかりでは無く外周路のやうな散策コースがあり其処を訪れますとまさに原生林を堪能出來るのです。

熱田神宮境内の『宮きしめん 神宮店』がリニューアルオープンしたので行ってみました。 | 名古屋情報通 (jouhou.nagoya)

 

尚「宮きしめん」はいつも食いたいですが何だかんだで結局此処弐年ばかりは食えて居ません。

其の「宮きしめん」だけだと物足りないので他に🍚だとかを付けた方が良いやうに思います。

 

また宝物館には常時名刀などが展示されて居り其れを観て來たりも出來る。

 

宝物館のご案内 | 初えびす 七五三 お宮参り お祓い 名古屋 | 熱田神宮 (atsutajingu.or.jp)

熱田神宮宝物館 | 【公式】名古屋市観光情報「名古屋コンシェルジュ」 (nagoya-info.jp)

 

兎に角此処は是非御勧めです。

 

【公式】草薙館 (atsutajingu.or.jp)

 

うわあー、今まさにこんな刀剣展をやって居た!

こりゃどうしても行かなイカンわ。

 

 

そんなこんなで其の神宮外苑開発問題に首を突っ込んだ御陰でむしろ地元の大事な展示のことが分かりかうしてどうしても行く羽目に陥りましたのです。

出來ればついでに「宮きしめん」も食って來たいところだ。

 

結局名古屋もまた参大都市の壱つですので色色問題などが根深くありさう東京のことを言えぬ立場でありますがヤッパシ何処か東京よりはのんびりして居ると云うかつまりは多少樂かと常に自分は思う。

 

だが實際には決して樂では無い。

樂では無いが何とか「宮きしめん」を食いに行く余裕だけはあるのやもしれん。

 

でも大地震が來たらもう終わりだ。

だが其の時はみんながもう終わりだ。

 

其の「宮きしめん」に是非🦐天を付けてはどうか?

アナタ今實に素晴らしい提案をされました。

 

さうだったのか!

どうも其の🦐天をずっと食いたくてたまらなんだのだった。

 

だから🦐フライが食いたいと兎に角其ればかりを此のところ思っておった。

だから其れを熱田神宮にて食って來いとのお告げがたった今出た!!

 

 

神宮店 | 名古屋名物 ひつまぶし「あつた蓬莱軒」 (houraiken.com)

 

熱田神宮の南側すぐのところにこんなひつまぶしの名店もまたある。

だが土日祝日は並ばないとまず入れない。

 

ちなみに自分は此処の鰻が特に美味いとは思って居ない。ーと案外鰻に拘るのがわたくしだー

 

さて熱田区の原生林は熱田神宮にしか残って居ない筈である。

熱田神宮はかの信長公が戦勝祈願に訪れたところでもありおそらく当時はまだまだ自然が残って居たのだらうが今や此処瑞穂区よりも文明が進んで居る。

 

であるからまさに其の部分こそが神社や神宮の価値であると自分はさう述べたのである。

そんな鬱蒼とした杜に囲まれし神域こそが此処🗾の古來よりの神がおわす場でなくて何であらう?