50.人間は観念に生きてこそ長生きが出来る
さて本日は郵便局へかんぽ保険の不明部分を聞きに行き帰りにファミリーマートのまた違う店舗に寄ったがこちらでは至極普通に客対応は良かった。
左様に世の中の全てが良く悪いのは自分だとは思わぬ方が良い。
常に此の世はさうしたまさに精神的な玉石混交であり謂わば悪意と善意とが入り混じるところなのだ。
年を取ると其の辺での世のカラクリがイヤでも見えて来る。
が、眞面目な人はつまりは善人がまた多い訳なので特に若い頃は逆に自分が悪いんだとさう思いがちな訳だ。
だが其れはさうは決め付けぬ方が良い。
其のバカ店員の対応こそが最低である可能性の方がむしろ高くあらう。
だからさう云うのはガマンして居ないで逆にこちらから教育してやるに限る。
さて本日は朝起きた途端此の寒さに何やら不安となり結局は此れもまた社會が悪いせいなのではないかと色色と理論を其処で考えても居りしがすでに全部忘れて仕舞った。
さうだ、此の際五年振り位にピザでも取って食べやう。
との訳でピザーラのハーフ&ハーフピザを待って居るがまだ弐時間もあるのでまた何かを述べやうかとさう思う。
では何故わたくしが五年間もピザの出前を頼んで居ないのかと言えば我は基本的に其のピザの出前が嫌いである。
即ちむしろピザは好きなのだが常に頼んでから自転車にて取りに行くのである。
わたくしはさうして人任せと云うことがまずは基本的に嫌いである。
つまりは常に自己の意思決定がハッキリして居る訳なので人任せにはせず自分で動き今抱える問題なり課題なりを解決していきたい方である。
つまりは意外と政治家向きである。
なのだが同時に面倒臭がりなのでもまたありまた何かが起こることよりも何も起こらぬ方の価値を常に尊重しても居る。
と云うことは結局全然政治家向きなのでは無かった。
兎に角日本の政治は其の種の人任せ政治、人頼み政治、さらに人たらし政治なのでもう人間ダラケ、他人ダラケで主體的意志決定も何もありはしない。
だが日本の政治家共よ、さうして君等がボヤボヤして居るとほんに将來日本は沈没するぞよ。
政治にはさうした意味で大きく社會的責任が常に問われて居る。
かの適菜氏や我のやうな政治家をボロクソに貶す文人はだから實のところほんたうのことを述べて居るのだ。
我等は君等のやうなアホ共に事の眞相を教えてやっても居るのだ。
さても此の際日本の総理大臣をかの岡林 信康氏にやらせてみるべきなのではないか?
だが岡林はまだ生きて居るのか?
まだ生きて居ました。75歳ださうです。
でも岸田が!
岸田はな、其のアホ共の中では意外と良くやってる方だ。
流石は早稲田を出た奴のことだけはある。
だが彼には思想がそも無い。
日本を江戸時代に戻すと云う其の強い信念などそも無い。
壱體何でまた日本を江戸時代に戻すのだ?
まあ其れは日本がすでに沈没寸前だからなのだ。
だが正直僕には此の気候の不安定さの方がより恐ろしくも感じられて居る。
即ち現代文明に取っての喫緊の課題とは矢張り此の自然破壊による大リスクのことなのだらう。
さてたとえ雨降りでもさうして自転車で移動する我は家に帰って来てからがむしろ大変だ。
即ち自転車を拭き錆が出ぬやうにすることこそが難儀である。
さうかうするうちに次第にピザが届く時間が近づいても居る。
ピザだのハンバーガーだのをかうしていい気になり食ってるとおそらくは早死にすることだらうがまあ其れも仕方の無いことである。
何故なら日本人の體は千年単位に亘り低カロリー食に適合して来て居るので戦後特に七拾年代以降高カロリー食をやった報いは必ずや此の我我の體にしかと響くことだらう。
だから其処を誰も考えては来なかった。
また戦後👩共が教育を受け働くやうになり戦前には普通にあった家庭料理の数数が破壊されて行ったともまたされて居る。
まさに其の合理化こそがむしろ最悪の食の合理化だった。
だから我我の世代位からか日本の👩共がまともな日本の飯を作れなくなって行った訳だ。
そりゃあ、さうだ。
其れもむしろ六拾代位から教育を受ける機會の平等化が進み我我は同じやうに学校や塾へ通って居たのだから…。
だが学校や塾へ通い其れでもって日本の飯の作り方を覚えられるのだらうか?
ちなみに我には壱歳下で理系大卒の従弟が居るのだが八拾年代になると彼が結婚することとなり其の結婚式に我もまた参列したのであった。
当時其の従弟はデカい會社へ入り頑張って居たが家に帰ると決まってその辺のコンビニなどで買って来た惣菜ばかりが並べてあるので其れがもうイヤになり揚句に離婚して仕舞う。
其の後彼は其の會社も辞めて仕舞い以降は主に👪や社會に対し文句を垂れるだけの所謂引き籠もりの生活に入って行った。
彼の人生もまた滅茶苦茶であるが拾年程前に彼と話した折に彼は私にAKIちゃん、もう労働などは止めた方が良い、また兎に角👩には近づかぬ方が良い、などとまた酷く後ろ向きなことを言うので辟易して居たものであったがただ半分位は彼の言う事にも壱理あると正直我は思って居たのである。
でもって別に彼のことを擁護するのでは無いのだけれど、確かにかうして世界の様様なものが崩れて来ると彼のやうな生き方が絶対に悪かったとは言えぬやうな気さえするのである。
逆に我もまた出来る範囲で社會と関わっては来たが其の事が果たしてほんたうに社會の役に立って居たのかと言えば其れは可成に疑わしいことである。
むしろ我が参拾歳位の頃から引き籠もり作家としてネット上で色色と社會に対する文句を垂れて居ればまさに其の方が社會の役には立ったのかもしれない。
我はまた彼と話を是非してみたい。
さて彼は長身でもってして昔は「トシちゃん似だ」とさう言われて居たのである。
▼ハーフ&ハーフ イタリアーナ 炭火焼きビーフ ├サイズ:M ├生地:イタリアン ├税込価格:2,480円 └数量:1 ▼焼きたてアップルパイ ├税込価格:440円 └数量:1 ■税込小計金額:2,920円 ■税込お支払金額:2,920円(内消費税額 216円) ■お支払い方法:現
さて其の五年振りのピザーラのピザであるが、正直なところすっげえ美味かったのだった。
でもって實はすでに全部食って仕舞って居る。
但しアップルパイだけは残って居る。
味見をすると此のアップルパイも大層イケる。
でもって、我は此れ迄弐、参箇月に壱度程ドミノ・ピザをお持ち帰りにて食って来たのだったが今後は其のピザーラも視野に入れなければならぬことに今回しかと気付いた。
とりあえずはほんに良く出来たピザでした。🌸
そも其処で其のハーフ&ハーフを何故選んで居るのかと云うことが皆様にはお分かりだらうか?
何故なら所謂クォーターではメニュー選択の主體性がそも損なわれて仕舞いがちだからなのだ。
即ち其れはあくまで店の側が決めたクォーターメニューであり我が自分でもって組み合わせを考えたものでは無いのである。
何でそんなところにまでまたそんな妙ちくりんな「思想」に拘るのだ?
いや其れはあくまで意思決定としては大事なことだらう。
ふーん、普通はソコまでまさか考えて居ないことかと思われますが兎に角アナタはさうなんですね。
だからむしろソコが壱番大事なことだらう。
うーん、何だか理窟っぽい選択でもって所謂女子供には理解不能なピザの選び方ですよ。
さうかなあ、うしろ完璧な選び方だとさう思いますのですよ。
さても其のハーフ&ハーフピザであるが兎に角コレが絶品である。
しかも其の「イタリアーナ」と「炭火焼きビーフ」との組み合わせでなくてはならない。
では例えば他の組み合わせは全部ダメなのか?
いや其れはワシがまだ食って居ないのでほぼ未知の世界のものではないか。
其れにお前等が何を選ぼうがそんなものはオレには美味く感ぜられる筈が無い。
…何て独善的な意思決定なのだ。
さうか、アンタが言わんとして居ることとは要するに自分に自信を持って物事を選べばもう全ては完璧で且つ幸福だ、しかも自分もまた絶好調であり何をどう周りから言われやうがそんなもんは全て雑音だとさう言いたいのだね?
良くぞ分かったね、まさに其の通りです。
さて其の「イタリアーナ」と「炭火焼きビーフ」の組み合わせでのハーフ&ハーフピザには「バジル」と「ペッパー」の粉が付いて居る。
ではどのやうに其れを振りかけるべきなのだらうか?
無論のこと其の正解とは「イタリアーナ」には「バジル」であり、さらに「炭火焼きビーフ」には「ペッパー」を是非かけねばならぬのである。
其れを逆に行って仕舞うともはや全ての努力が水泡に帰すことだらう。
努力?
ピザ壱枚を食うのにそんな努力が居るのか?
其れも当たり前のことよ。
まずは此の世で起きる全ての現象には何らかの理由があるものとさう捉えて置くべきである。
其れは縁起のことか?
さうだ、しかも行為とは常に観念と連動して引き起こされて居るものである。
故に誰しもが観念上の選択、意思決定にはまた責任を持たねばならない。
けれども其れが自立的に行われて居ない限り其処には責任が生じないこととなる。
まるでハイデガーの自己責任論のやうなことを仰る。
即ちハーフ&ハーフピザに於ける我が選択は畢竟其の責任をしかと担いしものなのだ。
またひいては現象とは観念の責任其のもののことなのだ。
もう話が難しくてピザを食っても味がしないことかと思われますが味わえましたか?
もう充分に味わえて居ます。
だから其の小難しい理窟にて味わうのです。
食欲哲學詩人さん、もしやアナタは生活の須らくをかうしてイチイチ哲學しつつ味わって居るのですか?
ほぼ其のやうに味わって居ります。
では「アップルパイ」を食う時などもまた非常に難しい何らかの理論を念頭に置きつつ食しておいでなのですね?
いや「アップルパイ」はタダ普通に食うだけです。
何でソコにそんな大きな違いが出るのですか?
其れは分かりません。
ですが「アップルパイ」を哲學しろとさう言われるのであれば幾らでもさう致しますがもはやメンドクサイので其れを致さぬだけのことだ。
其のアナタの哲學的思考はおそらく何処にでも入り込んで行くのでせうね。
おそらくはさうでせう。
むしろ限界は無いことかとさう思われます。
要するに観念は常に暴走することが可能だ。
されどハーフ&ハーフピザとアップルパイは常に具象的限定物だ。
故に其処で可能となる哲學的思考と言ってもたかが知れて居ます。
いやでも充分に深い御話でしたよ。
其れももう読者のみんながイヤになる程に。
さうですか、其のボクの思考がイケてましたか、わーはっはっはっはっはっのはー。
いやイケて無いとさう申したのです。
ーまさに其の瞬間に食欲哲學詩人は何処かへ消え失せたー
さて其のピザーラのピザですが、如何にも価格が高い。
ピザとは伊太利亜でのお好み焼きの如きものなのでせうから、せいぜい千円位のものにして置きませんとどう考えても納得は出来ない。
【衝撃】日本人は「宅配ピザは高額すぎる」と感じている事が判明! 適正価格はMサイズ1000円 | バズプラスニュース (buzz-plus.com)
日本のピザは高すぎる!その理由を検証! - PizzaLoverJP
まあさうした合理的な理由もあることでせうが、壱つには日本人には所謂舶來趣味なるものが昔からあるものと思われる。
其れは洋物へのあくがれであり洋物は良いとの信念であり信仰です。
其れも半分位は当たっても居るのですがまた半分位は間違っても居ます。
またピザは海外では壱般にあくまでおやつのやうなものでまさか主食にはなり得ぬものです。
其のおやつ程度のものが常に弐千円以上もすると云うのでは次第に誰も買わなくなって来るのは当たり前の話です。
其処でピザ屋の方はあの手この手で安くしたり持ち帰りならばもう壱枚タダで付けたりとまさに必死の態にてやって居ます。
でもピザが好きな我の経験からすると矢張りドミノ・ピザは安く持ち帰りですと千円~千五百円位で買えた訳です。
なのですが、今回五年位振りに食したピザーラのハーフ&ハーフピザ、其れも其の「イタリアーナ」と「炭火焼きビーフ」の組み合わせでのハーフ&ハーフピザの味わいは忘れ去ることの出来ぬ素晴らしいものでした。
其の「イタリアーナ」の方は如何にも伊太利亜っぽく所謂ピザらしいピザの味なのですが、「炭火焼きビーフ」の方は濃厚な味わいでもはやコレは焼肉屋でカルビを焼いて食ってるやうな味さえもがして居るのです。
故に其の濃厚さとサラリとしたトマトの風味が非常に対照的な組み合わせなのだが實は其其に個性を主張して居り飽きの来ぬ深い味わいを其処に醸し出して居るのです。
ですので、結果的には其の我が選択がほぼ完璧であり優れて居たと云うそんな話のオチである。
またもやナルシストに変身しましたね?
いやさうでは無い。
ほんたうに美味かったからあえて此処まで書き込んでみたのだ。
要するに矢張り御馳走を食べたと云う感じが致します。
つい先日なども従妹夫婦がうな富士ー靑鰻を用いる高級店ーのうなぎ丼を買って来て呉れたが確かに此れなどは今年に入りまさにNo.1に美味かった。
お品書き | 【公式】炭焼うな富士 (sumiyaki-unafuji.com)
ところがむしろ其れに匹敵する位に美味かったですね、其の「イタリアーナ」と「炭火焼きビーフ」の組み合わせでのハーフ&ハーフピザが。
でもって今度は是非テイクアウトで行かうかとさう思いますのです。
何故なら今のところは壱枚テイクアウトで買うと弐枚目は無料とのことですので…。
そんな訳でもう少し社會を批判したらうかとさうも思うのですが兎に角本日は其のピザーラのピザの美味さにノックアウトされて仕舞いました。
ー「こだわりが強く完璧主義の人は、常に100点、常にいちばんじゃないと気が済まないわけです。ですが老化と同時に脳も肉体も衰えます。当然、いつかは100点満点にできなくなりますし、いちばんでいられなくなる。それが本人には“喪失体験”になる」ー苦悩を抱えていた渡辺裕之さん 老化で感じる肉体の衰えによる「喪失体験」か (msn.com)
其の拘りがありまた其れに応えられるだけの能力のある人はさうして自分の力が落ちて行くことに対して我慢がならなくなることでせう。
ですが我の場合は常に守備範囲が広いのでたとえあれだけ凝ったゴルフが出来なくならうとどうしやうと他のものへと興味を移せば良いことなのでそんなに強く喪失體験を感じなくても良い訳です。
其れと守るものも少ないので其のことをなるべくそんなに気にしないやうに生きることだけを心がけて来た。
で、老化と同時に脳と肉體は衰えると上に書かれて居ますが其れは当たって居ません。
確かに肉體は衰えますのですが、御勉強を日日重ねる限り脳は衰えるどころかむしろ最高潮に働くやうにさえなるのです。
例えば其れは所謂知の巨人としての立花 隆先生の脳味噌こそがまさにさうだった訳なのでした。
先生は七拾代後半の時点で「自分は今最高に勉強が出来て居る。」などと述べられて居たものです。
また我の場合なども實際に今の方が昔よりも遥かに頭が良くなって来て居ます。
つまるところは人間の観念とはむしろさうして磨かれて行くものなのだ。
ですが御勉強をしないともう脳は弱り後は可愛い孫の頭を撫でることだけとなって仕舞うことでせう。
でも僕には其の孫が居ませんのでかうして毎日が御勉強の日日です。
其れに御勉強すると万年筆や石と戯れたりも出来ますのでさうして遊びながら御勉強が出来る訳だ。
さて此の際ズバリ申しませう。
其れは肉體は還暦を過ぎるともはやダメですが観念の完成はむしろ其の還暦からが勝負です。
なので還暦を過ぎてもまだまだ元気な奴とは結局は観念的な奴なのだ。
さうだよ、だからまさに其れが我のことなのだ。
ですので我なんぞはまだ生まれたての赤子のやうなものでせう。
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ。
尚渡辺 裕之氏は個人的に大好きな俳優さんでした。