🗾人の認識に就いてー🗾人はナゼ中國と露西亜を嫌うのか?ー
特に變なところに生眞面目な🗾人はなるべく認識の方を狭めない方が良い。
其の認識とは持って居る価値観や意見のことです。
まずはソノ持って居る堅固に築かれた価値観や意見を疑ってみる方が良いのです。
ナゼナラ此の世の価値とは常にさうしたものであり別に🗾的な體制維持=封建體制の維持の為に其れ等が決まって居る訳では無いのです。
つまりはさうして世界での価値は日日激動しつつ變化して居る。
されどココ🗾國に限ればむしろ時が止まり永遠に同じことを繰り返すが如くである。
まあ其れがかの國の価値観でありつまりは國家神道的な皇統の護持だのおおまさに神國日本としての絶對に變わり得ぬ神より授かりし価値であったりもする訳だ。
ですがまあソレを言ってるのはココ🗾のみに限られるのでして…。
だからもはやソノ考えはまるで通用しないですよ。
どだい地球温暖化の進行によりココ🗾國は次第に熱帯化して來るのである。
さうしてイザココ🗾國が熱帯化したらもうアロハシャツしか着られず他の何を着ても暑いのです。
🗾人はさうものの見方=認識其のものがそも他の民族よりも狭い可能性が高くあるのではないか?
だから行動や思考が画壱的になりがちでありしかもみんなと同じことしかやれませんのでまた都知事選でもアノ小池 百合子をこそ選ぶのです。
さらにアノ惡の組織であるジミントーが生き残る可能性すらもがまた有るのです。
つまりはさう抽象的なデカい概念価値=イデオロギーやヒエラルキーと云った価値であり価値観に頗る弱い。
尤も其のイデオロギーやヒエラルキーと云った抽象的な価値は普通選択制なのですがかの國に限りむしろソレは選択では無くむしろソレにこそ従うことなのだ。
どだい米國のやうな先進的な國では例えば「大統領」だと云っても其れは絶對の価値とはなりません。
だからおそらくはまたトランプ氏が大統領に復帰することでせう。
其のトランプ氏はプーチン氏に尊敬されて居りのみならずまたかの北朝鮮とも良好な関係を保ちつまりは「第参次世界大戦」を回避する意味では大きな役割を果たすニンゲンです。
またトランプ氏は所謂右翼政治家でしかも「限定主義者」ですのでそも無制限の人権の拡張や移民の保護政策に對し反對して居ます。
また大金持ちであり其れはイケないことではあれでも彼はグローバリズムによる経済的搾取に對しても専ら反對して居る。
故に彼が再選される方が世界情勢に取ってはより好ましいこととなる。
ですが小池 百合子が再選されればおそらくトーキョーはより惡くなることだらう。
ならばコノ際河村ナゴヤ市長を東京の地下組織にでも潜伏させ「革命政権」の樹立を目指しやらせてみては如何でせう?
いや河村氏はナゴヤだけが繁榮すればソレでヨシとして居る。
故にオーサカやトーキョーとはまるで無関係に日日を生きて御座る。
でも河村氏は革命して総理をやるのだとかってさう述べて居られました。
ソレがどうして最近は大人しくなって仕舞ったのか?
さあ其れは分かりませんね。
ワタシは何時も河村氏の近くに居る訳では無いので。
但し河村氏の場合はもう五度程講演會だの何だので話を聴いて居ます。
また壱度などは相生山の蛍観賞にてすれ違ったことなどもまたありましたのです。
さて🗾人は兎に角「革命」が大嫌いです。
よって🗾人は最終的に中國や露西亜を目の敵とします。
でも自分の場合にはそも文化的に中國や露西亜から大きく影響を受けて來て居るのでむしろ其のことが不思議でなりません。
さうして中國や露西亜には優れた文化的伝統や自然的価値が有る。
ナゼ其のことを鑑みずさうしてまるで生理的に彼等を嫌うのでせう?
逆に申せば🗾人ってすでに「革命」のことを學ぶ機會を失ってすら居る。
他方でワタシは大學でまさにソノ露西亜革命に就き勉強したのでナゼ其の露西亜にて社會主義革命が起きたのかと云うことを今でも屡考えたりもまたして居る。
でもってたった今むしろソノ「社會主義革命」こそが人類史の上で最大且つ最重要の課題であったとさう思われてなりません。
ナゼナラたった今世界はソノ社會主義體制陣営と自由主義體制陣営とに分かたれソコでもって戦争さえ起きて居る始末です。
尚社會主義の本質とは「あえて自由を制限し國家としての経済的計画に従うことで勞働者自身が得られる幸福」のことでありソレは自由や富を最大限に追求するだらう所謂自由資本主義體制とは根本的に異なるものとなる。
つまるところ社會主義とはそんな「限定的」體制のこととなる。
では其の限定を誰がするのかと言えば共産党の独裁政権がまさにソレを行うのである。
社會主義とは「搾取構造」による不平等を體制として廃止し基本的には民百姓が平等にしかも人権を付与される侭に生きられるある意味では「理想の體制」なのです。
ではナゼそんな「理想の體制」が廿世紀には成功せずいまだ人類は過剰なる搾取や過剰なる不安の只中に置いていかれて居るのか?
其の答えは、
1.資本の強欲
2.民人の洗脳
3.誰しも贅沢がしたい
との要因が幾つもまさに複合的に重なることでソノ「理想の體制」への道を閉ざされて居るからのことだらう。
また學者であれまた政治家や官僚であれ普通はみんなカネが欲しくつまりはより贅沢な暮らしがしたいのだ。
さらに文人ですらさうなのですがでも自分の場合はそんな贅沢では無い物集めの世界が有る筈だとさう思いモノに就き語り始めたのです。
例えばアノ五木先生や養老先生などはソノカネを持ってるが自称の詩人はいつもカードの支払いの方に追われて居るバカリでデカいカネをまるで持てずに居る。
だからむしろソレはワタクシの文學に取り最高の立場なのではあるまいか。
なので五木先生や養老先生がブランド品を御買いになる其の金額の拾分の壱や百分の壱のカネでもってむしろ絶對にコノことを實現してやる。
…流石だビンボー詩人はエライ!!
どうも有難う。
さう言って呉れたのはむしろ君ダケだ。
でも五木先生や養老先生の金回りの良さを僻むのは其れは御門違いではないのか。
いやでもソレは不平等ですよ。
また大谷君はどんなにホームランが打てるにせよ儲け過ぎです。
ほらさうしてすぐに「努力」する人のことを常に貶す。
ソレはそもじぶんが努力をしたくないからなんだろ!
…さうだったかな。
さう言えば最近は「努力」なんてドコか別世界のことのやうに思えてならない。
うーん、だがコレではイカン。
だからランボーの映画の最後の奴を是非視てみたい。
さうか、また漢として社會に出て闘うのか?
いいえ🗾共産党の何かの仕事を手伝いたく思う。
アンタでもまたソレをやると余計に村八分だぜ。
尚🗾共産党のオバサンがつい先日新聞の代金を取りに來られ5月にマルクス主義者である斎藤 幸平先生の講演會に行ったと云う話をされて居ました。
しかし八拾歳位の髪の毛が眞っ白の婆様なのですがまさにスゴイ思想的エネルギーの持ち主です。
いずれにせよ近代化した筈の🗾國の體制がいまだ封建制の域を出ないのはズバリ申して其の社會主義思想との大きな距離感に有ることはほぼ間違いないことだらう。
ところがココ🗾國は實は社會主義國家なのでもまたある。
例えば健康保険や年金受給の制度などはまさに其の社會主義政策として機能する立派な公的扶助制度となる。
ところが當の🗾人は自國がそんな社會主義國家だとはまるで思っては居らず。
なのでまずはソノ認識をこそ改めて行く必要が有る。
尚健康保険や年金受給の制度がもしも今後崩壊するのだとすればソレはココ🗾が完全にソノ社會主義と縁が切れるとのことを意味するのである。
よってまずは社會主義は全部惡者だと云う認識ダケは改めて置く方が良い。
また事實上ココ🗾國はまさにそんな社會主義政策こそが支える國家なのだから。
さう其れは別に皇統が支える訳でもまた米國が支える訳でも無くそんな社會主義政策こそが支える國家なのだから。
ちなみに現在ソノ社會主義政策自體が先行き不安と申すかつまりは不安定化して居るのはココ参拾年バカリを政府が米國流の先進的資本主義の意向に沿うやうに経済體制ソノものを變化させて來たからのことである。
アメリカ年金制度の概要|日本年金機構 (nenkin.go.jp)
尤もかうして米國にも年金制度が有るやうですが果たしてどの程度機能するものなのか?
いずれにせよアノ米國ですら老後の金銭的補償と云うことはかうしてちゃんと考えられて居るとのことなのだ。
さて今後むしろ世界の諸価値は多元化する方向性へと向かうことだらう。
其れはまさに同時に幾つかの価値観を理解しなければならなくなるとのことである。
またトランプ氏はまさに其のことに就いてもむしろ率先してして居られるやうに見受けられる。
つまりは共産圏諸國との付き合い方が實に上手である。
さらに言えばクリスト教徒もまたイスラーム教徒を理解して置かねばなるまい。
なので世界規模ではまさにさうしたことなのだが果たしてココ🗾ではたった今ナニが行われて居るのか?
アアそんな政見放送でのストリップ・ショーなどか。
全くのところそもやってることの次元が可成に低いわ。
ではそもなんでそんな低くなったの、ソノ🗾人の認識のレヴェルが?
ソレは封建制にバカリコダワリカクメイもナニも無いからこそさうなるのだらう。
要するにいまだ江戸の幕藩體制下にあるのだよ、まさにコノ國の體制ソノモノが。
但しソレならソレで良いのだが問題は物資をほぼ海外に依存し輸入するとのアノ鎖國とは正反對のことをやり続けて居ることだ。
だから鎖國自體はイイのだが實際には鎖國どころか物資の輸入大國となってるので地球温暖化がコノ侭に進めばもはやなにも入って來なくもならう。
なので其れはもう今すぐに止めて是非鎖國せよ。
さうして神戸と横浜のみ開港すべきだ。
兎に角イデオロギーやヒエラルキーと云った抽象的な価値はどう變わるものやら誰にも分からん。
故にさう云うのに固執すること自體がむしろ認識上の誤りなのだ。
よってむしろソノ種の抽象的な価値を切り捨てたった今としての具象的現實に生きる。
まさにさうした認識こそが「現實を直視」することに他ならない。
さう「現實を直視」することとは大きくものを語らず地に立つ自らの足場に就き語ることなのだ。