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『背進の思想』から読み解く五木 寛之先生流の「捨てない生き方」ー+コレクションの御勧めー

『背進の思想』から読み解く五木 寛之先生流の「捨てない生き方」ー+コレクションの御勧めー

 

 

 

 

兎に角此処にて文學だの他のことー物語りーなどを含めもっともっと包括的、網羅的に書けて行けたら自分自身にこんなにフラストレーションの如きものが溜まらぬやうにも思うのです。

また其のことがつまりは「文明」の問題とまともに向き合うと心身共にやられて仕舞うと云うことなのだと思われます。

 

さて火曜と金曜に読書の時間が取れますので本日は以下の本を再読したところです。

 

 

五木寛之 『背進の思想』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)

 

昨年に出された此の本はつまりはエッセイ集で肩肘張らずに気樂に読み返すことが出來る点がまずは良い。

其の五木先生は母と同年代で要するに我我還暦世代の親に当たる世代の方である。

 

故に戦争の時代を知る最後の世代なのでもまたある訳です。

ところが我我還暦世代には其の戦争のことなどはまるで分かりません。

 

但し幼い頃に六拾年代の日本を體験して來ては居り其れが今の日本の様とは可成に違って居たことを實感として知るのが我我還暦世代です。

其れでもってイザ還暦を過ぎますと其の六拾年代の日本こそがまるで記憶の中の夢物語のやうに追想されるのです。

 

其のやうに七拾年代の日本と六拾年代の日本は質的に異なって居たやうに思われてならない。

無論のこと七拾年代の日本の方が今の日本にはより近い訳です。

 

だが六拾年代の日本に限りまるで御伽噺の世界のやうに其の全てが思い起こされるのは壱體何故なのだらう?

 

 

其の『背進の思想』にはまさにそんな意味での今の日本の文明世界とは違う過去の思い出の数数がまずは語られて居たりもする。

さらに現代社會としての日本の様をあくまでそんな古い尺度から見詰め直すとどうなるか?と云う部分が書き描かれて居る。

 

ところがそんなに難しい話などは出て來ずある意味では淡淡と老作家が見詰める日本の今としての部分が語られて行く。

なので實は参時間程で読めて仕舞う本なのです。

 

ですがそんな「あえて思想を語らず其れでも背進と云う思想を語る」此の本のスタンスこそが妙に心地良いのです。

五木先生は元元純文學作家では無いが其の意味での所謂壱般性ー通俗性ーの部分が此の本に於ける最大の魅力でせう。

 

また五木先生は「靴」のことや「原稿用紙」のことなど要するに物のことまでをも其処に語られて居ます。

物のことを語るのはつまりは通俗作家のやることなのだらうがでも他面では親鸞など浄土教のことに就き述べられて居り其の宗教は然し明らかに其の通俗作家ではよもや書けない部分でせう。

 

さらに早稲田大學の露文科でのエピソードや露西亜の作家のことなどに就き述べられて居ます。

 

要するにそんなゴタマゼでの文のデパートのやうな部分こそがわたくし自身にはとても面白くむしろ至極「文學的」なものに思われるのです。

要するに哲學書や宗教書の類はまさに思想壱本槍ですが文學とはもっともっと多面的なものだと云う感じが其処からはして來る。

 

其れと五木先生は此の著作でもって「日本の未來」などに就き直接的に論じて居られる訳ではない。

でもそりゃさうなんです、何故なら「日本の未來」のことばかりに就き考えるのは所謂社會學者の仕事なんですから。

 

そんな訳であくまでわたくしにとり此の本から教えられるところが實はとても大きかったのだと言える。

 

 

五木寛之の現在。妻や子供と家族。母の死はトラウマ、弟は早逝 | アスネタ – 芸能ニュースメディア (asuneta.com)

 

五木先生は戦争を直に體験されかうして辛い出来事を重ねられて來て居ます。

なので自分は根の部分が至極暗いのだと作品中で述べられたりもまたして居る。

 

ですが元來人間の生き様はおしなべて仄暗いものだと自分は感覚的にまた概念的にさう捉える。

まさにどうにもならない「何か」を背負い我我現存在は此の世に生まれ死んで行く他は無い壱つの無残なる現象である。

 

其のことが分かると實は他人にもまた優しくなれます。

でも分からないと「威張った侭に」彼は死んで行くこととなる。

 

故に其の「威張り」こそが無知蒙昧である証なのです。

逆に眞理に気付いた人は他の全てに對し頭を下げ続けるものです。

 

 

ー「健康」や「経済」は思うに任せることはできないものですが、少なくとも「孤独」ということに関して言うと、明日のこと、前ばかり見るのではなく、過去を振り返って昔のことを回想するということが、実はすごく大事なことなのではないかと思うようになりました。
ステイホームで家にひとりで居ても、50~60年前のことをいろいろ思い出したりしていると、孤独ではない感じがしたんです。その「思い出」を引き出すためには、何かきっかけが必要です。そのことを「依代(よりしろ)」といいます。ー五木寛之さん流“人生後半を豊かに生きるヒント” | NHKより

 

『背進の思想』の中で五木先生は「孤独」は気にならないが「孤立」は嫌だとさう述べられて居る。

さて其の「孤独」はこと精神に取りさう惡いことなのではありません。

 

何故なら「孤独」こそが自らの心を豊かな想像力の場、所謂創造性の世界へと導く母胎でもまたあるからなのだ。

また此処で五木先生が仰るやうに「思い出」は消え去ることがありません。

 

むしろ「思い出」に浸ることを許さぬばかりに忙しい現代社會の社會的なあり方が其れを消去させにかかる訳です。

尤も自分はそんな全體主義には屈せずなるべく「思い出」に浸りつつむしろ現實を足蹴にしたりもまた致しますのですが。

 

なので傍から見ればそんな様がよもやまともには見えませんが其のやうに過去は確かに有り其れは社會とて奪い去れぬ實存的価値の集積なのです。

で僕もまた最近は「過去の思い出」のことを大事にしつつあり其れは別に五木先生の御意見からさうしたものでは無くでも何故か五木先生の御考えとかうして同調して仕舞ったと云う訳です。

 

 

五木:ちょっとした、一見どうでもいいようなものを見ることで、回想の“かけら”が出てきます。その糸口を引っ張っていくと、次第に昔の日々がよみがえってくるのが面白い。「これはやっぱり捨てないで大事に取っておいた方がいいな」と思って、結果“ゴミ屋敷の住民”みたいな暮らしをしています(笑)。ー五木寛之さん流“人生後半を豊かに生きるヒント” | NHKより

 

別に捨てても大事な物が残るのだとは思いますが…。

五木先生、でも佛教の世界で「ゴミ屋敷の住人」と云うのは其れは如何にもマズいです。

 

五木先生は相当にズボラらしく「風呂へ入っても體は洗わず」、「頭を洗うのは年に四度位」と『背進の思想』の中で述べられて居ますが其れも可成に宗教的にはマズい話です。

まあ自分も此処半年程本格的な掃除をして居ないのでつまりは似たやうなものなのだらう。

 

で、自分の周りが汚いと大事なものが其のゴミやら埃やらの中に埋没し失われたりもまた致します。

五木先生は其の種の紛失の常習犯ださうですが實は自分の場合にも其れが無いでは無く要するに意外とズボラなのがまさに同じなんです。

 

 

五木:昔、喫茶店のマッチを集めたり、ワインのラベルを集めたりしている先輩たちがいたんです。「なんでこんなモノを集めているんだろう?」と思っていましたが、きっとひとつひとつに人それぞれの思い出があるんですね。あそこに旅行したときにこんな店があって、入ったらこういう人がいてこんな話をしたとか、そういう思い出が、モノを眺めているとスーッとほぐれるように記憶が広がっていくんです。五木寛之さん流“人生後半を豊かに生きるヒント” | NHKより

 

何とこんなコレクションの御話です!

さう言えば五木先生はズボンとか靴とか帽子とかそんなものに拘る方で詰まりは「恰好良く見せたい」派でのつまりダンディズムがおありになる大作家さんなのです。

 

でも自分は其れとはまるで逆で身に付けない物のコレクターなんですね。

 

ー夏が来たからそれまで着ていたTシャツを捨てる、とかそんな話ではなく、そこを入り口にしてもうちょっと深いところで「捨てる」「捨てない」を考えてみたいと思ったのが、今回の本を著したきっかけです。
例えば、いまのウクライナの情勢を見ると、自分の国を捨てないために戦っています。僕は戦後、外地(現在の北朝鮮)から引き揚げてきたんですが、正式な引き揚げではなく「脱北」という形で抜け出してきました。その時の自分は“難民”ではなく“棄民”=「国に捨てられた」という感覚でした。そうした経験も経て、「仕事も捨てない」「故郷も捨てない」「国も捨てない」「人々も捨てない」…そういう「捨てない生きかた」というのが、ひょっとしたらあるんじゃないかと考えています。五木寛之さん流“人生後半を豊かに生きるヒント” | NHKより

 

確かに其の「捨てない生き方」もまたひとつの思想であり要するに「有」の思想の方ではないかと個人的には感じられます。

其の「有」の思想は本質的には佛法の方では無くむしろキリスト教などに近いものでせうが確かに浄土思想其のものが捨てない=佛性が有るとの考え方なんでせう。

 

尚「無」の思想の方ですとそも其処にコレクションなどは勿論成り立ちません。

つまりは釈迦御自身や禅宗などの思想のあり方はむしろ徹底された「断捨離」での世界のことです。

 

對して個人的には社會関係は捨て去りつつむしろ物を集めやう、また過去の思い出も今に生かして行くと云うのが自分自身の到達したところでのまさに「有」の境地です。

 

 

まもなく60歳… “下山”に差し掛かる世代へのメッセージをお願いします。

五木:「前ばかり見ない」ということが大事です。だれでも最期は往生します。確実にゴールは来るので、そのことは放っておいてもちゃんとできるから心配ない。むしろ過去のことに思いを向けて、生きかたとか自分の暮らしかた、そういう世界に、「モノ」を“依代”にしてじっくり浸ることで、「孤独」から脱出することができるのではないかと思います。思い出はすごく大事だと思いますよ。五木寛之さん流“人生後半を豊かに生きるヒント” | NHKより

 

其の「前」=未來のことはむしろどーでも良いことのやうな気がわたくし自身にも致して居ります。

また其のゴールは文明にせよ個人にせよ「過去の蓄積」こそが其れをさう齎すものです。

 

勿論過去は変えられませんが「今」を過去と結び付け「背進」することこそがむしろ大事なのではなからうか。

現代人が其の「下山」の意味を理解するかどうかと云う意味ではおそらく其れは難しいことでせうが「過去を見据える」ことは實は誰に取っても可能なことです。

 

尚「前」ばかりを見て進むとおそらく「今」の意味其れ自體を見失うことでせう。

所謂現代社會が齎す不条理性の部分に苛まれ続け「今」の幸せすらをも失うとさう見て置くべきことでせう。

 

従って文明に望まれるべき認識の方向性がそも逆方向なのです。

さうして重要なものは未來では無く過去の部分にこそある。

 

されどイザ破壊が始まった文明の未來を救う力はむしろ其の訳の分からない明日にしかない。

まさに其のことこそが其の未來へと突き進む壱方通行文明の宿命ですらあることだらう。

 

養老孟司 - Wikipedia先生と五木寛之 - Wikipedia先生の違いは個人的に其の観念性のあり方の違いであるやうに感ぜられる。

ですが自分に取り「文學的」に教えられることが多いのは矢張りと云うべきか常に五木 寛之先生の方なのです。