77.五木 寛之『背進の思想』を読んでー壱 マイナスの側を見詰める考え方は常に正しいー
さて雨降りだった月曜日には用事の帰りに七五書店へも寄り本を弐冊買って来た。
其の壱冊は五木寛之 『背進の思想』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)である。
しかしながら「背進の思想」とは相変らず本の題の付け方が上手い。
流石は五木先生である。
尚昔地元の中日新聞に五木先生の講演会のチケット応募の広告が載って居たので其れに応募したところ当選し親子参人にて其の講演会へと出向いたことがあった。
後にも先にも作家の講演会へと出向いたのは其の時ばかりでのことであった。
其れはおそらく西暦弐千年前後のことではなかったかと思う。
五木先生が壇上で熱弁をふるわれて居る其の御姿を今でもハッキリと思い出すことが出来る。
即ちすでに其の御姿が目又は脳に焼き付いて仕舞って居るのである。
2004年に亡くなった父にはまさに其れが何よりの冥途の手土産となったことだらう。
そんな経緯にて中日新聞には感謝して置かねばならぬとさう素直に思う。
其の中日新聞は此処拾年ばかりは取るのを止めて居たのだけれど年老いた母親が新聞を読みたいと云うのでまた夕刊だけ取り始めた。
夕刊は特に文化面が充實して居り時折我が読んでも頗る面白い。
尤も自分が文化人であるかどうかと云う段になるとどうもわたくしは文化人と云うよりは其れこそ唯我独尊での孤高の文人のタイプなのでそんな文化人云云と云うこと自體にすでに興味が無いのである。
所詮自分はかうして変わり者なので「我こそが文化人ですよー。」などと馬鹿面を下げて世間にヘコヘコして居るウソ文化人をみるとうわあもう虫唾が走るわい。
だからな、ほんたうの文化人と云う者はな、かうして世間にも肩書きにもまたどんな賞や権威にもヘコヘコしない奴のことをこそ言うのだ。
なんだけれどもかうして僕はいつも文化人的なことをやって居ます。
其れも本を読みかうして自分なりに考えるだけのことなのですけれども。
唯壱不満なのが其処には壱銭も金が入って来ないことですね。
何かかうおおさうだ、其の現金が何故か壱銭も入って来ないことですね。
でもって其の母が老人会だの何だのの集まりで今でも其の五木 寛之先生の講演会へ行ったことを屡周りに話すのださうな。
ところが其処で多くの人から五木 ひろしの歌謡ショーへ行ったと云うことと勘違いされて居たらしいのです。
まあ世間の教養と云うものは實際そんなものです。
所詮大衆と云うことは馬鹿の代名詞なのであり要するに其れ以上は考えられぬのでせうから其れに高望みをするのはある意味で可哀想でせう。
尤も家の近所の人が皆そんなでは無いのだがまあ世間の人人は半分はほぼ馬鹿だ位に思って置けばほぼ其れが当たっても居ることでせう。
さて其の御高齢となられた五木 寛之先生ですが、個人的にはアノ『大河の一滴 - Wikipedia』の頃より大ファンとなりよって以降は網羅的に先生の新刊書を読ませて頂いて居ります。
さらに古本などで其れ以前にお書きになられた作品なども屡読ませて頂いて居る。
其処にいつも勉強させて頂く内容であることが多く何度も繰り返し読む本なども矢張り五木先生の作品であることが多い。
と申しますのも五木先生は生の哀しみ、又は人間の哀しみのやうなものにもう早くからお気付きになられて居たやうにお見受け致します。
さう五木 寛之は純文學作家ではない筈であるのに其の生の哀しみに就きすでに直観なされて来て居るのです。
であるがゆえに佛教を論じられる御立場にも立たれて行かれたことでせう。
さて其の講演会では五木先生は兎に角日本の自殺者が多いことを様様な角度より論じられて居たやうに覚えて居る。
其れも如何にも作家的に偏向した見方なのだらうが然し個人的には五木先生の直観の部分は常に正しい筈だとさう思いつつ其の御言葉をしかと聴いて居りました。
ですが其れから弐拾年後にドーンとコロナ禍が来て五木先生の其の暗めの観念の部分が逆に世間にも浮上して来たかの如くです。
ーある媒体の記事で、コロナ後は、分散・拡散・逃散という「三散」の時代がやってくると話しました。権力の分散、情報の拡散、人やお金の逃散など、いずれもコロナ前から言われてきたことではあるけれど、コロナがきっかけになって、さまざまなことが同時的にガラガラと変わっていく。ー五木寛之「コロナ禍の大転換を"他力の風"に変えた私の技法」 「大河の一滴」にみる激変期の生き方 (4ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)より
其の「参散」なのですが、まさに鋭いものの見方なのだと思います。
但し近代は基本的に中央集権の価値ヒエラルキー社會ですので體制其のものを変えずに封建的、前近代的な意味での分散や拡散や逃散が可能かと言えばなかなか難しく逆に社會崩壊、文明崩壊の方向へと向かわざるを得ないのだと個人的には思います。
事實としてすでに様様な意味での制度的崩壊、又は精神的崩壊の面があらゆる面に及んで居ます。
其の逃散に関しては我がまた述べるところでもあるのですが其れはあくまで自己防衛としての認識を述べた迄のことで勿論皆が此の近代社會から逃散すれば近代社會はやがて立ち行かなくなります。
あくまで個人的には近代的価値と云うものは収奪乃至は搾取よりまるで幻の如くに成り立たせて居たところでの謂わば夢幻の如き価値なのであり其の本性の部分が21世紀に至り問われて居ると見るべきなのでせう。
其の近代的価値の幻想性ー抽象性ーに対し具象的限定がかうして突き付けられて居る訳でありよって其の「参散」なるある意味での自由な選択が果たしてどの程度まで許容されるのかと云うことに関しては元來未知数である部分が大きく存する。
要するに社會と個がかうして連動し歩むものである以上今後は共倒れとなって行く可能性は高いとわたくしは見て居ります。
ー僕は『孤独のすすめ』という本を書いたときに、「Together and Alone」という言葉を引いたんですね。これは、カラオケやツアーに行く、あるいは市民運動に参加するというふうに、いろいろな形でみんなと一緒にいながら、個人でいることを守るという考え方です。『論語』にある「和して同ぜず」ということですね。
これからはフィジカルな密着ではなく、内省的な、精神的な共感を共有し合う連帯が主流になっていくのでしょう。昔はデモンストレーションをしたり、一緒にシュプレヒコールを上げたり、集団で行動するのが連帯の証でした。これからは個々の人間が孤立しながら連帯していくという時代に入っていくんだろうと思います。ー
五木寛之「心が萎えた人にこそ、前向きに生きなくていいと伝えたい」 なぜ今『大河の一滴』が響くのか | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)より
其の「和して同ぜず」と云うのもまた凄い言葉だと思う。
精神的な共感は然し矢張り分かる人には分かるがまた半分は分からぬ人でもあると云う部分が人間の理性を考える上での壱つの弱点となることです。
要するに其のフィジカルな密着しか出来ない人がむしろ人間には多く居るのだと思う。
作家や詩人のやうな理性的な立場に立てぬやうな人が人間にはむしろ多く居る。
わたくしの場合はむしろ其の部分こそが気にかかる訳です。
即ち大衆的意思決定に於いては其の孤立的連帯はむしろ難しいのではなからうか。
大衆的意思決定から離れると云う意味では其れこそナチスやハイデガーが述べて居たことがむしろ正解であった可能性もまたあり、さらに所謂大東亜共栄圏構想にせよ全部が間違って居たとは思えぬことだ。
其の内省力にせよ共感力にせよ大衆レヴェルでの其れは常に低レヴェルなものでしか無い。
然しそんな全体主義を許せば個は否定されますので個を救わんが為に常に全体主義は是非否定されねばならない。
なのですが個が自由となればなる程に社會はむしろバラバラに壊れて行く訳です。
其のやうに個と社會の関係にはそも矛盾律が居据わるのでもう話がとてもややこしくなります。
こちらもまた面白い御意見なのですが、矢張り物は捨てないと溜まりに溜まりゴミ屋敷化致します。
ちなみに家の母は五木先生と同い年ですが、矢張り物が捨てられずにドンドン溜まって行く訳です。ー昭和ヒトケタ世代はさうしてモノが捨てられぬ訳だー
すると其の物の山に大事なカードなどがまた落ちたりも致します。ーさうして高齢となると動きが鈍り物が良く落ちたりするものですー
で、其の度に大騒ぎで實は月曜日も其の対応に追われ右往左往して居りましたのですが其の手続きをしてからよーく探すと其の物の山の中にまさに其れが落ちて居たのでありました。
そんな訳で年を取ると其の物の管理が次第にいい加減になって来る訳ですがあくまで個人的には要らぬものは全部捨てて置くべきだとさう思います。
何故なら禅宗は五木先生が論じられて居る浄土信仰とは違いまた壱種潔癖なのであり我もまた元来はさうなので此の「掃除をなるべくやりたく無い病」と闘い兎に角普通に綺麗にして置きたいとさう思うばかりなので御座ります。
ですが今台所がゴミ屋敷化して居り例えば床壱面にペットボトルが散らかったりもして居りますが其れは此のところ作家業の方が忙しく適当に飲んで捨てておった其の報いがちゃーんと其処に来て居るのです。
さらに念願の大掃除もまだ全然進んで居りません。
其れもこれも全ては此処の読者に責任があります。
要するに頑張って書きませんと読む人が減るのでかうして頑張って書く訳なのだが。
其れと五木先生はちゃんと風呂に入り頭を洗って居られますか?ーたまにしか入らぬさうであるー
アノ野坂 昭如氏などは歯も磨かなかったさうですがそんなバッチイ作家の大先生方ではもうどんなに立派なことを仰られても世間には通用致しませんよ。
でもってようやく其の『背進の思想』 の書評をさせて頂きたい。
まず五木先生の筆致は至極穏やかで思想染みた発言はほとんど無くまるで生活エッセイ集のやうな作品で非常に読み易く且つ面白い。
其の面白いと云うのは知的好奇心を擽る意味で面白いのでは無く普通に面白い文なのである。
其れと共に文學性のやうなものを其処に強く感じさせられた。
文學とはかうして思想や哲學の類では無くかうして淡淡と日常の細細とした出来事を描きつつ其れでも其処に何らかの思いのやうなものを伝えると云う或はそんなものであるのやもしれぬ。
だから例えば養老先生の著作には感じられないさうした文學性のやうなものが此の本にはしかとあるとさう思わせられた。
其れと五木先生は其れこそ優しいと云うか世の文物やまた人に対する対立的な見方をすでに離れられて居るやうだ。
まあ其れは愛と言っても良いのやもしれぬ。ー或は其れぞ浄土愛なのか?ー
しかしながら全体を通して読めば或は其処に其の「背進」としてのメッセージが込められて居るのやもしれぬ。
其れと原稿用紙や万年筆を使われて居る旨のことをお書きになられて居りまさに其の部分は個人的に大層興味深い記述であった。
ですので思想や哲學もまた大事なのではあれ其れはまた別の領域の専門家が居られる筈なのですから我は今回の五木先生がお書きになられたものの方が息抜きになると申しますか何だか知らぬがふっと気が抜けて逆に心地良くも感ぜられました。
尚七五書店で買った他の本は、『現代思想入門』(千葉 雅也):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)と云う其れこそ御勉強の為の本ですので御勉強モードにて読まねばならずさう簡単には読めぬ本です。
確かに文學の方もまた御勉強なのではあれ文學と思想はチョット違うと云うのが實情でせう。
ーいまの様子は、平安末期から鎌倉期にかけて起きた混乱の時代と非常に似ているんです。にもかかわらず、どこからも宗教家の声が聞こえてこない。これを言うと角が立つけども、コロナの流行で多くのお寺は拝観を停止したでしょう。道にコロナで倒れている人がいたら、お寺や教会はすすんで受け入れるべきじゃないでしょうか。それが宗教というものだと思うんです。ー五木寛之「心が萎えた人にこそ、前向きに生きなくていいと伝えたい」 なぜ今『大河の一滴』が響くのか (2ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)より
御尤もな御意見です。
宗教家は今こそ何かを言わねばならぬのにおそらくは自己保身に掛かり切りで人助けどころでは無いのでせう。
だから宗教は組織維持の為の途では無くまさに眞理へと至る道である筈なのに結局は守るものが多い程宗教もまた矛盾化して行くのではないでせうか。
宗教はだから努めて小さくして行くべきです。
組織も御布施の額もドンドン小さくして行くべきだがでも其れでは事實上寺や教會の維持は難しくなるのでせう。
まさにソコが生きると云うこと自體の自己矛盾性を表す部分なのだと思う。
ー【五木】宗教は、そういう人の不安を癒すためにあるものじゃないですか。ブッダは、不安な世界にどう生きるかという安心の道を語ったわけです。そういうふうに考えると、本当は今こそ宗教家の出番ですよね。でもなかなかその動きは見えません。これは本当に、コロナの時代の七不思議の一つです。ー五木寛之「心が萎えた人にこそ、前向きに生きなくていいと伝えたい」 なぜ今『大河の一滴』が響くのか (3ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)より
佛陀はかって確かに眞理を説かれましたが問題は其れを眞の意味で理解する知性が此れ迄に果たして何人居たかと云うことです。
おそらくは百人位しか居なかったのではないでせうか。
我もまた其の中には多分入って居ないのだと思う。
なんだけれどもかうしてあれこれとやって居るー考え込んで居るーこと自體がまず珍しいことでせう。
要するにとてもレアーな人間であり知性のあり方です。
つまりはそんな伊太利亜の万年筆並に変わって居るのがわたくしだ。
其の佛陀が語ったところでの安樂への途とは世間で考えられて居るやうな安樂のあり方とはむしろ逆方向での謂わば脱構築でのやり方なのではなからうか。
と云うことはむしろ其の世間に於ける認識が何故其れを欲しまさに其処に落ち着いて仕舞うのかと云うことをこそ問うて行かねばなりません。
ですのでわたくしの場合眞理の探究とは釈尊の説法の内容を丹念に調べることでは無くむしろ世間ー俗世界ーの認識をまずは観察して行くこととなるのです。
勿論自分の中にも其の俗的認識が半分はありますのですが、幸か不幸かかうして認識其れ自體が可成にズレても居りますのでとりあえずは其処で其れとは違う認識をすることが可能です。
其の自分に取り可能である部分より世間に対し疑問を投げかける場こそが此処であり、我が目的の全てです。
さて理論的に其の佛陀の智慧を書き連ねて行くこともまた今の我には可能ですがさう云うのはまた藝術的では無く自分の場合はむしろ藝術と佛陀の智慧をゴタ混ぜにしたやうな形でやって行きたいと今はさう思う。
【五木】この本が刊行されたときの帯の文句は「もう覚悟をきめるしかない。」でした。僕は世の中のことに、すごくネガティブなんです。人間の世界というのは、間違ったことしか通らない。「善き者は逝く」という言葉が常に頭に残り続けているんですが、善良で誠実な人たちは先に逝ってしまう。生き残るのはしぶとい人間だけだ。世の中はそういう矛盾したことに満ちているわけです。ー五木寛之「心が萎えた人にこそ、前向きに生きなくていいと伝えたい」 なぜ今『大河の一滴』が響くのか (3ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)より
五木先生の其のネガティヴ體質の部分は明らかに正しいです。
ネガティヴな考えこそがむしろほんたうのことです。
で、文明は逆にポジティヴ思考を全體主義として展開して居りますが勿論其れは完全なる誤りです。
また善良で誠実つまり正しい人間はさうして皆早う死にます。
要するに生き残るのは👿だけです。
自分も其の👿とは無関係ではないですが自分と話の出来る👿はまだしも善良な👿でありほんたうの👿はむしろ世間にて善良なフリをしつつ内心ではモロ👿であると云う人間で凡そ人間の半分が實はさうなのです。
またコロナ禍以降自分等の保身にばかり熱心で人助けをしたり世の中の姿勢を批判したりしない宗教家はウソの宗教家であり邪教の教祖でありまさに其の👿其のものだ。
【五木】人生は矛盾だらけですから。たとえば、努力したって報われないことは山ほどあります。それを覚悟したうえで努力をすれば、報われなくても落ち込みません。
ー五木寛之「心が萎えた人にこそ、前向きに生きなくていいと伝えたい」 なぜ今『大河の一滴』が響くのか (3ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)より
まさに世の中には多くを期待しないと云うことでせう。
但し餓死すると困りますので🍱と飲み物だけは配って下さい。
其の努力ですが本質的には今後努力の向きが変わるのだとさう思います。
新たな価値観とは地球を守り人間ー文明ーが出しゃばらぬやうに生きることを目指すことだ。
ですがすでに破壊の度が酷く進んで居るので其れを食い止めんが為の努力を最大限にして行く必要がある。
其のガブリエル氏の仰る倫理資本主義にせよまた斎藤先生の仰るマルクス主義の再評価にせよ重要なこととは其れ等が単に學問領域の問題では無く實質的、具體的に文明のあり方に対し発せられた課題であると云うことです。
但し文明の方向性は変わらぬ、いえ変われぬと見て置く方がより現實的でせう。
其のことを學問的に説明することもまた可能です。
可能ではあれ其れを論じてもかうして壱向に変われぬのでそんな社會はもう捨てたれと云うのもまた壱つの方向性ではある。
但し捨てたが最後余計に勉學に打ち込まねばならなくなる。
何故なら捨てると云うことがまさに精神を自立させて保つと云うことなのだから。
だから申し訳無いのですが戦前の教育が目指した「努力し頭を良くしまた軍隊を強くしやがては世界を征服する」との努力はすでに此の世界では努力では無く逆にプータロ―となったり或は橋の下で暮らすやうになったり又は詩人の如くに兎に角山の中へと逃げて行きたい。
との其の-の努力こそが評価される時がもう目前に迫って居るのやもしれません。
つまり、
「努力するとは理性的に生きてみる」
ことである。
まあですから、プータロ―又はルンペン生活或は仙人化、此れ等と地球温暖化と闘う為の科学技術の推進とはほぼ等しいことだらう理性的な努力です。
逆に物を余計に売りつけたり火星へ行く計画を練ったりさらに何かと壱等賞を目指したりするのはもはや其の全部がケモノの仕業です。
そも文明の持続と云うのは其の理性的努力が出来るか如何に掛かって居ます。
だから理性的努力が出来なければ後はもう滅亡の時を待って居るだけの人類と必然としてならざるを得ない。
ーついでにいうと、生まれつき努力が好きな人っているんですね。生まれつきというのは、本当に格差の元凶です。いいところに生まれて、本当に苦労のくの字も知らずに、楽々と一生を送る人もいれば、右を見たら転ぶ、左を見ても打たれるという運の悪い人もいる。だから、世の中が矛盾していることは覚悟し、その中で少しでも努力が報われたり、ラッキーなことがあったりしたら心から喜べばいいんです。ー五木寛之「心が萎えた人にこそ、前向きに生きなくていいと伝えたい」 なぜ今『大河の一滴』が響くのか (4ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)より
其の生まれつきに努力が好きな人人が此の近代世界を構築して行ったことでせう。
但し其れが壱方向性の努力であったが為に元來此の世の實相としてある両義性の部分を完全に見失いました。
人間はイザ其の両義性を見失うと後はもう破壊者となるばかりでのものです。
五木先生が仰るやうに矛盾を覚悟して生きること、謂わば「矛盾の先駆性」のやうなものを精神に取り込むことは大事ですが其れこそハイデガーが述べたところでの「死の先駆性」ですら取り込んで行けぬのが大衆的心理としての實情なのでせう。
だからむしろ最近わたくしは政治や思想の問題よりも其の大衆社會に於ける大衆的な認識とは何か?と云うこと、其の大衆的認識こそが世を滅ぼす元凶ではないかとの判断に至って来て居ります訳です。
但し五木先生の場合はあくまでお優しいのでそんな酷えことはまさか申されずでも石原 慎太郎先生が亡くなられたのは可成におこたえになられたやうで何故かと申せば同年、同月生まれだったのださうです、そも五木先生と石原先生は…。
尤も五木先生はまだしも人間らしく生きられて居てほんたうに羨ましい思いで壱杯です。
我なんぞはもう生きてるのだか其れとも死んでるのだか、また頭が良いのか単なる馬鹿なのかが自分でもまるで分からず兎に角かうして人間界と思想界、また世俗と出家、との間に板挟みにて詩人をやらせて頂いて居るがもうほんたうにこんなもん辞めて早う山へと逃げて行きたいばかりでのことなのです。