目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

我我現存在が是非大切にすべき「ほんたうの美の世界」のことー壱つの詩的精神からの大江 健三郎論ー

我我現存在が是非大切にすべき「ほんたうの美の世界」のことー壱つの詩的精神からの大江 健三郎論ー

 

 

 

 

精神科医・和田秀樹が考える、毎日が楽しくなる知的生活術|『70歳からのボケない勉強法』 (msn.com)

 

なる程、さうなのか。

矢張りと云うべきか還暦以降は其の「テストステロン」が減少し意欲が減退する訳か。

 

でも自分に限り「怒り」や「創造性」の部分がむしろ人生でもって最高潮になって居るぞ。

うーむ、矢張りと言うべきか自分は普通とはチョット違うのかな。

 

さうか、おおまさに其れが「藝術的自我」の発達としての部分なのだ。

でも「前頭葉」も衰えると此処に書いてあるぞ。

 

なんだが兎に角自分の場合は逆に其の「前頭葉」の様がピチピチではないか!

 

 

でもって僕の場合はもう「御勉強」の方は此れ以上しない方が良い。

もう「御勉強」の方は現存在弐名位の分をすでにやっちゃったので。

 

だから僕の場合はボケやうとしてもボケやうの無い個性なんだ。

全く困った奴だがつまりは神や佛がさう簡単に樂にはさせて呉れぬと云うことなんだらう。

 

するとボケると樂なので?

そりゃ樂でせう。

 

だって現存在に取り考え悩み苦しむことこそが壱番辛いのですから。

 

じゃあもしや死んだ方が樂なので?

そりゃ分かりません。

 

何故なら死を説明することの出来る人間は何処にも居ないのですから。

兎に角「御勉強」は常に大事ですがやり過ぎると體に惡いですから是非ほどほどに致しませう。ーと今自分に對しさう述べましたー

 

 

 

大江健三郎 詩の重視- Wikipedia

 

さて其の大江 健三郎先生のことですがそも自分は先生が御書きになった作品に接して來て居りません。

どだい以前ー拾年程前ー迄は所謂左翼思想に對し批判的であり其れでもって山崎川の橋の上で左翼イデオロギーを振り撒いて居る日本共産党の人を手招きし兎に角ボロクソに「お前等の思想は兎に角惡い」とさう貶して居りましたものでした。

 

ですが廿代、参拾代の頃はむしろ左翼的でしたのです。

だが四拾代の初め頃から拾五年程はむしろ明らかに保守派でした。

 

其れがまた左寄りとなり今に至る訳で何でさうなったかと云うに他でも無い此処日本の保守政治の劣化に嫌気がさしたからなのでした。

其れで色色と學び直しー元元自分は政治史を専攻して居たー日本の政治の大矛盾構造に直面し其れに驚いたと申すか兎に角驚愕したのでした。

 

其処にこりゃまーあかんわーと正直さう思わされた。

されど其の後良く良く考えてみるに自分の人生は現存在の個體としての歴史其のものであり別に國家の歴史其のものなどでは無いことにハタと気付きましたのです。

 

また其のやうに「割り切って」人生を歩みませんと此の目の前にある日日の暮らしがそも成り立っていかない。

 

 

だから國家の歴史としての矛盾は矛盾でありまた政治家や官僚としてのバカはバカであり自分の生活とはまた全然違うでせう?との何やら左翼っぽい感覚が何時の間にかかうして出来上がって仕舞った。

 

そんな訳で正直なところ日本の政治や行政の仕組みなどとはまともに向き合わぬ方が身の為です。

 

但し自分は左翼思想を全面的に支持する訳では無く且つ全面的に🚺や障碍者や他の弱き人人に對し優しい訳ではありません。

まあ其処はむしろ自分が弱いのでまずは自分を助けて下さいとの願望が強くありつまりはそんな自己本位野郎なのであります。ー兎に角そんな嫌な奴ですー

 

なんですが自分は兎に角自然界に對し至極優しい人間であり例えば病院へ勤めて居た頃は夜にカブト虫やクワガタ虫が飛んで來ると其れを袋に入れて置き帰宅時にとある神社の杜に放してあげたりもまた良くして居たものでした。ー其の病院はかって山の中にあり今でも周りの環境が比較的良いー

 

なので優しくする其の対象の部分がまた少し違うんです。

さうして自然に對し兎に角凄く優しいが逆に文明ー人間の社會ーに對し物凄く批判的で且つ否定的なんです。

 

だからさう云うところがまずは人にはなかなか理解されぬ訳ですな。

 

 

ま、其の「人間嫌い」の部分はひとまず脇に置きとりあえずは大江 健三郎先生の御話に戻ることと致しませう。

其の大江 健三郎先生は思想的には明らかに左派なのでせうがあくまで自分の場合は其れよりも何よりも其の「詩との親和性」の部分に最大の関心を持ちます。

 

其の「詩」其のものは「右」にも「左」にもなるが實は其れ以前でのものなのでせう。

尤も軍國主義の詩や革命の詩などもまたある訳でそんなものならば結局「思想詩」と言えるのやもしれぬがさう云うのを省くととりあえずは其の「思想以前での思想」を語るものとなることでせう。

 

其れでもって大江 健三郎先生はT・S・エリオットやW・B・イエーツの詩に對し深く傾倒されて居たやうです。

ちなみに自分はウィリアム・バトラー・イェイツ - Wikipediaの方にはかって大きく惹かれたことがありました。

 

其れは所謂象徴主義文學との特にステファヌ・マラルメ - Wikipediaとの関係性に於いてさうなって行ったのです。

また岩波の芥川 龍之介全集の方にもウィリアム・バトラー・イエーツ William Butler Yeats 芥川龍之介訳 「ケルトの薄明」より THE CELTIC TWILIGHT (aozora.gr.jp)なる作品の訳が収録されて居る。

 

ですので、むしろ其の辺りこそが文人としての自分の文學的守備範囲なのですが其れも今や世が移り変わりそんなもんを論じてもおそらくはもはや誰もピンとは來ないでせうから言わないだけの御話でほんたうのほんたうはむしろそんなことをこそ述べたい訳なのです。ーまあ其れもまたメンドクサイ話ながらー

 

まあ其のイエーツの作品を壱度読んで頂ければ其れがどんなもんかは御分り頂けることかとさう思います。

 

 

さて其の「詩」を重視される大江先生の文學的スタンスは自分に取りあくまで好ましいものです。

人生の全ては最終的に散文では伝え切れずよって詩こそが其の言語での表現の最終手段となり得るものでせう。

 

ところが其の「詩」程難しいものもまた無い。

特に「詩」は「歌」又は「頌」のやうなものだとさう観念し其の侭に言葉を歌うー謳うーことが出来れば良いが要するに観念が邪魔をするのか「美化されし言葉の加工品」と成り下がる場合が往往にしてある。

 

また自分の場合は「美化されし言葉の加工品」などは藝術だとはまさか認めて居りませんので余計に其処で悩んで仕舞うこととなる。

例えばアノ五木 寛之先生がかって御書きになられた『愛の水中花などは果たしてどんな詩なのだらうか?松坂慶子 愛の水中花 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)


でもアンタそんなもんは其れこそ純粋な「詩」では無く所謂「歌詞」の類でのものでせう?

つまりは純文學の作では無く通俗流行歌の類でのものですよ。

 

でもさうなのかなあ。

何だかとても自分とは遠い世界のものに感ぜられ逆に妙に魅力的にも感ぜられるのだが…。

 

即ち、

 

「コーレーもーあいー、アレもあいー、たぶんあいー、キットあーいー♪」

ところで松坂 慶子はまだ生きて居ますか?

 

はい、多分。

何せ👩共は決まってしぶといですからね、さう簡単に死にゃあしませんぜ。

 

ところで五木 寛之先生は眞面目な作家なのか其れとも所謂くだけた作家なのかまるで分かりません。

でもそんなところこそが自分は好きなのですが。

 

これ、其の高尚な「詩」の御話からイキナリ『愛の水中花』などへと飛ぶでない。

はい分かりました、今回もまた何時もの如くにやり過ぎでした。

 

 

ところで左翼思想は果たして「人間に優しい」のか?

今の自分には矢張り「優しい」とさう感じられて居ます。

 

と申しますのも右の思想に特有の「事勿れ主義的なバイアス」の部分に此処五年余り酷く苦しめられて來たからなのです。

つまりは「御前自身が御國の為に滅私奉公するからこそ日本は安泰だ」との其の酷い正常性バイアスの部分にです。

 

だってもはや還暦を過ぎボロボロの奴もまた居る訳でせう?ー其れも誰とはあえて言わぬがー

其れなのに果たして何時迄御國の為に滅私奉公せにゃあならんのですか?

 

其れとまずは其の前に其の御國の方こそが所謂「売國」だとか「低賃金化」だとか「政治への不信化」だとかそんなことはせずにちゃんと確りやって貰わねば困る。

其のことの責任は取らずに逆に國民の方にそんな「勞働の義務」だの「納税の義務」だの最後に「洗脳の義務」まで押し付けやがるからこそかの國がオカシクなるのだ。

 

其れと社會學者の先生方もまた述べられて居ますがもはや此の國には純粋な意味での「保守派」など何処にも居ない。【三橋貴明×中野剛志 後編】バカな学者に滅ぼされる日本...戦争の社会科学...日本人は本当に戦えるのか? - YouTube

そんなやりたい放題の破壊魔である癖に何でさう何時も威張って我我立場の弱い國民に自己責任論ばかりを押し付けるのだ?

 

ちょっと話が文學の御話から逸れて居ますよ。

さうか仕舞った!

 

もう社會への怒りが強過ぎついそんなことになって仕舞うのです。

 

よしよし。

はい?

 

よしよし良い子だまた戻らう。

はい分かりました、早速御話を文學へと戻します。

 

 

兎に角其の大江 健三郎先生の作品をまるで読んでは居ないわたくしですが其の「左派的な個に對する優しさ」の部分は是非人間の社會に必要な部分かとさう思うのです。

さうかと言って「右派的な個に對する厳しさ」の部分もまた全否定することは逆に出来ない訳です。

 

其れで言わば両方の見解が是非必要なのだと思う。

其の意味ではまさに右の思想の方は左の思想を學び且つ左の思想の方は是非右の思想をこそ學んでみるべきでせう。

 

其のやうに思想的にバランスを取ると同時に左右の思想共に「全體主義」に對し警戒感を持つべきでせう。

其れはまた左の思想にも「全體主義」が容易に生じて仕舞うことをこそ指し示して居るのです。

 

例えばソヴィエト連邦型の社會主義的全體主義や所謂中華思想型での全體主義もまた成立するものと見て置かねばなりません。

 

其れで其れの何処が文學の御話なの?

 

はっ、仕舞った!

またやってまった。

 

でもね、あくまで自分に取り大江 健三郎先生は所謂そんな「社會的なテーマ」を追求された作家さんであるやうに思えて居るのです。

但し其の作品を實は壱冊も読んでは居ませんのですが…。

 

以前自分は其の大江 健三郎先生や倉本 聰先生のやうな所謂左派の作家がむしろ嫌いで其れでもって彼等の作品をまるで読んでは居りませんのです。

要するに兎に角毛嫌いして居たと云う訳です。

 

尤も今は勿論其の限りではありません。

 

 

ノーベル文学賞 大江健三郎さん 死去 88歳 | NHK | 訃報

 

かうして大江先生は谷川 俊太郎先生と親交を結ばれて居たやうです。

谷川 俊太郎先生のことを自分は敬愛して居りよって何時迄も大江先生が御書きになったものを毛嫌いして居てはイカンのでせう。

 

 

大江健三郎「あいまいな日本の私」 - martingale & Brownian motion (hatenablog.com)

 

従って其の「あいまいな日本の私」に関してもまるで読んでは居ないのです。

ですがこちらには部分的に引用されて居ますので其の部分を読みつつ其れに就き是非考えてみませう。

 

勿論此処から引用などはしませんが此処を読めば大江先生が持って居られた思想の壱端が垣間見えるので兎に角其れに就きあくまで自らの意見を述べてみます。

 

まずは其の前に此処五年余りは以上でのやうな経緯からむしろ「右の思想」への批判などもまた展開して來たことを述べて置きます。

かと言って「右の思想」を全否定する訳では無くいまだに部分的に良いとさう思う部分などもまたあることをまた同時に述べて置きたい。

 

1.「力の論理」への違和感

2.「大丈夫」の罠

3.全體主義的同調性

 

1.に就いて

 

所謂「右」の思想の惡い癖は力學的なヒエラルキーに基づき「強制」が生ずる部分です。

元元自分は非社會的であり良く言えば自由人と申すか風來坊と申すか兎に角「強制」されることは嫌いなんです。

 

其れでも「強制」されることで「良くなる」場合も實は多い訳です。

例えば夜は早く寝て朝は早めに起きちゃんと食事をしますとむしろ人間の體調は良くなります。

 

また苦難に打ち勝つ精神力を涵養することなどもまた壱面では大事です。

ですが其れもあくまで國家に強要されさうすべきことなのでは無い。

 

2.に就いて

 

「右」の思想の人は「まず大丈夫」だとさう必ず言う。

 

尤も其れを全否定的に扱うのではむしろ無い。

何故なら「大丈夫」だと思うからこそ今日を生きられるのだから。

 

つまりは其の「大丈夫」との洗脳にて今日を生きるやる気がまた出るのです。

ですがパンデミックや戦争、紛争などは全然大丈夫なのではありません。

 

其れでも「大丈夫」だとさう云う方が右の思想の人の中には結構多い。

逆に左の思想の人人は「大丈夫では無い」といつも考えて居りだから最終的には革命でもして貰った方が日本社會が良くなるのです。

 

まあ自分も今は革命があっても良いとさう思うのですがでも日本の體制は其の革命とは程遠いところに常にあることでせう。

ちなみに自分は「大丈夫もクソも無い」と云う所謂大袈裟派であり即ち心配性派ですので元來は體制派では無いばかりか革新派と云うよりも理想主義派の方なのだと思います。

 

3.に就いて

 

「右の思想」は壱般にさうして「同調」し易い。

即ちみんなでもってやる主義ですので其れが全體主義化し易いきらいがある。

 

でも先に述べたやうに「左の思想」もまた全體主義化致します。

まさに其の右、左の別無く全體主義化することが近代的イデオロギーに於ける最大の問題点です。

 

ならばもはや其処にてどうしたら良いかと云うことがまるで分からなくなる。

だったら其のイデオロギーへの固執イデオロギー對立其のものをあくまで個として「限定的」に捉えて行く他は無い。

 

即ち社會の側の軸、社會としての論理で其れー観念的な価値ーを組み立てるとすれば容易に其れは「大對立」を生み出し最終的には「紛争」か又は「戦争」を引き起こします。

ですのであくまで其のことをこと理性的に解決するのであればイデオロギーへの固執イデオロギー對立其のものを縮小化して考え其れに大きくは決して拘らぬやうにして行かねばならない。

 

そんなもんは解決になるもんか、もーやられる前にやったれー、とか云う御意見なども右左に関係なく発生することかと存じますが其れでも尚理性的な人間の場合にはあくまでイデオロギーへの固執イデオロギー對立其のものを縮小化するか又は放棄するに至るのです。

 

 

おみゃあそりゃーとんでもにゃー理想論だがやー。

でもよーまー死に物狂いで考えてさう結論が出たんだぎゃー。

 

ところで君、また持論ばかりを述べては居ないのか?

其の話と大江先生の思想とはまた別物なのではないかいな。

 

いえ大いに関係して居りますのですよ。

でもさう仰るのならいま壱度上のところを読み返してみます。

 

…確かに全然話が違うわ。

さて問題は其の「川端的美學」と「大江的美學」としての違いの部分なのでせう。

 

「美しい日本の~」と確かに右派の方方はさうして日本と云う國を美化したがる。

家なども母が茶華道をやり京都が好きだわ日本の四季ある自然がまた大好きだわで其の意味では「美しい日本の~」との概念其のものが決して嫌いでは無い。

 

だけれども自分の場合はもっともっと自然派なので其の日本の文化的伝統よりも何よりもまずは其の文化以前での日本の自然の様こそが壱番大事だとさう捉えて來ても居る。

また所謂「割腹自決」や「特攻」などがまた美しいなどと云う極右の考え方などもまたあるがあくまで個人的には其れは如何にも痛さうなのでまるでイヤなのです。

 

さらに自分が良く使う「破壊」と云う概念などもまた其処に出て來ます。

ところが其の「破壊」に就いては最終的には右でもまた左でも「破壊」に至るのです。

 

 

但し大江先生が川端先生の思想を批判する意味で使われた「破壊」の意味とはまさしく戦前の體制による日本の破壊であることでせう。

まさに其れが「ファッショ政権」であったが故に其処に所謂「狂信」が生まれそんな破壊が引き起こされたのであると。

 

ところが東南亜細亜の國にいまだ親日的な國があることも實は事實なのです。

 

個人的に「洗脳」の問題はむしろ今こそ酷いとさう考えて居ます。

また其れはおそらく戦後教育により日本人から「自ら考え其れを述べ切る」力が失われたからなのだと思う。

 

まさに其の「自ら考え其れを述べ切る力」は右左に関係無く非常に大事な力のことです。

 

其の「日本を美化」して語る右のバカ的なところは今やネット上にも溢れて居ます。

だけれども自分はあくまで左の思想なら全部が其れで良いとはまるで思っては居ない訳だ。

 

 

尚個人的には「日本を美化」して周りに語るのでは無くあくまで自己として其れをやり切るべきなのであり人に強制するものでは無いとさうも思う。

 

さて我が時折語っても來たやうに戦前への回帰や江戸時代への回帰と云うことはまさか左翼的な進歩主義が認め得る考えなのでは無く要するに復古主義なのでありつまりはバカ右翼の流れを汲む意見なのだ。

でも自分は要するに反進歩主義者なので其の「過去の美化」のやうなものも往往にしてまたして仕舞うのです。

 

ところで「反進歩主義者」なのであれば其れは基本的に保守派の考え方なのだ。

じゃあ御前はほんたうのほんたうのところはドッチなのだ?

 

何やら御前が口を開けば開く程にドッチなのかまるで分からなくなる。

どうもすみません、しかもかうして毎度毎度お騒がせしてまことにすみません。

 

いや謝らんでも良いからドッチかに決めよ。

とても決まらんわい…。

 

其れ以前にもう毎日毎日忙しくてな、其れも最近はかうして毎日此処に出て來るからな。

 

 

さて大江 健三郎先生の追悼の番組をサンデーモーニングで本日視て居て其処に少しばかり思う処があった。

 

其れは知的障碍を負い生まれた息子さんである光さんのエピソードである。

其の六歳になる光さんを連れ森の中に入ると小鳥達の囀りが聞こえ光も射して來たとか確かそんな話だった。

 

自分は飯を用意しつつTVを視て居たがまさにノーベル賞作家ですらそんな塗炭の苦しみを此の世に於いて味わったのだなあとさう感慨深く其の話を聴いて居た。

さうして同時に人間が共苦し且つ自然を大切にして生きることの文句無しでの素晴らしさに就き思い至ったりもした。

 

さうなのだ、人間とはまさに其の右でも左でも無いのである。

言わば右だの左だの以前に現存在として大切に守るべきものがある。

 

壱自称文人としての我が仕事の内容とはまさに其のことに就き述べることにこそ尽きて居る。

要するに進歩主義にせよ反進歩主義にせよ現存在としての理想郷などは決して築けはしないのだ。

 

逆にそんな對立するイデオロギーを限定して捉え眞に大事にすべきものを大切に扱うことこそが我我人類に取っての責務であり急務である筈だ。

ーまさに其れが抽象的な観念欲を離れ具象的に展開する唯壱としての美の世界に気付くことなのだー

 

またつまりは其れが「美しい日本」でも「あいまいな日本」でも無い其れ以前としての「ほんたうの美の世界」に属するもののことなのだ。