と云ふ本を今読んでおりますがコレがなかなか面白ひ内容のものです。
本屋で立ち読みしたところネアンデルタール人のことがあれこれと書ひてあり、個人的にネアンデルタール人の性質と云ふか気性の部分を強く受け継ひでいやしなひかと思われるじぶんにとって興味深ひ内容だったのでつひ購入した本です。
尚、日本人にはネアンデルタール人から受け継ひだ遺伝的性質を高ひ割合で持つ人が多ひとされて居る。
「実はこのネアンデルタール人由来のTLR1とTLR6、TLR10遺伝子を最も多く持つのが日本人。どの集団よりも高く、約51%が持っていた。」「絶滅した2種類の未知の人類」の痕跡が現代に生きるヒトのDNAに存在しているより
ネアンデルタール人は四万年も前に絶滅した人類の種なのでどうでも良ひと言へばどうでも良ひことであらうが其れはむしろ一大事なのではなからうか。
ネアンデルタール人から受け継ひだ遺伝的性質には他にも癌や糖尿病などのタチの悪ひものがあるやうだが、さうかと言ってネアンデルタール人が全部悪かった訳では無論のこと無ひ。
むしろわたくしは今ホモ・サピエンスとは何故かうも破壊的な生命なのかと云ふ其の点のみにつき延々と考へ続けて居るのである。
其のことから必然的にネアンデルタール人との諸々の人類としての性質の違ひを考へることによりまさにニュータイプとしてのホモ・サピエンスが生き残りより原始的と目されるネアンデルタール人が絶滅に至った経緯を是非にも明らかにしたひ。
最終的にわたくしが知りたひのは兎に角ホモ・サピエンスは何故これほどまでに欲深くさうして破壊的なのかと云ふことだけだ。
其の欲深さから實は文明として追い詰められても居やうが誰も其の事実に気付かぬ故ー一部の作家や學者の方々を除ひてはー其処をあへて何処までも追求していくのである。
尤もホモ・サピエンスが利口だと云ふことは無論のこと認める。
🐻や🐊や🐒よりは遥かに利口であらう。
即ち彼等には理性ー知性ーがあらう。
なのに何でまた自らの欲望其れ自体を制御出来ぬのか?
其処こそがむしろアホの態だらうと兎に角さう思ふのだ。
ホモ・サピエンスは道具を上手く使ひのみならず近代以降は大発明を繰り返し為しとんでもなひ世界をすでに創り上げた。
其の様やほとんど神の御業とも見紛ふばかりだ。
今や宇宙人以外には天敵の居なひホモ・サピエンスはのべつまくなしに増えのべつまくなしに欲望の限りを尽くしておる。
ホモ・サピエンスは時には🐻などにまたは🐊などに食われることがあるがもはや天敵など居らず其れが居るとすれば神であり佛である。(?)
もはやホモ・サピエンスにとり或は現代文明にとり敵となり得るのは其の宗教だけだ。ー其の行為が制限されると云ふ意味でー
ホモ・サピエンスは諸の邪教も生んだが其の邪教のほとんどは自然淘汰され今生き残って居るのは世界三大宗教とヒンズー教位のものだ。
ホモ・サピエンスが何故其処まで宗教に拘るのかと言へば其れは彼等には抽象的思考能力があり其の抽象度の高さが必然として宗教を欲するからである。
即ち抽象度の高ひ思考形式を持つ理性ー知性ーは必ずや宗教的な精神の段階へと行き着く。
其れはどんな唯物論者でも最終的にはさうなる。
無神論だとか述べて居る奴に限り理性の何たるかと云ふことがまるで分かっては居らぬ。
だから無神論と云ふのはホモ・サピエンスとしての思想では無くむしろネアンデルタール人としての思想ぞ。
ネアンデルタール人は然し宗教的自我乃至は社会性には欠けて居た分つまりはより原始人であり原始人であると云ふことはよりどーぶつに近くあり心のあり方なども純粋であった。
だから原始人には宗教は要らぬ。
またどーぶつにも宗教は要らぬ。
但し問題なのは其の宗教的自我を形成する能力と社会化の能力がホモ・サピエンスの抽象的能力として共に保存されて仕舞ふ点である。
すると宗教もまた社会化されやう。
社会化されし宗教には大きな金や権威権勢欲などが絡み易くもならう。
其のやうな現世的欲望がまた宗教を堕落させる要因ともなる。
であるからして其の社会化すること其のものに實は大きく矛盾が生じて居らう。
社会とは序列即ちヒエラルキーを必然として生じせしめるものなので其処には必然的に差別が生まれ平等だの人権だのそんな理想論が通用などする筈もなひ。
社会は必然的に上下関係を生み其ればかりか冨の偏りや運命の偏りをも生ずるのだ。
だからかの老耽の考へでのやうに社会はなるべく小さくしておき拡げぬことこそが正解だ。
兎に角ホモ・サピエンスは宗教を生み文明を育み哲學することさへもが可能で偉さうなこと此の上無し。
ところが實は色々と悩みに苛まれて来てもおる。
さうこんなに悩み深き罪の過程を生きて来ざるを得なかった。
ホモ・サピエンスは何処か頭がおかしひのではなひか?
ほんたうに大丈夫なのか、日々ちゃんと反省して居るか?
確かにわたくしはコレとコレでつひ失敗しましたがでもコレからはちゃんとやります。
かの羅馬教皇様やお釈迦様の言ひつけをしかと胸に刻み其れからネアンデルタール人の遺伝子さへをもこれまで以上に大事に致します。
だからどうかどうか御慈悲を。
今回ばかりはどうか御赦し頂きどうかどうか滅ぼさないで頂きたひ。
第一かうまで寒かったり暑かったり致しますと此の老体にはコタへます。
ああー、ほんに難儀な奴じゃ。
ほんに君は何処までが真面目で何処からが不真面目なのか良く分らん。
君の抽象的能力、おおまさに其処からこそ自然科学なども生まれて居らうが。
他方でネアンデルタール人は馬鹿ではなかった。
脳の容積などは当時のホモ・サピエンスや現代人よりもずっと大きかった。
但し其のデカい脳にて何を考へて生きて居たのかと云ふことは不明である。
其れは抽象的に追求される言語による論理形式などではなくもっと具象的なことでの世界に於ける深い理解であったのやもしれぬ。
さて文明世界では其の折々に良ひとされる価値こそが良ひのである。
たとへば江戸時代ならば幕藩体制の枠内で武士としての面目を保ちつつ藩政が滞りなく行われれば良しとされる訳だ。
たとへば戦時中ならば御國の為に身命を賭して闘ひ抜くことこそが良ひ。
また戦後ならば経済成長達成の為に24時間働き抜くことこそが良ひとされたりもした。
さうした価値は謂わば社会化されし価値のことだ。
其の社会化されし価値はしかしながら其処で二元化され易ひことであらう。
しかも大きく二元化されるのだ。
言うまでもなく幕藩体制による諸国の安定の裏側には鎖国と云ふ保護主義による利己主義が見へ隠れし、戦時中の帝国主義は植民地化されし国々の民の苦しみ、悔しさを反映せずまた戦後ならば其の経済成長により道義的な意味でのまた環境面での破壊が屡齎されたのである。
社会とは其のやうに抽象的な価値其のもののことだ。
其の社会化することが得意であったとされるホモ・サピエンスの生命としての道程はまさに人類の社会の歴史其のものであった。
社会化されることで個は社会と云ふより大きな抽象性のうちに常に身を置き其の価値観に身を委ねることが出来る。
然し其の社会的連帯、協力体制に於ける行為としての責任の所在は實は曖昧になりがちだ。
要するに社会的に良しとされる価値を皆でやる分にはたとへ其れがどんなに道義に反して居ることであれ個に対しての責任は生じぬこととならう。
まさに其処が社会=文明の怖ひところだ。
さうしてまた宗教的な価値観の追求に関してもまさに其れと同じことが起こり得るのだ。
神や佛と云ふ最も大きな抽象的価値に於ひて其れを誰も批判することなど出来ず故に往々にして宗教的な組織は堕落し易くもなるものだ。
其のやうにより大きな抽象的領域ではより大きな矛盾なり過ちなりが引き起こされ易ひ。
元より文明とはまさしく其のより大きな抽象的領域のものであり基本的に其れは個にて批判などすることが極めて難しいものである。
其ればかりか常に矛盾的に推進されていくものだ。
謂わば過ちを繰り返しつつ歩んでいくものでもまたある。
だが現代に於ける環境破壊の大問題だけは其れが取り返しがつかぬ過ちとなる可能性が高く存することだらう。