目覚めよ!

文明批判と心の探求と

『ホモ・デウス』を読み解くーⅣ 幸福はバランスにより齎されやうー

 命題5

『人類の次なる課題リストの二つ目は「幸福の追求」である。

様々な考え方が幸福の追求をしてきた。』

 


命題6

『どんなに経済成長しても幸福度には限界見えない天井があるようだ。

あらゆる指標が経済成長だけでは幸福度につながらないことを示している。』

 

 

さてほんたうの幸せとはバランスのことなのだとさうも申せませう。

其れも普遍化されし幸せには言ふまでもなく常に幸福感が充ちて居りませう。

 


其の普遍化されし幸せとは宗教が提示するところでの幸せのことです。

 


何故なら普通人間は皆特殊としての生を生きて居り其のそれぞれに於ひて幸せの定義が異なって仕舞ふからです。

 


即ち人により価値観が様々なのです。

 


事実此の牢獄としての生をむしろ楽しきもの、歓迎すべき時の堆積として捉へて居る場合などもまた往往にしてあり得る。

 


其の対極としての価値観がかってイエス様とお釈迦様により説かれて居ります。

 

 

 

どちらの教へによっても生が望ましひものだとはまるで説かれては居らぬ。

 


何度も申しますが、イエス様は悪魔に支配された世を否定され神の王国にて永遠に生きることこそがほんたうの幸せだとさう述べられた。

 


またお釈迦様は生は苦だと認識され其処からの解脱こそが永遠の常楽ーほんたうの幸せーへ至る道だとさう述べられた。

 


尤も其れを実現する為にはまさに不退転での信仰や厳しひ修行と云ふものが前提となる訳であります。

 

 

 

まさにさうした価値観こそが脱俗したものであり俗世を生きる人々にはなかなか理解がかなわぬものですが確かに其れは其処に生じて居る幸福としての価値観なのです。

 


では何故そんな世間とは正反対の価値をよりによって二聖人が述べられて居たかと云ふに、其れは此の世界で得られる幸せが余りに限定的かつ利己的な次元に終始するものであり個々の人間其れ自身では其処を乗り越へることが不可能だからこそさうして世の常識的な価値観には反するやうなことをあへて述べられて居たのである。

 


つまるところ世の中に従って居るだけでは元よりまるで救われませぬ。

 


救われぬどころかかへって欲望の泥沼に嵌り込み其れこそ次第に悪魔化してさへいくことでせう。

 


勿論幸せにもなれませぬ。

 


尤も本質的にはと云ふ意味でです。

 

 

 

逆に世間で言われるところでの幸せにドップリと浸かって其れでもって幸せであるのならばまさに其れこそが幸せでせう。

其れぞ目出度ひ、と云ふ意味での羨むべき幸せの態です。

 


なんですがさうした限定的な幸せの形をほんたうの幸せであるとは宗教の場合は捉へなひ。

 


宗教で謂われるところのほんたうの幸せとはもっとずっと精神的な意味での幸せのことだ。

 

 

 

では何が幸せなのかと言へば、其れはキリスト教でも仏教でも各宗各派により異なりませうが大元では先に述べたやうなこととなる。

 


最も其処から學ばねばならぬこととは、共に目に見える形での幸せ、たとへば良ひ会社へ勤め良ひ給料を貰ふだの、また綺麗な嫁を貰ふだの出来の良ひ子に恵まれるだの、またたまたま運が良く宝くじの一等が当たり大豪邸に住んだだの、さうした現世利益的なこととは異なり信仰か、それとも究極の世捨てかと云ふことでのことです。

 


即ち神を選ぶか佛を選ぶかと云ふ其の選択のみです。

 


いずれかを選ばねばほんたうの幸せなどが訪れやう筈も無ひ。

 


現世でのさうした相対的幸福は必然として限定され其れを失ふ時に苦を味わなければならぬのでむしろ其処には拘泥せずより普遍的且つ精神的な幸福を求めること、即ち絶対的幸福に至ることこそがまさにほんたうの幸せに至る道筋です。

 

 

 

カン違ひしなひで頂きたひのは、どこぞの教祖様を奉ったり大金をお布施したりどうのこうのだと言って居る新興宗教には元よりさうした精神性など見られるべくもなひ、と云ふことである。

 


伝統仏教でも宗派により?と思はれるやうなことをして居られる部分などもあらうが其処は不問に付すとして兎に角大枠では現世利益は本来宗教が目指すべき真の幸福の形では無ひと云ふことをまずは學んでおかなければならぬ。

 

 

 

元よりアナタにとっての幸せとわたくしにとっての幸せはまるで違ふ。

 

 

大抵の人はわたくしの隠者体質など理解出来ず従ってわたくしが此処で述べて居ることなどもなかなか理解は出来ぬ筈。

 


でも其れとは別に宗教としての枠組みでの幸せはすでに規定済みだと云ふことを述べたまでのことです。

 

 

 

但し現代、特に戦前及び戦後に於ける価値観には洋の東西を問わずに強ひ同調圧力が存して居りまるで其の社会の枠組み内での幸せが即個にとっての幸せだと言わんばかりにもなって来て居やう。

 


なんですが、先に何度も述べて来て居りますが歴史上から見ても社会化されし価値観はむしろ負の価値観=誤った価値観である可能性の方がむしろ高ひ。

 


さうだとすれば拠り所を失ふ羽目にも陥る為宗教の価値観の方へと是非積極的にシフトしておくべきです。

 

 

 

さて、最初に述べた其のバランスのことですが、実質的な意味で其のバランスは社会と個と云ふ二元としての価値の上で取って行かざるを得ぬ。

 


現在其れはかってでのやうに宗教と個、または共同体と個と云ふやうな前近代的なタイプでのものから現代社会が提供する価値観を個がどう判断し其れと擦り合わせていくかと云ふ一種の全体主義的なものに移り変わって来て居る。

 


たとへばもはや小中学生がスマフォを玩んで居なひと仲間とは思われなひ訳ですのでもう其れは立派な科学的全体主義です。

 


そんな悪ひものをよりにより何故子供に与へなければならぬのか、多分すでに親や教師の頭も狂ってるのだと思われます。

 

 

 

なのではあるが、生き抜く為には其処でバランスを取らねばならぬ。

 


また個々に於ける宗教と文明、即ち本質的に幸福を目指すものと時代としての幸福を追ひ求めるものとのバランスも實は個に求められて仕舞って居る。

 


現代社会は要するに現世利益のみをタダひたすらに追ひ求める、即ち絵に描ひたやうな抽象的幸福を追ひ求めていく訳でそんなものはハナから無理な話で実質的には其処で矛盾に陥り人権云々以下での暮らしを余儀なくされる人々が必然として其処に生じて来やう。

 


其のバランスの悪ひ社会の価値観と普遍的な宗教的価値観との擦り合わせが求められて居るのが實は個の次元に於ひてである。

 


其のやうにタダでさへ幸せのバランスを取ることが難しひ主客対立での価値観の擦り合わせを現代社会がよりややこしくして仕舞って居ると云ふのがわたくしの基礎認識です。

 

 

 

抽象的幸福を追ひ求めていくと云ふことは例の不死の追求などとも大ひに関わって来る重要な問題です。

先にも述べた如くに抽象的幸福=絶対的幸福の希求は本来宗教の役割でしたが現在は其れを科学技術の力にて成し遂げやうとして居る。

 


なんですが、其れはあくまで物質的幸福度の範疇に留まる。

 


かように死んでからのことを文明は無視して居る。

 


無論のこと死んだらもはや人間では無ひのだし、其処に欲は生じず搾取すべきなにものも其処には生じて居らずして。

 

 

 

ですのでそんな合理主義社会は死人にはまるで関心が無ひ訳です。

 


其れから役立たずの人間などにも関心は薄ひ。

 


所謂障碍者では無くして、社会に関心の無ひ人間や社会を否定する人間に対してまさに死人扱ひをして御座る。

 

 

 

現代社会が目指す其んな抽象的幸福論よりも、即ち絵に描きし幸福よりも実質的な暮らし良さ、生き易さの方をこそ我我に提供することこそが社会の重要な役割にてしかも最低限の仕事であらう。

 


即ちまずは冨の再分配を徹底して行ひ、科学技術の進歩に制限を設けるべく諮問機関を設置すべし。

 


さらに労働時間を短縮せよ。

 


労働時間を短縮すると自らの頭にて考へることの出来る人々が増へる。

 

 

 

科学技術の進歩による不老不死や幸福の実現など全て抽象的空論であるに過ぎぬ。

 


そんなものが幸福である筈などが無ひ!

 


実際よーく考へて御覧なさひ、そんなものは幼稚園児でさへ分かりさうなものだわな。

 

 

 

1.経済成長

2.技術革新による進歩的生活

3.人権の尊重

 

 

 

此の三点の達成にて人間の幸福度はいや増す筈だと文明の推進者はさう考へます。

 


然し経済成長は働き蜂を生むばかりでつまりは文明にとり都合の良ひ人間を生み出すばかり。

 


其れに技術革新が進むとむしろ人間の肉体性が衰えていきませう。

 


さらに人権はホドホドに認める位が實は丁度良ひ。

 

 

 

人権云々と云った抽象的価値よりもかの江戸時代のやうに労働者に時間的余裕を与へたりかっての終身雇用制のやうに心理的安心感を与へることの方がずっと大事なことです。

 


今や人権、人権と障碍者や女性がウルサくかへって働き盛りの男性が不利益を被って居るかのやうな有様である。

 

 

 

ですから、其処をまず直して貰わなければ進歩的生活も何もありません。

 


其れにむしろ其れが一番要らぬ。

 


進歩せずともあー、いい世の中だったなあ、是非もう一度生まれ直して来ようかなあ。

 


と思わせる社会でなくて一体どーすると云ふのでせうか。

 

 

 

こんな腐った社会ではまるで生まれて来た甲斐など無ひ。

実際もう二度と御免だ。

 


金輪際もう生まれて来たくは無ひ。

 


首相はゴルフが下手だわ、環境相は能足りんだわ、そんな分際で何が人権社会だ。

 


さうして経済成長だ。

 


第一安倍政権は矛盾しておる。

 


経済成長のスローガンを掲げつつ派遣社員を増やすのはどう考へても幼稚園児以下での政策だ。

 


第一経済成長などコノ高齢化し且つ未婚化が進んだ日本国でやれる筈が無ひ。

 


一体何て頭が悪ひのだらう。

 

 

 

進歩的生活で実際一番気にかかるのが其のシンポの内容である。

 


シンポとは然し考へてみれば非常に抽象度の高ひ概念である。

 


即ち自然は進化するが進歩はせず。

 


シンポとはホモ・サピエンスに特有の抽象的概念でもってして謂わば能動的創造にて神の領域に近づかんと欲する其の魂胆の悪さのことを言ふ。

 

 

 

さらに悪ひことに、ホモ・サピエンスは社会が進歩すると皆が等しく幸福になるとさう思ひ込んでも居らう。

 


ところが其こそが最悪の思ひ込みでありまるで気の無ひ相手に懸想をするストーカー野郎の如くにタチの悪ひ考へ其のものだ。

 


よってシンポ反対!

 


今すぐに進歩とやらを止め皆ネアンデルタール人へと戻らう。

 

 

 

舳先に掲げし抽象的価値を実現するべく人類史上類稀なる速力でこれまで走り続けて来て居る我我はこれから一体何処へ向かうのだらう?

寄港先もまるで分からず今後どんな荒波に揉まれぬとも知れぬ我等はこんな不安な心の侭一体何処へと流されていくのだらう?

 


嗚呼、さうか、此の文明はすでに漂流して居るのだ。

漂流しそのうち大岩礁にぶつかり座礁乃至は沈没するのだ。

 


されど其処に限りデカひ鮫がウヨウヨと居るのであった。

其のジョーズの鋭ひ三角形の歯が我我の躰を粉微塵に切り裂く!

 


ぎゃああああああああああああああああああああああー。

 

 

 

そんな話は映画だけの話に是非して頂きたひものだ。