目覚めよ!

文明批判と心の探求と

目にて愉しむ紅葉

香嵐渓 ライトアップ【足助】歴史ある町並みと香嵐渓の大自然を楽しもう!

 

元より紅葉は、自然が織り成す美の饗宴です。

美は、其れも物質が織り成す美とは其れ即ち光の饗宴のことだ。

 

最終的には美は光へと還元されていかう。

 

どんなに優美なる形も皆其の光へと吸ひ寄せられていく。

 

つまるところ、美とは光です。

 

光の作用こそが美です。

 

さう美とは化粧でもなく装束なのでもなく其の素顔での光なのだ。

 

 

其の光をこそとくと鑑賞致しませう。

 

確かにわたくしは感度が高くある故夜景などは好きです。

 

然し夜景は適齢期の男女がくっつきながら観て居るが故にわたくしのやうな高齢独身貴族が其処へ割り込む訳にもいかず其れでもって實は此の十年程は眺めて居らぬ。

 

 

が、兎に角感度は高くあり常に我が眼は光を欲してやまぬ。

 

其れでもって先週つひに行って参りました。

 

其れは夜景では無く紅葉のライトアップと云ふものです。名古屋市東山動植物園 紅葉ライトアップ

 

 

其のやうな浪漫を兎に角求めてやまぬわたくしは18時過ぎから家を出て19時前よりすでに紅葉のライトアップのさ中にありました。

 

紅葉のライトアップは兎に角美しひものです。

 

何が美しひと言って兎に角其の光の乱舞が極めて美しひ。

 

 

尚昔芥川 龍之介がこんなことを書きました。

 

 八 火花

 「彼は雨に濡れたまま、アスフアルトの上を踏んで行つた。雨は可也かなり烈しかつた。彼は水沫しぶきの満ちた中にゴム引の外套の匂を感じた。
 すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠してゐた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
 架空線は不相変あひかはらず鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――すさまじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。」或阿呆の一生 芥川龍之介より

 

 

曰く、彼は人生に対して疲労を感じて居りすでに其処に欲しひものなど無ひのです。

ある意味では彼は其処まで精神の純度を上げて行ったのかもしれません。

 

何も欲しくない程に世間の価値観を大ひにバカにして居りますが實はどうしても欲しひものがひとつだけあり其れが其の火花でした。

 

其の火花こそが光です。

 

其の架空線の発する紫色の火花こそがどんな美女よりもまたどんな権力よりもさうしてどんな大金よりも彼の心をしかと攫んで離さぬのだ。

 

さう其の光こそは命と引き換へにしてもどうしてもつかまへたひ。

 

いつの間にかわたくし自身もそんな境地へとすでに至って居り故にかまるで何かに追ひ立てられるかのやうに東山公園東山植物園ーへと自転車にて向かって居たのです。

 

 

確かに其処には光がありました。

 

謂わば其れはとても物質的な光でした。

 

と云ふのも還暦を迎へ何やら妙に爺臭くなりつつあるわたくしには、青春の光だの恋の焔だのそんなものがもはや皆遠き昔の御伽話のやうにさへ思へて来、のみならず屡急に足がつったりもつれたりと何やら十年前にはまるで考へられなかった物理的な限界の初期症状を突き付けられて来て居り、其れでもって何故か光だけが、其の光其のものが嗚呼まるで無機的な現象に過ぎぬ其の光のみがおおまるで我の往く手を暗示するかのやうにギラリと輝ひて居るのであった。

 

其のやうに足がもつれながらも巧みにアベック共の脇をすり抜けああーキレイだなあ、実際どんなものよりライトアップはキレイだぞよ、などとブツブツ声を出して歩きながらわたくしはデジカメにて写真を撮って来た。

 

其のデジカメからPCへの画像転送の仕方が分からぬやうになりまだ画像を整理して居りませぬがとりあへずは年末までに其れをしておかぬともう大変なこととなりませう。

 

 

けれども其の物質的な光こそが美しひのです。東山動植物園のライトアップ! 美しい紅葉を見に行こう!

 

其れは山の上から見る麓の村の温かき光でもなく冴へ冴へとした星々の瞬きなのでも無ひ。

 

其の中間の光とでも言ふべき人間の光であり文明の光であるに過ぎぬ。

 

 

だが其の未来でもなく過去でもなひ現在の幻影こそが大層美しひのだった。

 

美とは光ですのでどんなに美しひものも所詮は其の光としての作用です。

 

特に鉱物標本などは美しひですが其の鉱物の持つ様々な色合いも全て光の中へと溶け込んでいきます。

 

最終的にはじぶんさへもが光の中へと溶け込んでいくことだらう。

 

 

さうした感覚を以前はー三十代、四十代の頃はー持てませんでしたがどうやら今は持てるやうになって来たやうだ。

 

何やら半分程死人のやうな感覚ですが兎に角其のやうに光がとても美しく見えかつ其処にそのうち溶け込んでいくのだなとさう思へるやうになりました。

 

 

紅葉のライトアップの場合子供が少なひのでまだしも良かったと言ふべきだ。

 

子供が居ると其処で美の鑑賞をすることなどまるで不可能だ。

 

子供は兎に角ウルサく生命としてのエネルギーが高過ぎるゆえ居るだけで疲れる。

 

こんな植物的ジジイ故是非にも静かに放って置ひて下され。

 

 

尚、目は其の植物の遺伝子が種の垣根を越へて動物の遺伝情報に混入した故出来たのだそうだ。

 

勿論其れまでは目など無く薄らぼんやりと光を感ずる器官でしかなかったやうだ。

 

まさに此の事実程驚愕に値するものはなひ。

 

 

と言ふことは此の目こそが植物の目なのだ。

 

ああ、だから自然と光を欲するやうになるのだな。

 

目は最終的に其の光をこそ欲するのだ。

 

 

 

光あれ。

 

と云ふ其の光をこそ欲するのだ。

 

紅葉のライトアップ画像は全国津々浦々でもって美しひものが多々ありませうが上での香嵐渓のライトアップの画像はまた格別なものです。

 

だが其れは心にて観るものでは無く目にて見て其の目のみが愉しむものだ。

 

其の愉しみこそがより根源的な目の為の愉しみなのだ。

 

抽象的に観念を投射すること無き其の無垢なる光の舞ひに束の間の間わたくしは酔ひ痴れて居た。

 

其の光とだけは何処までも寄り添っていかうとさう願ひつつ夜道へと舞ひ戻ったのだった。