目覚めよ!

文明批判と心の探求と

失楽園ー園の中央に在樹の果實をば神汝等之を食ふべからず又之に捫るべからず恐は汝等死んと言給へりー

『ヱホバ神の造りたまひし野の生物の中に蛇最も狡猾し蛇婦に言ひけるは神眞に汝等園の諸の樹の果は食ふべからずと言たまひしや

婦蛇に言けるは我等園の樹の果を食ふことを得  然ど園の中央に在樹の果實をば神汝等之を食ふべからず又之に捫るべからず恐は汝等死んと言給へり

蛇婦に言けるは汝等必らず死る事あらじ 神汝等が之を食ふ日には汝等の目開け汝等神の如くなりて善惡を知るに至るを知り給ふなりと

婦樹を見ば食ふに善く目に美麗しく且智慧からんが爲に慕はしき樹なるによりて遂に其果實を取て食ひ亦之を己と偕なる夫に與へければ彼食へり

是において彼等の目倶に開て彼等其裸體なるを知り乃ち無花果樹の葉を綴て裳を作れり

彼等園の中に日の清涼き時分歩みたまふヱホバ神の聲を聞しかばアダムと其妻即ちヱホバ神の面を避て園の樹の間に身を匿せり

ヱホバ神アダムを召て之に言たまひけるは汝は何處にをるや

彼いひけるは我園の中に汝の聲を聞き裸體なるにより懼れて身を匿せりと

ヱホバ言たまひけるは誰が汝の裸なるを汝に告しや汝は我が汝に食ふなかれと命じたる樹の果を食ひたりしや

アダム言けるは汝が與へて我と偕ならしめたまひし婦彼其樹の果實を我にあたへたれば我食へりと

ヱホバ神婦に言たまひけるは汝がなしたる此事は何ぞや婦言けるは蛇我を誘惑して我食へりと

ヱホバ神蛇に言たまひけるは汝是を爲たるに因て汝は諸の家畜と野の諸の獸よりも勝りて詛はる汝は腹行て一生の間塵を食ふべし

又我汝と婦の間および汝の苗裔と婦の苗裔の間に怨恨を置ん彼は汝の頭を碎き汝は彼の踵を碎かん

 

又アダムに言たまひけるは汝その妻の言を聽て我が汝に命じて食ふべからずと言たる樹の果を食ひしに縁て土は汝のために詛はる汝は一生のあひだ勞苦て其より食を得ん

土は荊棘と薊とを汝のために生ずべしまた汝は野の草蔬を食ふべし

汝は面に汗して食物を食ひ終に土に歸らん其は其中より汝は取れたればなり汝は塵なれば塵に皈るべきなりと

 

ヱホバ神曰たまひけるは視よ夫人我等の一の如くなりて善惡を知る然ば恐くは彼其手を舒べ生命の樹の果實をも取りて食ひ限無生んと

ヱホバ神彼をエデンの園よりいだし其取て造られたるところの土を耕さしめたまへり

斯神其人を逐出しエデンの園の東にケルビムと自から旋轉る焔の劍を置て生命の樹の途を保守りたまふ 』創世記(文語訳)より

 

 

元より神話とは象徴的意義其のもの。

神が具体的に形態を纏わぬことと同じくして其は言葉にて言外でのー論理外でのー真実をこそ探るもの。

 

近代合理化の最大の過ちはまさに其の言外での真実を見詰めなくなったことこそにある。

神話から、また膨大なる過去としての知の蓄積から其の象徴性を拭ひ去ったことこそにある。

 

智慧を忘れたのか?

いや、タダ其れが面倒臭くなっただけのこと。

 

さう面倒臭ひ。

兎に角現代人は全てが面倒臭ひ。

 

面倒臭ひので、かうして全てを合理化する。

合理化とは究極としての心の抽象化のことである。

 

 

はて、抽象性とはそんなに偉ひことなのであらうか。

確かに抽象的な思考力こそが利口の証であらう。

 

 

其の抽象性とは煎じ詰めれば言語力でありもっと煮詰めれば数的還元力のこととならう。

 

🐒の頭にも抽象性は萌芽して居ることかと思われるが彼等が其の言語を駆使するまでには無論のこと至っては居なひ。

 

では抽象性とは一体何なのだらうか。

 

 

其の抽象性こそが罪なのだらうと今わたくしは捉へる。

一言で言ふと其れが直接的把握では無ひからだ。

 

 

抽象的に捉へられる概念は二元化する故其れは直接的把握では無ひのである。

 

善と悪、美と醜、幸と不幸、でのやうに何でも相対概念化するので其れは直接的把握では無ひ。

 

でも神もまたかうして善悪の木の實のことを宣ふて居られた。

 

何故なら其の神もまた相対概念としての神なのだから故に。

 

 

神もまた悪と闘はねばならぬ神なのだからこそ。

だが其の神も智慧の實だけは食ふなとの仰せであった。

 

つまりは食ってはイカン⇔食ってヨシ、だ。

 

即ち食って良ひものと食ってはならぬものとが人間にはあり其れが善悪を知る實=智慧の實であった。

 

即ち具象的に食ひ物は何でも存在して居り何を食ってもかまわぬのだが抽象的な智慧の力だけは食ってはならぬ。

 

では何故其れがならぬのか?

 

 

さうして何故、何故、と問ひ続ける羽目に陥り其のうちに神をも畏れぬ輩にもならうから食ってはならなんだ。

 

然し其の何故、何故、から近代は生まれ自然科学もまた発展して行ったのだった。

 

だが其れは限定の解除を意味して居る。

 

智慧の實の養分のさらなる抽象化=二重の抽象化が其の限定の解除の正体だ。

 

 

かくして罪を背負ひし人類は地へとバラ蒔かれた。

但し地とは具象的試練の象徴だ。

 

即ち思ふに任せぬ限定の象徴だ。

 

誰しもが思ひ描きし理想と現実のギャップに苦しめられつつさうして限定の生を歩まざるを得ぬ。

 

人間の抽象的能力は其れを試練として捉へざるを得ぬことだらう。

 

 

まさしく其の試練としての抽象性を今我我は着実に歩んで来て居る。

 

抽象的な幸福は我我をしてほんたうの幸福へと導くことが無ひ。

 

何故か?

 

まさしく其の抽象度の高さこそが二元性を生じせしめるからだ。

 

 

物質的幸福⇔精神的幸福

知能の高さ⇔心の豊かさ

構築力ー保持力ー⇔破壊力ー前進力ー

進歩⇔自然破壊

理性⇔肉体性

宗教ー善ー⇔大衆性ー悪ー

神⇔悪魔

無限⇔有限

 

食って良ひものと食ってはイケナひものの区別を指し示せし其の神こそは二元の神だ。

 

二元の神は女を創りしが其の👩が悪魔に唆され生じし欲より智慧の實を食った。

 

智慧の實即ち理性の實を其の樹から捥ひで食ったのだ。

 

 

『園の中央に在樹の果實をば神汝等之を食ふべからず又之に捫るべからず恐は汝等死んと言給へり』

かように理性化すると死を捉へられるやうになる。

 

よって其れは肉体の死では無く観念としての死である。

 

其の死に捉はれることから實は死を死としては死ねなくならう。

 

理性体の死は其のやうに悲しきものでしか無ひ。

 

死を死として死ぬる動植物に比して其れは決して優れた死に方には非ず。

 

また其の死こそが罪なり。

 

人間の死とは其の侭に罪なり。

 

 

 

さて何故女は悪魔に唆される程に欲深ひのか?

 

其処を良ーく観察してみやう。

 

まず、👩は世間体を気にする。

即ち社会的評価を兎に角気にする。

 

だが實はそんなものはどうでも良ひ。

本質的には其れは無価値である。

 

即ち肩書や生まれの良し悪し、頭の良し悪し、財産の有る無しなど實は取るに足らぬことばかりだ。

そんなものは諸行無常で且つ空の出来事なのだから拘泥すべきことには非ず。

 

されど女共は常にソコんとこに縛り付けられて居やう。

 

即ち子宮にて此の世の諸価値に貼り付ひても居らう。

 

其の貼り付き方はまさに並大抵のものでは無ひぞよ。

 

其の執念深さ、さうして欲深さは釈迦やキリストでさへ辟易する程のものだ。

 

 

然し其れは概ね本能欲であるに過ぎぬ。

 

ところが悪魔が唆したのはむしろ理性の方である。

 

其のやうな理性の階梯をば女がよもや欲したとは思へぬ。

 

だから其処にはどうも男の影がちらつひて居らう。

 

即ち彼アダムの神化ーより一層の栄達ーを乞ひ願ひつつ女は智慧の實を食したのだ。

 

 

しかもすでに女の尻に敷かれつつあった彼は女の言ふが侭に同じやうに智慧の實を食して仕舞ふ。

 

嗚呼、まさに其の時からだ、人類の苦悩が始まったのは。

 

 

其の背徳の様に神は怒り人間を楽園から追放する。

即ち失楽園である。

 

抽象的思考力を持つと云ふことは、其の失楽園なる様を意味する。

 

即ち地には抽象的思考力が元より無ひ。

 

彼等にあるのは自然界での合理性を受動する能力ー相対的合理領域ーのみ。

 

対する只ひとつの神とは観念的ー絶対的、能動的ーな意味での合理性の極ー絶対的合理領域ーにこそ位置するものだ。

 

ー但し多神教に於ける神は其れとはまるで異なる位置づけでの神ー

 

 

元より人間とは其の間を生きるもののこと。

 

だから元々地の民には非ず。

 

我等は神と地との間を生くるものなり。

 

其の分を弁へ自らを両極へと導かぬもの、其を理性と呼ばずして何と言ふ。

 

 

さて其のやうに女の邪な心が純真無垢なる独身男性の素直な心をも玩び彼等は楽園より追放されて仕舞った。

 

ああー、怖ろしや女の心、げに怖ろしや其の一念。

 

左様なお局様の其の権力、支配欲、盲目的なる前向きの力こそが。

 

 

其れが全部纏めて子宮の中に入って御座る。

 

 

地に放逐されると云ふ其の具象的試練とは智慧の實を食ったことによる抽象的思考力との対概念なのだ。

 

人間の抽象的思考力は其のやうに神話の段階からすでに獲得されて居りむしろ其の代わりに楽園を追放される=失楽園する、との運命がしかと定められて居たのであった。

 

其の代わりに額に汗して労働する羽目となりまた死すべきものともなりしかも塵から生まれ塵へと戻るのだ。

 

抽象的思考力を持ちしホモ・サピエンスネアンデルタール人に打ち克ち繁栄したが其れはあくまで抽象的繁栄での範囲であらう。

 

 

即ち抽象的限界としての生死=物質的な生死が常に其処に突き付けられて居やう。

 

抽象的概念を持つからこそ逆に其の生死としての肉体性が限りなく其処に覆ひ被さるのだ。

 

 

試しに🐻や🐗や🐒に善悪の規準に就き聞ひて見給へ。

 

またおまへらはやがては死ぬが大丈夫か?

などとも聞ひて見給へ。

 

🐻や🐗はそんなアナタに猛然と突進して来るばかりだ。

🐒はキッキーとか言ひながらアナタに食べ物を乞ひ願ふばかりだ。

 

 

何と奴等には抽象的思考が成立して居なひ!

奴等は神か其れとも悪魔なのか?

 

さうではなひ、彼等は元々地上の住人だ。

 

神でも悪魔でも無ひタダの獣であるに過ぎぬ。

 

ソコんところへむしろおまへらの方が落ちて来た。

 

失楽園してさうして其処へ落ちたのじゃった。

 

 

我我は皆其のやうに楽園を追われし流浪の民の子孫である。

 

其の流浪とは精神による抽象性と肉体による具象性との間に横たわりし矛盾であり葛藤の様をこそ云ふ。

 

其の両者に於けるバランスが取れぬ間は人間にとってのほんたうの幸福が訪れやうべくも無ひ。

 

 

我我がシンポし、且つ経済成長し、そればかりか日々女に尻に敷かれて居る限りは其のほんたうの幸福が訪れやうべくも無ひ。

 

其処でなるべく早う修道院に入るか、或は仏門に下り其れも小乗仏教圏にてすぐさま修行に勤しむことこそがわたくしにもまるで出来ぬ唯一の神仏への道である。

 

 

尚、かの香嵐渓にはかって「香嵐渓🐍センター」なるものがあり確かわたくしも一度行ってみたやうな曖昧な記憶がありしが其れももはや定かでは無ひ。

此処にもあるやうに「コブラマングースの大決闘」が此処の催しでの目玉であり誰もが見たひと欲してやまぬものであった。

 

 

其のやうに何故か人間は見たひものが見たひものであり、見たく無ひものは普通見たくは無くまた見るなと言はれると余計に見たくなるのが人情と云ふものだ。

 

ハブ 対 マングース tenorin2008

蛇と👩が絡み合ふショーなども或いは何処ぞで繰り広げられて居るのやもしれぬ。

 

 

マングースはハブと闘わない 有害外来生物をつくり出した学者の責任

 

かようにネズミやハブを退治する為に導入した筈のマングースが固有の希少種を食ひ散らかし深刻な生態系被害を齎した訳である。

生命は本来其の地のものであり其れを移動したり無理に繁殖させたりすべきものには非ず。

 

其処で人間社会に有害な何かが生じて居るのであればむしろ其れは人間が増へ過ぎて居るゆえさうなって居るのだ。

 

そんな訳で🐍対マングースの決闘とは其れこそそんなのこそが観たくなる人間の下品さのむしろ象徴なのであった。

 

人間は世界を征服しもはやグローバルに何でも出来るとさう思ひ上がっても居やうがまさにそんな心持ちこそが罪深き認識なのであらう。

 

人間は地に撒かれた失楽園者だとさう思って居る方がそんなのよりはずっと良くまさに正しき認識なのであらう。

 

其れは近現代文明に於ける人間の認識とは正反対での認識を強ひるものだが素晴らしひ価値観だとわたくしの場合は常にさう思ふ。

 

さうして🐍は別に悪魔であるとは限らぬ。

 

わたくしは昔からニョロニョロの🐍は好きである。

 

ニョロニョロの🐍を年に一度程東山動物園へ観に行ったりもして居る。

 

🐍は存外に美しひ動物でしかも獣クサくは無く意外と上品なものだ。