さて元よりわたくしの文明批判は人文、社会科学の方から何とか其れが出来なひものかと思ひ始めたものである。
と言ふのも学生の頃わたくしは社会科と国語がとても良く出来たからだった。
尤も塾でもって社会科を教へたのは社会科の方が教へるのは簡単だからなのだった。
どだい文學と云ふものは此の世では一番難しひもののひとつでもって単純な数学のやうにはすぐには答へが得られぬものでもある。
尤もわたくしにはそんな人文能ばかりでは無く美や神秘の世界を解する直観能力さへもがあった。
其れで幼ひ頃から絵を描ひたり詩を書ひたりすることが出来たのだ。
だが其れ故に何だか良く分らぬやうに自分でもなって仕舞ふ。
其れも唐突に🐻や🐗や🐵や🐍などが頭の中をよぎるので所謂人間的な常識の範囲を逸脱して仕舞ふのである。
わたくしには幼き頃にまさに変なイメージの反芻が屡あったものだったが其れは本日語ることでは無ひ故また後日にでも書かせて頂くこととする。
さて其の社会科=歴史の方であるが、還暦を迎へた今まさに其れが最も重要な分野又は視点であらうとさうも思ふのだ。
ひとつには文明の抱へる多くの課題又は問題は所詮其の歴史過程が生み出す必然の結果ではなひかとさう思ふやうになったからなのだ。
即ち全ては必然としての歴史の集積の結果であり謂わば其れは決定論的に運命として担わされて居ることなのではなひか。
其れも所謂歴史や文學、哲學としての御勉強とさらに宗教的な人間の心理の探究を積み重ねて来た挙句に其のやうに思われるやうになったのだった。
つまりは自分でもって歴史がさう組み上げて来たものであるに過ぎぬ。
神でも佛でも無く他ならぬ人間が自分でもって自分の首を絞める為にさう組み上げて来たものであるに過ぎぬ。
其のやうな様がどうも見へて来たが故に人間をコキおろす為にバカだアホだマヌケだ能足りんだとさう其の様を形容して居るのだ。
さうして其の様こそがつまりは自己批判なのだ。
何故かじぶんも人間なのだが自然や宇宙へと溶け込むことが出来る人間=詩人でもあるので其処に人間のおバカさ加減がもうイヤと云ふ程に見へて来て仕舞ふのだ。
そんな訳でわたくしが述べて居るのはそんなこれまでのわたくしの御勉強と直観が統合されしものなのであり其れ即ちノンフィクションとしてのわたくしの文學作品のことだ。
要するにかの宮澤 賢治の心象スケッチと同じやうなものなのだ。
尚社会への批判は基本的に個が行ふものである。
マルクスにせよエンゲルスにせよ毛沢東にせよまた賢治にせよ漱石にせよ芥川にせよトルストイにせよソルジェニーツィンにせよ、或はゴーギャンにせよ、其れ等はあくまで個に於ける批判を社会に対し為していったものだ。
さてそんなわたくしが今観念的に取り組んで居ることとは進歩と云ふ概念に対する対決である。
何故なら其の進歩思想こそが我我にとり限りなく未来への不安を増大させて居るからなのだ。
勿論其の我我とは個に対してと云ふこととならう。
重要なことは必ずしも社会は個を幸せに導くものでは無ひと云った視点である。
何故ならかって戦時中に幸せであった個など居たことだったらうか。
逆に其処で社会は個を不幸のドン底へと陥れた。
曰く、欲しがりません、勝つまでは。
しかも挙句の果てには負けても居る。
そんな軍国主義ー全体主義ーや帝国主義に於ひては要するに其処では価値観が一元化されて居やう。
畢竟其れは一つの拡張主義として還元し得る。
勿論資本主義もまた其の拡張主義の典型例だ。
要するに弱ひところから搾取することで支配層が肥へ太ると云ふことだが小さひ範囲で其れをやればやがては個が皆死んじゃう。
だからドレイ=個をより大きく連ならせておく為によりデカひ組織なり国家なりをつくる必要があらう。
また情報社会と云ふより抽象的な世界に於ひても其れが成立していく。
其れこそ量子コンピユータ―だのAIだの、さうした電脳の分野での其の拡張主義をやり其処にこそ個を隷属させやうとして居るだけのことなのだ。
謂はば其の拡張主義こそが近代以降の進歩概念の基本原則なのだ。
だが其の拡張主義こそが世の成り立ちである二元性を無視したところでの謂はば暴走其のものなのだ。
「琴の弦はきつく締めすぎると切れてしまうが、緩く締めると音が悪い。琴の弦は、適度に締めるのが望ましい」というスジャーターの歌を聴いた釈迦は、苦行が間違っていたことに気がつきます。仏教の開祖、釈迦とは?その生涯と“諸行無常”の真理をわかりやすく解説【四聖を紐解く①】
釈迦が悟りを拓く時に参考としたのが此の極めて現実的なー具象としてのーバランスの原理である。
但し拡張主義も實は其のバランスを取る為の原理である。
近現代と云ふ時代自体、歴史自体の拡張に見合った原理なのだ。
なんだけれども、其処には重要なことが一つ忘れ去られて居る。
其れは何か?
其の欲望の次元としての抽象度の高さである。
琴の弦の原理は一歩間違へばーバランスが悪ければー弦が切れるだけで済むが抽象的に規定されしアンバランスは何がどう切れるものやら予測がつかぬものだ。
かってわたくしはまさに其処を直観し人間の精神の破壊が其処に齎されるとさう述べて来ても居る。
本来ならば人間の進歩はより具象的なものであるべきものだ。
具象的に規定されるアンバランスは世界を破滅させる力には欠けて居やうが抽象的に規定されるアンバランスはまさに世界を破滅させるに足る力を持つことだらう。
だが近代以降其れは必然的に抽象的進歩の枠内へと入り込んでいく。
即ち其の具象的欲望こそが「求めなひ」ことなのだ。
言ひ換へれば求め過ぎるとロクなことにはならなひ。
近代主義とはそんな抽象的に規定されし非限定主義=拡張主義にこそ基づき営まれていくことだらう単なる抽象的理念ー概念ーだ。
そんな抽象概念ひとつの為にかうして我我個はいつもこき使はれ次第次第に電脳の為の搾取の対象とされていくのだ。
そんな観念的欲望ひとつの為に年功序列も何も無く結婚も出来ずでもっていつも会社浸け医者浸け社会浸けだ。
よくもまあそんなに酷ひ言ひ方が出来たものだ。
一体どんなに社会のお陰でこれまで楽しく生きさせて貰って来たことか。
有難ふ御座ります、勿論世の中に感謝はして居りますよ、感謝は。
なのだがかういふ嫌らしひことをいつも言ふのが我の使命なのだ、使命。
兎に角抽象的に規定されるところでの拡張主義程怖ひものは無ひ。
抽象的に規定されるところでの拡張主義の具体例こそが自然科学であらう。
だが自然科学は歯止めを知らぬ。
其れは丁度資本主義による欲望の追求に歯止めが無ひのとまるで同じことなのだ。
だからと言って我我個としての現代人は無論のこと其の資本主義による欲望の追求並びに抽象的に規定されるところでの拡張主義=進歩思想其れ自体を全否定することなど出来ぬ。
まさに其れが文明に於ける自己矛盾の様なのだ。
だが其の自己矛盾の様は今に始まったことでは無ひ。
歴史を俯瞰して學ぶと其のことが即座に了解されることだらう。
此の本はもう随分前に入手したのだけれど、實はまだ読めては居なひのだ。
だが實は今とても気になって居る本なのだ。
ネット上にて少しく調べてみたところ、どうもわたくしの考へるところでの文明の暴走による必然としての文明滅亡論にも似た論旨が述べられたものであることらしひ。
さて文明の先には一体何が待ち受けて居るのだらうか?
尚此処での感想・レヴュー欄には質の高ひものが多く其れは人類が皆おバカなのではなくちゃんと文明の行く先を案じて居る知性が其処かしこに居ると云ふ事実をこそ指し示して居る。
此処の読者の方々も勿論そんな方々なのでそんな方々に対していつもバカとかマヌケとか言ひ放ちまことに心苦しひのではあるがわたくしの立場としては其処はむしろどーにもならぬことである。
ホモ・サピエンスは事実として其のアホでバカでマヌケで能足りんである可能性が學べば學ぶほどにさうしてむしろ高まっても来やう。
おや、こんなのもあったぞ。
此れは是非にも視たひ、だが何故か有料だな。
でも實に面白さうだ。
尚レヴュー欄にも述べて居られる方が居るが、もしも進歩が善だとすれば現世利益追求は全てが善とされ其れこそ其処での遺伝子改変や電脳開発や性の合理化などが全的に善きこととされて仕舞ふ。
だが其れはあくまで善では無ひのである。
正確には善と悪の二元的価値対立の範疇でもって選び取る問題なのだ。
其れをあへて近現代と云ふ歴史過程が進歩の方へと選び取って来て居る訳だ。
ところが其の選択こそが誤りだ。
何故なら其処では人文科学や社会科学による諫めの力を見失って仕舞って居る。
本来ならばさうした諫めの領域に耳を貸し其処に是非バランスを取る必要があった。
其処での誤りは決してしてはならぬことであった。
何故なら社会の規模が封建時代とはまるで違ふからだ。
近現代社会とは元々さうした大きなリスクを抱へ込んだ大分離ー大分裂ー社会なのだ。
一言で言ふとまさに其れをやってもうた。
やってもうたので暴走が始まり気付いた時にはもはや全ては手遅れだ。
止めろ!目覚めよ!と自然や神仏や詩人にさうは言はれてもまるで止まらぬ、目覚められぬ。
現代文明よ、だからおまへこそはアホでバカでマヌケで能足りんなのだ!
そればかりか文明は病気だ、病気。
決して癒へること無き心の癌細胞をも抱へ込んでるぞ。
其れは幸せ病だ、じぶんだけが酒池肉林の世界で永遠に生き延びたひとさう願ふ利己的な病ぞ。
元より人間は愚かでもって欲のカタマリでまさに其の心の方が犬畜生以下での生き物です。
ですが有難ふ御座ります。
わたくしはかうしてお勉強しつつ現代文明を批判しつつ生きて居ることが今大層楽しゅう御座ります。
次第次第に楽しくなって来て仕舞ひましたのですがね。
其の進歩概念に就ひては以前にかのヘーゲルの弁証法過程を批判しても居りますが其処は今一度良く考へ直しどう理論的に其れをブチ壊すべきものか思案中のところでもあります。
ただかってのやうな難しひ話は次第に頭がボケて来て出来なくなる恐れも実際には御座りませう。
但しわたくしの本心はタダ花鳥風月といつまでも戯れて居たひだけなのですが現代文明が余りにもバカだからなかなか其の時間が取れずで其処が残念と言へば残念です。
かのホモ・サピエンス程愚かな生物は他に宇宙には決して居なひことでせう。
尚現代文明にはもはや進歩などまるで必要はありません。
むしろ要るのは心の方での進歩でせう。
心の方での進歩は苦しみや過去と向き合ふことでこそ醸成され得る。
抽象的に規定される利益又は快楽を追求することで逆に心は貧しくなっていくことだらう。
そんな風に現代の社会構造其れ自体が選択による誤りによるものだ。
まさに其の抽象的欲望に基づく抽象的利益の世界こそが大きな誤りなのだ。
さうでは無く具象的に欲望は追求されるべきものだ。
其処ではなるべく小さな欲の方へと是非シフトしていくべき。
金融経済なんてのは最悪でもって勿論✖。
でも具体的な食欲の追求などはむしろおススメしたひ位だ。
グローバル社会なんてのは最悪でもって勿論✖。
でも引き籠もってフィギュアなどと戯れることはむしろ〇です。
経済成長はもはや要らぬ。
だが本は買ひ込み読んで置ひた方が良ひことだらう。
だからアマゾンもWIKIPEDIAも必然的に必要だ。
スマフォを創る企業などもはや一つも要らぬ。
だが富士通だけは必要だ。
何故なら此のPCはかって富士通から直に買ったのだ。-でも直販だからと言って決して安くはならぬさうである-
左様にとりあへずわたくしが今使って居るものだけは此の際存続を許しても良ひ。
ところで国家はどうするのですか?
無論のこと国家は無ひ方が良ひのだが結局其れは失くせやしなひ。
今後国民国家はむしろより強固に形成されていくことだらう。
今後文明はどうなるのですか?
所詮はどーにもならぬ。
何故か?
ホモ・サピエンスが築きし歴史過程其のものが其の文明の暴走を招ひて居ることだらうからだ。
だから今更何をしたって此の流れを食ひ止めることなど出来はしなひ。
では人類滅亡ですか?
おそらくは。
でも其れは2050年以降でのことだ。
其れまではせいぜい与へられし生を愉しんでおくと良ひ。
いやむしろ楽しんでおくべきだらう。
むしろ前向きにさうした諸の趣味の追求に命を捧げていかう。
でも社会的な抽象性の高ひ価値に対しては是非背を向けて歩んでいくべきだ。
社会の提供する新たな価値をなるべく拒否し個としての内面の充実ー具象的な趣味をも含めーを生きることの方が残された時間に対しては如何にもふさはしひことだらう。