命題3
飢餓、疫病、戦争の3つを克服した人類が次に解決しようとする課題は、人間至上主義の完全なる達成のため、不死、至福となることを通じてホモデウス=神となることと予想される。
人類は自らをホモデウスにアップグレードすることで人間至上主義の完遂を目指す。
さて愈々ホモデウス、即ち神人間の登場であります。
其れは人間至上主義の完遂を目指す上での必然的な成り行きとなるのやもしれぬ。
が、わたくしは所詮人間は神にはなれなひ、とさう限定的に捉へます。
左様にわたくしの考へ方は全部が限定的です。
何故なら事実人間は雁字搦めに限定されて居るからです。
自然とは異なり二重に限定されて居るので余計に困った奴で要するに其の本質としては最初から最後まで縛られっ放しだと云ふことです。
第一何故神になど近づく必要があるのでせうか?
元々神は抽象概念ですので其れはなるものではなく考へ出すものです。
人間は神が居なひと必ずやおかしゅうなりますので其の理性的歯止めとして観念的暴走を阻止するものこそが神の概念です。
わたくしは昔ー二十五年程前にー付知の山の中を独り歩きながら考へ込んで居りました。
人間は天と地の間を生きるものである。
と其の時にさう結論付けられた。
其の間を生きるからこそ人であり人間なのだ。
今思へば其の天はまさしく神仏の世界を象徴するものであり、其の地とはまさしく自然界を象徴するものです。
其の間のみを人間は生きるのでまさに人間なのです。
其れは人と人との間を生きるのではなく天でも地でも無ひ訳の分からぬ観念世界を、其の抽象的価値観をまさに生きる者なのです。
難しく言へば其の抽象性自体は神の属性でも無ければ自然の属性でも無ひと云ふことです。
まさしく其れは人間に固有の抽象的属性です。
自然に抽象性が欠けて居るのは、自然其のものが具象化される程に観念的に分離されて居なひからです。
具象化され得ると云ふことは肉体的、物質的に勿論分離されて居ります。
分離されることが無くばそも現象することは無ひ。
分離されるので物質化してソコココに現れて居るのです。
但し自然の場合には其れ以上分離されませぬ。
人間のやうに時間の流れを観念的に捉へ死を恐怖し愛を愛として抽象化する精神の段階に至り初めて観念的に分離されませう。
故に人間の場合は物質及び精神の二面に亘り分離されて居ります。
其処で二重に分離されて居ると捉へると分かり易ひのやもしれぬ。
其の分離される前の大元の世界は何かと問われれば謂わば其れが物自体であり同時に神仏と云ふ抽象概念でもあるものです。
其のやうに二重に分離されし人間の持つ業とは抽象的欲望です。
其れも社会的抽象願望が最も厄介なものです。
よしんば個としてまさに具象的に様々なものに溺れたにせよそんなものは元々個としての身を滅ぼすだけのもので別に社会を破壊するだの地球の未来を奪ふだのと云ふ悪事を働く訳では御座ひませぬ。
ところが抽象的に追求される社会的欲望はもうほんたうに其れが此の世界に僅かでも撒かれた時点で世界の破壊を齎すことと必然的になる。
何故かと云ふと社会は個よりも一次元大きくより抽象性により規定され破壊力に充ちたものだからなのです。
其のやうな特別な破壊力を人間社会、特に近代以降の文明社会は常に持ち合わせて居やう。
なのでむしろ人間にだけ大きく問題が存して居た訳です。
神と言っても其れは元々抽象概念なので其れを具象化などすることは出来ぬ。
対する自然はまさに全部が具象物ですが、要するに其れは其の具象ー本能ーとしての範囲内でグルグル回って居るだけのものですから其れ自身は清浄でもってつまりは邪心が無ひ。
其の点ではまさに神とも連なる訳です。即ち両極であるが故にむしろ相即して居るのである。
対する人間は何て中途半端なんだ。
どちらをも生きられず、其の癖観念的欲望に強く捉へられて居る。
其のやうに了解されたが故に以降は具象的願望よりも抽象的願望を目の敵として生きて参りました。
人間至上主義とはまさしく其の抽象的願望に属するものです。
人間至上主義ばかりか文明に於ける諸の価値観はまさしく其の抽象的願望に属するものです。
但しあくまで其れもあくまで観念的にはさうだと云ふ意味に於ひてのことです。
個としての煩悩は無論のこと生じませうし文明の価値観に従わねばならぬ場合もまたありませう。
しかしながらもはや其の頃から精神的に抽象的願望を抱くことを捨て去りました。
もしも人間が神の領域に至りたひのであればまさしく其れが抽象的願望の世界のことです。
然し抽象的願望の実現には大きなリスクが伴ふことであらう。
其れは自然界にもまた神々の世界にも抽象的願望の実現の場など用意されて居なひからなのです。
ですから人間はあへてそんな抽象領域に自らの実存的価値を賭け挑んで行く者なのでせう。
其れも良く言へば。
悪く言へばそんな抽象領域に自らの実存的価値もろとも自爆して仕舞ふ破壊者だと云ふことです。
人間至上主義とは仏蘭西革命以降に成立した急激に人間其のものを持ち上げやうとする動きのことです。
其れも戦後世界を経て現在人間はさらなる高みへと持ち上げられやうとして居る。
事実今や人間の、其の人一人の命はどんなものよりも尊ひのです。
或は神よりも尊ひと言へるのやもしれぬ。
ところが其れはあくまで観念的ー抽象的ー願望であり具象的ー具体的ー現実ではありません。
何故なら現在人間の命の重さには大きく差別が生じて居りまさに神の如くに全てを成し得る人から食にもこと欠き餓死する人までまさに千差万別での様です。
此のやうな格差、其れも結果的に社会が規定するに至る格差が厳然として有るのは人間の抽象的願望其れ自体が目的化されて居るからに他ならぬ。
其の抽象願望はあくまで個としての全人類には行きわたらず社会と云ふ組織的限定の枠内でパイを奪ひ合ふだけのことです。
其の抽象願望は富=余剰価値と云ふことにも或は置き換へられやう。
ですから、其の富とは元々限定されたものだった。
かのマンモスも限定で、魚介も限定で、小麦も米も限定で、子供も半分はやがて死ぬから限定で、女も十人も子を産めばもう余力が無ひ故すぐに死にませう。
爺婆は多分三十歳位でもう其の爺婆でもって役には立たなかった。
元々そんな自然の摂理による限定を人間の社会は受けて来て居た。
ところが資本主義は其の限定を打ち破る新たな戦略を練り上げた。
其れが所謂経済成長と云ふ概念です。
経済成長は究極の+思考を生み出します。
即ち経済成長さへして居れば富が増へませうからやがては皆が豊かにはなれやう。
事実豊かにもなれました。
そんな自然の摂理による限定を豊かさと云う抽象概念で持って押しやったのです。
なのですが、其の資本主義の成長戦略には何か大事なものが欠けて居ります。
其れこそが限定、即ち節度と云ふことであります。
大昔にイエス・キリストと云う一人の聖人がとある市場で暴れたとされて居る。
それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。
『わたしの家は、すべての国の人の
祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしてしまった。」
祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。(マルコによる福音書 一一章一五―一九節) 自由と暴力より
何故イエス・キリストは此処までの暴力をあへて行ったのだらうか?
ただ、わたくしにはすぐに分かった。
其の一人の聖人は儲けること=商売が神の意に沿ふものでは無ひとさう思われたのであらう。
まさに此の部分をネット上であへて取り上げイエス・キリストの人格に疑問あり、或はアスペルガーではなかったか?などとする意見を屡目にしたりもするのですが、わたくしの場合其れは違ふと思ふ。
即ちイエス・キリストは商売の根本に横たわる欲得に対しての正義の怒りを示されたのだ。
さらに言へば人間の心の根本に横たわる飽くなき欲望への執着が神の意には沿わぬものである故に其の欲望自体に対しての攻撃を行われたのだ。
然し人間達には其の真意が伝わらぬ。
かように俗なる心の持ち主には其れが単なる暴力と見へて仕舞ふことであらう。
其の折にイエス・キリストは富とは神から受け取るものであることをまさに身を持って示されたのだ。
其のやうに富とは限定であり、其れは神の恩寵としての具体物である。
故に元々其れは抽象化されし富などであってはならぬ。
其のあってはならぬ冨の追求をあへて長きに亘りしたひ放題にして来たのが資本主義に於ける成長戦略の様だ。
其の成長戦略とは然し極めて抽象的な概念としての価値だ。
まさに節度無き神に背く形での欲望の追求のことだ。
だが人間には常に限度が付き纏ふ。
こんなに限定されて居るからこそむしろ儲けが欲しひ。
儲けばかりか物資が無ければ生きてはいけぬ。
物は必要だから商ひにて其れ等を手に入れるが一体其れの何処が悪ひのか?
かように聖なる認識と我我の認識は根本的に対立して居る。
釈迦もまた一切の仕事、商取引の類を沙門に対してかって禁じた。
何故欲望に応じて人間が生きることが誤りなのか?
此処からしても欲望、特に社会的に是とされる欲望には大きく危険が潜んで居る。
社会は、特に近代以降の欲望を是とする価値観にはとある抽象性が潜んで居やう。
まさに其れが抽象化されし富の追求であり豊かさと云う抽象概念による限定の解除であり自然の破壊である。
其のやうな抽象的な願望の追求が自然への破壊を齎しつひには人間の精神の破壊をも齎さう。
従って常に注意深く其の危険を回避しなくてはならぬ。
即ち儲け過ぎても何の意味も無ひ、むしろ其の儲け過ぎにより地球をひいては自分自身を破壊して居るのだ。
勿論物を持ち過ぎること、良ひ家に住むこと、デカい墓に入ること、必要以上に長生きをすること、なども全てが其の抽象的願望なのだ。
以上のことで何故抽象的願望には危険が伴ふのか、其の抽象的価値の追求の果てには必ずや破壊が潜む、と云ふ此の世界に於ける根本での摂理がお分かり頂けたことかと思ふ。
問題は人間至上主義とは抽象的願望其のものだと云ふ部分にこそある。
即ち人間を持ち上げ過ぎることがすでに天をも地をも離れし人間の暴挙なのだ。
いや、人間としての当たり前の行為なのだ。
何故なら天でも地でもなひ今を常に人間は生きていくのだから。
だったら其れでイイのじゃないか?
馬鹿者!
人間其のものを生きてはイケナイのが人間なのだ。
人間其のものを生きると人間は結局自らを神へと高めやうとする。
だが其こそがむしろ自らを低めることだ。
人間は神には決してなれぬものをあへてさうして神にならうとする。
そんなことをして居るとかのイーカロスの如くに必ずや墜落して滅ぶぞよ。
間違へてそんなところを飛んだお蔭でつひ落ちる羽目にもなり申した。
「蝋が湿気でバラバラにならないように海面に近付きすぎてはいけない。それに加え、蝋が熱で溶けてしまうので太陽にも近付いてはいけない」と忠告した。しかし、自由自在に空を飛べるイーカロスは自らを過信し、太陽にも到達できるという傲慢さから太陽神ヘリオス(アポロン)に向かって飛んでいった。その結果、太陽の熱で蝋を溶かされ墜落死した。」 イーカロスより
元より人間の飛翔は地に近過ぎてはならぬ。
また天に向かって飛んでもならぬ。
人間は天と地の間を飛ばねばならぬ。
しかも抽象的願望をば抜きにして。
さう人間は具象的事実ー歴史的事実ーをこそ生きるべきだ。
其のやうな正しき認識が是非必要なのだ。