目覚めよ!

文明批判と美の探求と

不倫及び浮気への宗教的考察

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アア、なる程さうだったのか。まさに凄ひ社会時評だな。世界一「陰湿で心が狭い」日本人が、自ら小売店を殴り殺す

 

 

ただ婬を念いて、煩い胸の中に満てり。
愛欲交乱して、坐起安からず。
細色をめんらいして邪態外にほしいままなり。
自らが妻を厭い憎みて、ひそかに妄りに入出す

(『無量寿経』)

これは「つねに淫猥なことばかり考え、
愛欲の波は高く寄せかけ、寄せかけ、起つも坐るも、安らかでない。
女性の姿に眼を輝かせ、卑猥な行為を思いのままにしている。
我が妻をいとい憎んで、ひそかに他の女をうかがって煩悶している
不倫や浮気より

 

自分の妻に満足することなく、遊女とつき合い、他人の妻と交わる。
 これは破滅への門である

(『スッタニパータ』106)

力ずくで、あるいはよしみをもって、
 親類たちの、あるいは友人の妻と交わる人、
 かれを賤しい人であると知れ

(『スッタニパータ』123)

 

不倫をした人は、人を見ると疑いの心が起き、ウソをつき、
常に心が散り乱れて苦しみ悩んで善い行いができなくなり、
財産を失う。寿命は短くなり、死ねば地獄に堕ちる
」『優婆塞戒経』より

不倫や浮気より

 

 

即ち自らの妻、まさに世の理を知らずして子宮の欲望に浸り切っておる👩の性其のもの、其のプラトーニック・ラヴの対象とはとてもなり得ぬ妻をこそ神佛の名の下に愛するか又は慈悲の心でもってして包み込むことこそが凡夫にとって唯一赦されし肉欲の形であらう。

故にこそ不倫も浮気も金輪際✖なのだ。

 

では妻の無ひ人はどうなるのか?

無論のこと其れは遊女と付き合ふことなども時には必要なことともならう。

 

尚、わたくしは遊女を好まぬ。

 

さうでは無く小学生の頃経験せし二つのプラトーニック・ラヴの方がずっと印象的なものだったが故に。

 

 

妻の無ひ人は👨への趣味と走るべきではなひのか?

まあ結構さうした人々もまた多ひ。

 

特に藝術家にはさうした人々もまた多ひ。

 

勿論🚹への愛に於ひても其れがプラトーニック・ラヴの形である方がより望ましひ訳だ。

其れも眞理を見詰めつつ生きる限りに於ひては何故か自然と其のやうなこととなるのである。

 

 

ところでほんたうの意味でのおまへの肉欲の上での趣味とは何だ?

 

ズバリわたくしの趣味とは尼僧か又はシスターのことです。

つまりは其処に宗教が絡んだ肉欲でなくてはなりませぬ。

 

さうか、矢張りと言ふべきか其処は性的指向が相当に変はって居るな。

では尼僧か又はシスター物のコスプレにより興奮を覚へると云ふさうしたことなのだらうか?

 

いいや、むしろほんたうの尼僧か又はシスターと是非お付き合ひがしてみたひ。

つまりはプラトーニック・ラヴの形にて是非宗教的議論をしてみたひ。

 

おまへは善人振りをしつつさうして尼僧か又はシスターに対し常に目をギラつかせつつある。

おまへこそは悪魔だ、ニセ佛教徒だ、ウソ佛だ、アアまさに邪教の教祖だ!

 

 

ですからかうしていつも懺悔しているので御座ります。

おお、神よ、どうか此の罪深き魂を御救ひ下され。

 

大日如来様、どうか此の煩悩に穢れ迷へる魂を御救ひ下され。

 

と、質問に誘導されつひ本音を語って仕舞ひましたが左程に肉欲とは實に個人的な趣味に富み尚且つ常に人間にとり悪魔的な誘惑を孕む課題なのです。

 

 

悪魔的?

さうです、あくまで悪魔的なものです。

其れもキリスト教的に善悪規定、相対分離規定すればまさに其れが悪魔の仕業ともならう。

 

では自然は悪魔其のものなのですか?

 

いや、自然は悪魔其のものであることからは離れて居ます。

あくまで自然はさうして楽園に住して居るのでせう。

何故なら自然は決して相対分離による分別に生きては居らぬが故に。

 

尤も其れは眞の意味での楽園では無く生老病死の存するまさに不完全な肉体性としての楽園なのだが。

 

するとキリスト教の述べる神の國とは其の自然をも超越する人間にとっての抽象的な霊の楽園なのですか?

おそらくは仰る通りでせう。

 

キリスト教が救ふのはあくまで人間の魂であり其の人間の魂がつひ悪魔と連動して仕舞ふこと其のものに就き實は救ふのだ。

 

だから悪魔とは自然の中に内在するものなのでもある。

ところが自然其れ自体は神の被造物であり全てが完全性の中に捉へられて居るものなのでもある。

 

 

なので自然としての生殖システムもまた完全なものなのです。

より正確には完全に機能する不完全性によるシステムのことだ。

 

だったら其れは矛盾して居ませんか?

 

少なくとも完全に機能する筈の自然としての性のシステム=肉欲が何故こと人間に於ひてはあくまで穢れであり罪なのでせう?

まずは其れが失楽した人間ーキリスト教的にーに於ける相対分離性なのだとさう理解しておくべきです。

 

どだひ其の只一つの神は現象すると同時に怒りと平和をさうして滅亡と繁栄を同時に齎すものなのです。

またキリスト御自身の心のあり方=価値観もまさにさうした分離性の権化のやうなものです。

 

ですが其処にこそ「愛」の概念=抽象的な愛がむしろ具象的に発現し得るのだ。

 

どだひ理性=神の認識と獣性=本能による認識と云ふ分離対立構造其れ自体がキリスト教に於ける相対分離性を何より証明して居ることだらう。

 

だが其れは一面では明らかに眞理です。

 

キリスト教に於ける相対分離其れ自体が悪だとされる論議が現代又は近代以降になされて居りますが其れは誤りなのだとむしろわたくしは捉へる。

 

 

何故なら現實的に此の世の事象は須らく相対分離されて来て居ります。

故にむしろキリスト教は其の様を誠實に示して来て居るのだとも申せませう。

 

さても生老病死の存する不完全な肉体性としての楽園である現世とは失楽園のことなのですか?

まさに失楽園のことでせう。

 

でも重要なことは佛教の捉へ方に於ひても其れは本質的には失楽園なのだと云ふことです。

第一釈迦は此の世が生きるに値する良ひところだなどとはつひぞ考へられたことが無かった。

 

此の世は縁起により齎されし幻の世界=ウソの世界なので其の壮大なウソに縛り付けられし心を解放する=解脱することこそが釈迦のお考へでの核心部なのですから。

 

なる程、すると矢張りと言ふべきか、キリスト教と佛教には明らかに共通点がありますね。

ズバリ其れはまさに此の世が失楽園だと云ふことなのでせう。

 

 

其処をより細かく説明致しますと、其れは自然と人間のあり方が違ふ=異質である、と云ふことに尽きるのだと思ふ。

 

何故なら自然は常に自然其のものなのだが人間は自然其のものではあり得ずのみならず神佛其のものでもあり得ぬ訳だ。

だとすれば人間はさうして抽象性を中途半端に漂ふ存在でしかあり得ぬ訳だ。

ーまさに此の部分をわたくしは三十代の頃に付知の山の中を歩き回りつつ小悟したー

 

まさに其の部分こそが悪魔としての人間の心のあり方なのであらう。

尚自然が神其のものであるかどうかは一神教の立場と多神教の立場では異ならうがいずれにせよ其の人間存在としての悪魔性は此の世の事象に於ひて払拭することのかなはぬ事實である。

 

 

たとへば自然は常に人間に恵みを与へる。

だが時に其れは荒れ狂ひ我我から全てを奪ひ去る。

 

實は其の点につき一神教であらうが多神教であらうがまるで同じなのだ。

 

つまるところ自然には二面がある。

また神にも二面がある。

 

ところが佛には二面が無ひ。

 

佛は二元分離を超越して居られやう。

さうしていつも静かに微笑んで御座らう。

 

ああ、佛は兎に角静かだなあ。

コロナまみれの大都市のやうにウルサクなくてまさにわたくし好みだぞよ。

 

 

但し二面を滅し去った佛の心はすでに人間では無ひ訳だ。

だから人間味を求めたひ向きにはほんたうの佛教=釈迦の佛法など御勧め出来ぬ。

 

其の人間味でもって宗教をやりたひ向きには釈迦の佛法以外での信仰の世界を是非御勧めしたひ。

何故なら何せ釈迦の佛法其れ自体が人間では無ひ人間になることを目指して行く教へなのであらうから。

 

で、其の相対分離と相対分離の抹消とではどちらが上で且つどちらが下なのだ?

 

君の其の下賤なる観念其れ自体が其の上だ下だとの価値ヒエラルキーを創出する訳だが其れ自体がわたくしは嫌ひだ、もはや認められぬ。

君は利口さうにさう見せかけては居るが実際のところ何を考へて居るものやら知れたことではなひ。

 

だが其の上下と云ふ概念への怒りを抑へ教へてしんぜやう。

 

結局結論としてはどちらも有効だ。

 

キリスト教でも佛教でもどちらでもイケると云ふことだ。

 

但し大乗佛教徒の場合には倒錯の度が甚だしひが故に常に其の固定化されし価値観を正して行くべきであらう。

無論のことキリスト教から學ぶことも其の自らの信心への反省を含めてのことなのだ。

 

 

さて、話が宗教的な本質面へとつひ飛んで仕舞ったのでまた不倫の話へと戻りたひ。

先に挙げたやうに本来ならば佛法は不倫や浮気を大罪として「地獄へ堕ちる」に値する罪だとさう述べて御座る。

 

ならば何故かうして不倫だの浮気だのが蔓延する世界となって居るのであらうか?

 

所詮其れは神佛への帰依、其の信仰のあり方を根こそぎ失ひし合理主義社会、合理化されし文明の行き着く果てでの価値観なのだとさう申す他は無ひ。

即ち抽象的に其れもより合理的に性を解釈して行くからこそ必然としてさうしたこととならう。

 

だが性とはまた實存的価値として本質的には合理化など出来ぬものなのだ。

其れを合理化するからこそ人間の価値観の根本が崩されさうして邪淫の数々としての大罪が増へても来る訳だ。

 

 

自分の妻に満足することなく、遊女とつき合い、他人の妻と交わる。
 これは破滅への門である

(『スッタニパータ』106)

力ずくで、あるいはよしみをもって、
 親類たちの、あるいは友人の妻と交わる人、
 かれを賤しい人であると知れ

(『スッタニパータ』123)

不倫や浮気より

 

 

『スッタニパータ』は釈迦の語りし法の内容に近ひ経典ともされるものではあるが其れも確定的にさう分かって居る訳では無ひ。

尚いずれにせよ宗教的な性への解釈は其の欲望の度合ひに応じての罪深さを示す指標であり且つ煩悩の齎す罪障の問題なのでもあらう。

 

前回にも述べたが如くに邪な性的欲望はむしろ取り返しのつかぬ心理的堕落を招きまさにさうした意味に於ひて我我は容易に地獄へと堕ちて行くこととならう。

 

宗教とは其の心が地獄へと堕ちて行くまさに其のことを抑止する為の教へのことを言ふ。

従って本来ならば何教の何の宗派でなければならぬ訳では無くむしろ普遍的に其の悪趣を根絶せしめる為の教へであるべきなのだ。

 

また其のことは佛教とキリスト教に於ひてまさに可能である。

 

不倫はイケナヒことなのだとして、さて其れでは自分の妻で満足して居れば其れで良ひのだらうか?

 

其れも本質的には妻や👪は持たずプラトーニックなラヴの領域へ其の愛をより普遍化して神佛への愛へと是非昇華させておくべきものなのだ。

 

つまり大衆は本質的に成佛出来ず従ってキリスト教か又は浄土教のやうに絶対的超越者に救って頂く他は無ひことだらう。

尤もインテリともなれば他にも密教だの禅宗だのさうしたある意味では脱俗したー但しほんたうの意味での脱俗は禅宗の方だがー宗派に救って頂く手などもまたあらう。

 

 

兎に角「不倫」だの「浮気」だのと云ふことが引き起こされる心の段階であること其れ自体が實は余りにも低次元な話であるに過ぎぬ訳だ。

ではおまへは「不倫」も「浮気」も一切せぬのか?

 

まあ何と申せば良ひのか、要するにわたくしの場合にはさうしたことが問題となる遥か以前での問題がかうして常に心理的に突き付けられて居るが故に「不倫」も「浮気」もクソも無ひと言った方が分かり易くもあらう。

つまりわたくしは所詮俗人とは異なる心理的領域をあへてかうして生きて行かざるを得ぬ。

 

其れでもって威張るのでは無くむしろ其れがイヤだとさう述べて居るのだ。

かうして「気付き」の力が強ひこと自体其れ自体がイヤなのだ。

 

其れに両性具有的で論理と感性が同時にイケることなどもほんたうはイヤなのだ。

が、もしもわたくしに妻が居ればわたくしは其れを何処までも誠実に愛し抜ひて行くことだらう。

だが其の誠実さが並外れて強ひ人に限り其処では愛の意味が常に普遍化されもはや具体的には其れが存在しなくなるのである。

 

要するにわたくしもまた宮澤 賢治化して行かざるを得なひのだ。

 

左様に現實としての「不倫」や「浮気」の話とはまことに生臭くしかもウルサヒ類でのお話で現在わたくしが到達して居る心の階梯からすればまさに幼稚園児以下でのレヴェルでのお話とならざるを得ぬ。

 

 

キリスト教の性否定観念 ~『キリスト教とセックス戦争』より~

 

ちなみに此処はまさに凄ひ。

ネット上にはかうして凄まじくレヴェルの高ひところが屡あるものだ。

 

尚わたくしはキリスト教に於ける肉体性の否定につき少なくとも理解を示して居る者だ。

何故ならばわたくしは現象其れ自体を観念性ー抽象性ーと肉体性ー具象性ーとしての分離過程として捉へるからなのだ。

さうした二元分離こそが此の世に於ける事象の生起に於ける根本的原理なのだ。

 

さうして其れ自体は善悪で言へばむしろ悪ひ。

即ち価値観が常に二元化されどっちつかずなので其処では虚妄の認識又は虚妄の選択を繰り返すことともならう。

 

虚妄の認識又は虚妄の選択を繰り返すと結局人間の社会ー文明ーはよりバランスを欠き要するに良くはならず必ずや悪くならう。

なので其処で是非認識及び選択を正して行く必要に迫られても居やう。

 

 

と言うてもまさしくそこんとこがまるで一般大衆には理解が及ばぬ訳だ。

まあでも其の個人的な悩みのことなどはむしろどうでも良ひ。

 

だが折角眞理への道をさうしてしかと示した二種の宗教があると云ふのに何故大衆は其処へしかと心を結び付けぬかと云うことだけが兎に角解せぬのだ。

なので根本的にはむしろ其の大衆の心性のあり方こそが分からぬ=理解出来ぬ訳なのだ。

 

尚其のキリスト教に於ける性否定、女性否定は其処に書かれて居るやうにキリスト教固有の問題では無ひとさうわたくしは捉へて来て居る。

 

さう其れはまさに佛教に於ける性否定、女性否定の問題なのでもまたあらう。

何故なら實は当初釈迦御自身が性否定、又は女性否定と取られても仕方の無ひやうな発言をされて居たからだったのだった。

 

仏教の「女性」キリスト教の「女性」

 

尚此処には佛教に於ける女性蔑視の部分が分かり易く纏められて居るのだが結論的に佛教=女性蔑視でキリスト教=女性賛美とするのは誤った解釈であると個人的には思ふ。

わたくし自身の結論として言へば佛教にせよキリスト教にせよ本来的には肉体性ーとしての性欲ーを其の侭には認めずつまりは生殖其れ自体を自然的には決して認めて居なひことかと思はれるのだ。

 

従ってわたくしに言はせれば自然的なる性欲の発露としての性欲を其の侭に認めるのはむしろ邪教か大衆に於ける価値観なのであり其れは眞の意味での宗教的段階、眞の意味での理念的反省の域に立つものにはまるで非ず。

つまりは性とはむしろ全否定されてしかるべき悪魔的な行為として規定されて置かれるべきものだ。

 

よってあくまで清く正しく美しく修道院か或は尼寺にて永遠に穢れ無き♀ー乙女ーとして女共は此の世を生き抜ひて行かねばならぬのだ。

 

 

言って居ることがどうも極端でもってオカシヒ、現代と云ふ自由な時代に逆行し尚且つ反抗しても御座る。

 

いいや、まるでさうでは御座らぬ。

わたくしが述べて居るのはあくまで眞理としての文學だ、文學。

 

文學は読みたひ人だけが読めば良ひものであり何も此処で無理して読ませやうとして居る訳ではまるで御座らぬ。

即ちアンタが好き好んで今ワシの作文を読んで居るだけのことじゃらう。

 

其れはさうと修道院か或は尼寺に何故さうも拘る?

修道院か或は尼寺でなひともはや心が興奮しなひからだ。

 

此の罰当たりめが!

ひょっとすると修道院か又は尼寺の画像などを何処かに沢山溜め込んでなど居らぬのか?

 

居ません。

ひょっとすると修道院か又は尼寺へ近く出向かうとさうは思って居らぬか?

居ません。

 

何処かにフィギュアでも無ひのかなとさう思ふばかりなので御座ります。

 

 

兎に角わたくしは現世利益としての面から此の女性蔑視の問題を取り上げてみたひ。

 

歴史的にも近代以前には世界中の文化がむしろ其の性否定であり女性否定の部分を内包して居たのだと言へやう。

むしろ其れは普遍化されし文化的素地であった。

 

ところが観念的にはさうしてあくまで男性社会ではあれ事實上生命を産み育む即ち人類を繁栄させるのは全てが女性の役割なのだった。

つまりはさうしたアンビバレントな抽象性と具象性の混交物として人類の文化=文明の素地は築かれて来て居た。

 

男性社会は基本的に死を内包し性や生に対する疑問を呈する観念的文化となって行かざるを得ぬ。

逆に女性優位の社会では生が賛美され易く性や生に対する安定が何よりも望まれて行くことだらうそんな肉体的文化となって行かざるを得ぬ。

 

 

が、さうした肉体性=現世利益性を賛美する文化は同時に即座に限界が突き付けられて行かう筈だ。

要するに限定されし具象性の中にもはや其れ以上人類の性及び生の繁栄が望めなくもならう。

 

かように女性原理の持つ弱点とはまさに其れ自身が本能的にさう規定されて居ることから来る限定的な現實性=現世利益性=具象性の部分である。

逆に男性原理の持つ弱点とは其れ自身が観念的にさう規定されて居ることから来る非現實性=現世非利益性=抽象性の部分である。

 

さうして具象的なものには常に限度が突き付けられやうが抽象的なものには限度が設定されることが無ひ。

 

 

で、改めて宗教と云ふ精神的段階をさうした視点から見詰めてみると基本的には両宗教共に観念的文化=抽象的文化なのだとさう申す他は御座らぬ。

なので両宗教がまさに観念的に性否定、又は女性否定をやり続けて来たのだとしても其処で基本的には疑問を呈する余地など何処にも無ひ訳だ。

 

だが両宗教共に時代の変化と共に其の現實性=現世利益性を受け容れて来ざるを得なかったことであらうこともまた事實としてあったことだったらう。

でもって現代では男女であることに関はり無く神の僕ともなれまた佛にもなれることとなって居らう。

 

だが其処にはズバリ大きく問題が存して居るのだ。

何故なら釈迦の佛法に於ひて女性が成佛出来るとは必ずしも言ひ難ひからなのだ。

 

 

キリスト教の場合にはさうした性差には関係無く神を信じることでおそらくは神の國へと霊的に生まれ変はれるのだと思ふ。

だが正直申して、高僧でさへまるで成佛出来ぬものがー事實上大乗佛法でもってしていまだ成佛した僧は居なひと云ふのがむしろ定説なのだー👩如きが其処で成佛し得やう筈も無ひ。

 

よってキリスト教の方がむしろ僅かながら女性に対しては開かれて居るとさう申して居るのである。

其れでも特にカトリックはふしだらな👩の行ひに対しては常に厳しひ。

 

もう何処までも雁字搦めにしてさうして性的に厳しひのがわたくしは好みだ。

もう黒ひ服や黒ひベールでもってして徹底的に其の罪深ひ肉体を隠しおまけに家からは一歩も出てはならぬのだぞよ、其れも女と云ふ👩はみんな。

 

其れは何か違ふ宗教ではありませぬか?

ああ、さうか、其れはイスラム教の方だった。

 

もう学校も何処も行かず徹底的に花嫁教育だけをして毎日毎日🚹のお世話タダ其れだけをして居るべきだ!

 

其れは何か違ふ宗教ではありませぬか?

ああ、さうか、其れはイスラム教の方だった。

 

 

尚、わたくしは此処のところ抽象的現在である諸価値を否定し具象的現在としての価値を生きるべきだともさう述べても居りますが其の具象的現在にこそ是非性否定、又は女性否定としての価値を盛り込むべきではなひかとさう考えて来ても居るのだ。

要するに現世利益としての価値観をなるべく抑へて行くべきだと云ふのがわたくしの提唱する限定主義としての要諦なのです。

 

現世利益としての価値観とは要するに本能領域での価値と重なるが故に其れは謂はば現代としては原始退行して行く価値とも必然的にならう。

其の原始退行する価値に対しむしろ自由の部分を限りなく限定し抑へ込んで行くことこそが望ましひ文明としての価値観のあり方なのだ。

 

兎に角現代人よ、文明の其の寄って立つ価値観のあり方こそを正して行くべきだらう。

不倫も浮気もさうして宗教的な見地からすれば明らかに御法度なのだぞよ。