目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

肉欲への宗教的考察

性とは基本的に人間が超越することの出来ぬ根源的な生存欲求であらう筈。

故にか大抵の男性は👩には強く関心を寄せるものだ。

其れも小学生位からすでにさうして強く関心を寄せて居るものだ。

 

だが勘違ひして居てイケナヒのは、あくまでさうした恋慕の思ひと云ふものはプラトニックなラヴでなければならぬ点だ。

即ちより純粋な人間への愛とは常に肉欲を離れし段階にあるべきものなのだ。

 

さて、果たして愛とは何か?

其れもアガペー即ち神の愛のやうな次元のものでは無く其の人間の所謂下の世話としての肉欲とは何か。

 

 

其の肉欲とは結局極めて分離ー分裂ーされたものであるとわたくしはさう捉へる。ー観念的欲⇔肉欲=相対分別化ー

即ち良し悪しで言へばズバリ悪ひものだとの捉へ方を取る。

 

肉欲其れ自体のみを取り出して善悪規定した場合に其れが善きものではあり得ぬとさう判断するのだ。

何故なら元より其れは罪深くしかも煩悩まみれでのものだからだ。

 

が、神と連なるか又は佛と縁した上での肉欲は浄化されたものになり得るともさう考へる。

 

だがさうでは無ひ肉欲其れ自体には磔獄門晒し首以上での大罪が存して居るとさう判断する。

たとへ鋸引きの刑に処されやうとも其の罪障は消へ去りはせぬ。

 

従って其れは永遠の獄へと自ら繋がれて仕舞ふ欲望のあり方のことだ。

 

 

其の邪なる肉欲に就ひては特にキリスト教ー特にカトリックーは厳しひ。

其れはイエス様御自身がさうした邪な肉欲其のものを厳しく断ぜられて居たからなのだ。

 

 

ーこのように,人間が絶対者である神に全面的に信頼をよせることと,弱い人間が神からの信頼に応えてゆくことは一対になっている。これを,聖書では契約と呼び,具体的に十戒という形で神は人間に示した(25)。その中の第6戒「姦淫してはならない」(26)が,唯一,性に関する直接のcommandmentであり,ここに人の性に関する教えがすべて含まれているという解釈を教会は伝統的にとってきた(27)福音書中のイエスも「あなたがたも聞いているとおり,『姦淫するな』と命じられている。しかし,わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも,既に心の中でその女を犯したのである」(28)と厳しい。

 ここに,カトリックの性に対する考えの根幹である貞潔思想を見ることができる。ーカトリックの性に対する考へ方より

 

イエス・キリストは正直申して可成に価値観が変わって居てー凡人の凡なる価値観から見る限りはーたとへば新約聖書から見出される限りは女性に対し物凄く潔癖で且つ冷淡である。

母マリヤに対してさへ至極冷淡で、其ればかりか👪関係などに就ひても余り関心が無ひやうで但し初期のキリスト教徒の集団としての所謂十二使徒に関してはさうではなかった即ち宗教集団に関しては其れなりに熱心だった。

 

イエス・キリストは当時の社会其れ自体に対し全部が間違って居るとさう言はれた訳であるから其処に余り常識的な価値観を期待せぬ方が宜しひことかと思ふ。

つまりは女性関係の方ももう異常と言って良ひ程に潔癖なので後にキリスト教が👩の肉体を悪魔のやうに見做して行ったことも或いは其のキリスト御自身の価値観が色濃く投影されて居りしことだったのやもしれぬ。

 

尚、独身つまりは異性と没交渉な状態こそが實は感覚的に又は理性的にー論理的にー鋭敏な状態を齎し創造的な自我を形成するのではなひかとわたくしはいつもさう思ふ。

要するに👩の尻に常に敷かれて居るやうではあらゆることへの感度が鈍って行くことだらう。

 

だが恋愛は人を詩人にすると云った部分もまた他方では否めぬことであらう。

詩とは生の諸の事象を美辞麗句でもって飾り付けることなのでまさにさうしたことともならう。

 

だがほんたうの詩人は恋愛などして居らずとも此の世のことを語る其の情熱に満ち溢れて居るのだ。

其れも語る内容が+のことだらうが-のことだらうが関係無く其処で情熱に満ち溢れて居るのだ。

 

 

さうしてイエス・キリストは多分肉欲にはまるで興味が無かったことだらうとさう思はれる。

つまるところ精神的次元を純粋に生きる限りに於ひて肉欲に対する興味は自然と失はれて行くのだ。

 

また釈迦にせよ出家した後は肉欲に対する興味など自然と失はれて行ったことかとさう思はれる。

佛教にせよ初期のサンガー仏教の出家修行者(比丘比丘尼)により形成される組織ーに於ひては厳しく其の肉欲に対する放縦なる様が戒められて居た。

 

 

戒律とは

また後の時代となるに及んでも矢張りと言ふべきか肉欲に関する戒律は常に厳しくある。

在家の信者に於ひても在家の戒としての不邪淫戒が存し要するに不倫や浮気は元よりしてはならぬ訳だ。

しかも不淫戒の場合にはたとへ相手が配偶者でも✖なのだ。

 

また僧侶として受戒する場合には所謂具足戒となり基本的には其処でもしも男女の交はりを行ふと佛教其れ自体から永久追放となる。

さらに大乗戒として兎に角性的な男女関係を持たぬことが淫戒として定められても居やう。

 

 

不淫(ふいん):性行為をしてはならない。ー十戒 (仏教)より

 

兎に角かうして性行為其れ自体を固く戒めて来て居る。

其れは何故か?

 

其れは佛陀の性格だと云ふよりも解脱を前提とする場合の可成に論理的な理由なのではなひかと個人的にはあくまでさう考へる。

佛陀には出家以前にすでに妻子がありしかも父王が彼を引き留めやうとして様々な👩を度々釈迦の元へと派遣して居たやうなのだった。

 

で、釈迦が俗物であるのならばさうした数々の👩共の色香に負け其の肉欲の成就を心より愉しむ筈であらう。

ところが釈迦にもまた元来は潔癖な部分があったのであらう、さうした誘惑には結局屈すること無くやがて世俗の遊興を全て捨て去って行く。

 

 

かように何故キリスト教と佛教に於ひてかうした性に対する潔癖性がかくも長きに亘り守られて来たのであらうか?

ー無論のこと今日では両宗教共に邪淫に対する戒がまるで守られて居なひのやもしれぬのだがとりあへずはいまだ其の戒律はさうして生きて御座る。ー

 

わたくしは其の理由を精神と肉体との関連性の有無に於ひて理解するのである。

即ち人間にとっての性とは精神を通じた上でのもので是非あるべきなのだ。

 

何故か?

 

精神とは通じぬ性即ち肉欲は罪又は無明を生きることにしかならぬからだ。

 

 

さうしてイエス様がかって述べられしやうに淫らな思ひにて他人の妻の身体を舐め回すやうに見る者はすでに姦淫の罪を犯しても居やう。

またさうして毎晩性行為ばかりをして肉欲其れ自体に縛り付けられたりして居ると必ずや地獄へと真っ逆さまに堕ちて行かう。

 

さうだ、性に鈍感な大衆は其のほとんどがまさに地獄に堕ちやうぞ。

地獄に堕ちぬのはかように身の清ひわたくしとかの宮澤 賢治だけだぞよ!

 

だが何故自然として用意されし肉欲をわざわざ精神化するー或る面では抽象化するー必要が御座るのだらうか?

つまるところ其処はもはや人間は動物には戻れぬとさう云ふことなのではあるまひか。

 

即ち人間は動物であってもはや動物には非ず。

逆に言へば抽象的に性を規定して行くことこそが最も人間らしひ性の営みー肉欲の成就ーとなるのである。

 

 

さうして釈迦は数々の👩による誘惑を悉く退けられ成道されたのだった。

其処で佛陀となられし釈迦は性をまた肉欲を全否定されて行かれたのだらうか?

 

いいや、さうでは無ひ。

相対知の抹消を抽象的に為し遂げられし佛陀は其れを成り立たせることだらう根本の分別からもはや離れられて居た。

 

だから其処にたとへ👩が裸になり踊って居てももはやまるで反応せず。

第一心が反応せぬのだからして下半身が反応する筈などあり得ぬのだ。ー其れどころか何せ解脱して居られるのでー

 

 

で、イエス様もまたたとへ👩が裸になり踊って居てももはや反応せず。

第一心が反応せぬのだからして下半身が反応する筈などあり得ぬのだ。ー其れどころか何せ救世主としての事業に邁進されて居られるのでー

 

即ち其の肉欲に反応しなひ男性になることこそが宗教的眞理の實現なのだ。

尚本日わたくしが語りしことは須らく眞實なのだ。

 

だが特に大乗佛法の方では戒律を重視せず或る意味では肉欲だの性に対し無茶苦茶な部分さへもが事實としてあらう。

然し其れが全てだと云ふ訳では無く無論のこと多くの僧侶の方々が基本的な戒をしかと守り生活なさって居ることかと思はれる。

 

またキリスト教にせよ全ての聖職者が性的に堕落して居る訳では無ひことだらう。

 

 

むしろ重要なことは日本の特に佛教系の宗教団体なり伝統宗教の信徒が本来ならば佛教にはかように厳しひ性の上での戒律の存することを知らぬことではなひだらうか。

 

だから何経を學んだりどんな題目を唱へたりと云ふことでは無く本来ならば佛教徒には性的な潔癖さがかうして求められて居やう。

なので佛教徒は海外でもって悪さをして来たりしては金輪際ならぬのだ。

 

何処やらの元校長が確かとんでもなひことを仕出かして居たやうだが良ひ子のみんなは絶対にそんなことをしてはなりませぬ。

なりませぬ、なりませぬ、なりませぬぞ。

 

もう👩など見てもイケません。

見るだけで其れは心の毒です。

 

ちなみに肉欲に反応しなひオカマ男性であっても勿論良ひのではあらうが肉欲に反応するオカマ男性であっては金輪際ダメなのだぞよ。