大日如来様は、しかしながら怖ひぞよ。
さう怖くもあるのだぞよ、ひょっとすれば地球は大日如来様に滅ぼされる可能性が高ひ。
即ち地球の温暖化により文明は滅びる。
其処からしても宗教は結局人間の価値観のあり方に対する反省なのだ。
人間の価値観は其の侭では須らく誤って居やう。
然し世間の人々はまるでさうは思って居なひ。
むしろ自分達が正しひことをして居るとさう信じ込んでも居やう。
其れは人間の社会が常に其のことを信じ込ませるやうに出来て御座るが故にだ。
で、みんなが正しひとさう思ひ込みつつさうして破滅へと追ひ込まれて行かう。
さても常識、其れはとても怖ひことなのでもまたある。
わたくしは其の人間と云ふか社会又は文明を素直に信じる大衆としての気質こそが文明を死滅させるに至る眞の意味でのホシなのではなひかと最近思ひ始めた。
其の気付きの悪ひ点、常に視野が狭く直観どころでは無ひ心のあり方こそが。
佛法で言へば無明にて煩悩にまみれし様のこと、またキリスト教で言へば罪に穢れし様のことだ。
だが今大衆の多くは「じぶんは正しひ」とさう思ひ込んで居る始末なのだ。
まさにむべなるかなだ。
日本政府の社会の危機への対応力が如何にもお粗末だったのはまさに此の通りでのことだったのだらう。
ひとつには國是として危機管理よりも何よりも現世利益即ち経済的利益を優先して居た為危機に対する対応力など其処に望むべくも無かったのだ。
誰もが見せかけの社会的安定に胡坐をかき切って居り自己利益の追求にばかり汲汲として危機など無ひとさう高を括って居た。
が、社会は御褒美を呉れるのでわたくしの場合むしろ其の危機感の無さに対し積極的に尻尾を振ることにもして来て居るのであった。
と言ふよりも何よりも兎に角バランスを取ることが大事なのだ、批判とさうして食欲とでもってして。
サア、美味しひお弁当ですよ。
🐶ワンワン、🐕キャンキャン。
サア、綺麗な💎ですよ。
🐶ワンワンワンワン、🐕キャンキャンキャンキャン。
ちなみにあさくまの弁当はあさくまハンバーグ定食🍱880円+税などを特に御勧めしたひ。
尚此れはガストのデリバリー版のハンバーグ系🍱と値段的にはほぼ同じだらう。
元よりガストの場合にはあさくまよりも一段階味は落ちるのだからズバリお手頃価格弁当の方を御勧めしたひ。
安くて腹も膨れる此の🍱をデリバリーでは無くお持ち帰りにて二つ買ふのが最高だらう。
尚、さう言へばわたくしは駅弁愛好家でもまたあったのだった。
かように文明を批判して居る故か様々なことをつひ忘れて仕舞ふのであるが實は駅弁が大好きなのであった。
但し駅弁は買ひに行くのが面倒なので各々のスーパーにて駅弁大会が開かれた折に其処にて買って来る。
但し駅弁はなかなかいつもは食へぬものだ。
其処がまた良ひのやもしれぬ。
かように駅弁は全国津々浦々に幾らでもある。全国の駅弁 人気ランキング
だがわたくしにとっての駅弁とは松浦商店の駅弁に限られる。
また富山のぶり寿司だけは正月に食す。ぶりのすし
ぶり寿司の方は例のます寿司よりも魚の臭みが無く蕪と合わせてもあるのでとても上品な味なのだ。
よってわたくしの鋭ひ味覚にも合ふ訳だ。
尤も蟹系、イカ系の駅弁も概して好きである。
また肉系の駅弁は概して好きである。
然し問題は、たとへば松阪牛のやうに余りに高価となった駅弁には疑問を感じて仕舞ふ点なのだ。
要するにそんなに良ひ肉を食ひたけりゃ肉だけ食ひに行けば其れで済む話である。
尚霜降りの肉、コレが良ひ肉であるかどうかに就ひては常に疑問を感じて仕舞ふ。
正直むしろ脂切って居て悪ひ肉なのではなひかとさう思ふ。
だからA5ランクだの何だの言って金持ちが松阪でもって松阪牛を食ふのは結局馬鹿のやることではなひかとさう判断するに至った。
ちなみに松阪でもって松阪牛を食った経験はあるが大したものでは無ひステーキだったかすき焼きだかが確か壱萬円程したやうに覚へて居るが其れなどもまことにバカバカしくてお話にならなひ。
いや、確かにかって野並に最高に美味ひ焼き肉店ーおそらくは韓国人の店ーがあり飛騨牛A5ランクの上カルビでもって其れをジュウジュウと焼きさらに絶品のカクテキとキムチを付けて煙濛々の中👪皆で食ったのがこれまでに食ったものの中では一番の食事だった。
が、實はわたくしは本場韓国でも焼き肉をしこたま食って来てもおり、其れも向こうの焼肉は大抵は何処で食っても日本の専門店よりも美味ひのだと言へる。
ー韓国焼肉では、サンチュというサラダの葉っぱ、または、エゴマの葉などに、焼けた肉とサムジャンと呼ばれる味噌ダレ、生のにんにくなどを一緒に挟んで食べます。ー韓国焼肉の美味しい食べ方は?より
韓国焼肉では肉を葉をに巻ひて食べる故日本の焼肉よりは生野菜の消費量が圧倒的に多くなりより健康的な食べ方となる。
またニンニクなども良く使ふのでニンニクが苦手な人にはまるで合はぬのやもしれぬが實はわたくしは其のニンニクこそが大好物なのだ。
何せ元々精力に欠ける方なので精の付く食べ物の方が元来向ひて居るのである。ーちなみに血圧なども少し低めだー
ところが本質的には牛蒡だの山菜が好きな人なのだ。ーで、其の牛蒡と牛肉は何故かとても合ふ訳なのである。ー
兎に角当たり前のことなのだが韓国こそは焼き肉の楽園である。
さて話が飛んだが故にまた駅弁の話へと戻る。
ズバリ此の「なごや」こそが松浦商店の最高傑作だ。
確かに他に松阪牛もあればひつまぶしもまた味噌カツもある訳だがわたくしは是非コレを御勧めしたひ。
何故ならわたくし自身が兎に角今コレを食ひたひからなのだ。
實は母ちゃんも食ひたひとさう常々言うておる。
ところが買ひに行くのが實に面倒臭ひ。
家は市の南東部で、ナゴヤ駅は市の北西部なのだ。
でもって自転車にて行ける範囲にかに本家 八事店もあれば焼肉屋もあれば寿司屋も鰻屋もある。
ーかに本家のお持ち帰りで御勧めなのがかに太巻寿司だ。ー
尚此れは値段が百円上がって仕舞った。
さても其のかに太巻き寿司に関連して大変面白ひことがかってあったものだった。
ちなみにかに本家八事店は興正寺のすぐ際にある。
だから興正寺へ行くと寄って其の太巻き寿司をお持ち帰りする訳だ。
其処で二本の太巻き寿司を頼む。
すると売り子が間違へて三本入った袋をこちらへ寄こした。
正直なわたくしはすぐさま「本数が違ふ」と言ひ一本を返した訳なのだった。
此のやうに心根の清ひ人間は不正を犯すことが出来ぬ。
其の割に石をあちこちの山から盗んで来るがこれまでに其れでもって捕まったことなどは無ひ。ー其れもタダの石なのであるからー
ちなみに酷ひ宝石屋ともなると糸魚川の翡翠峡の近くからかってトラックに積んでデカひヒスイを盗んで来たさうだ。
尚其処から買ったヒスイの原石もわたくしは持って居るのだがまさか其れは盗んで来たものではあるまひ。
其のやうに正直者でもって仏道修行に邁進する我は常に人心の荒廃と人類の滅亡を心配して来ても居る。
其の「なごや」は中学生位の頃から家では始終食して居たものだった。
何故ならずっと母が働ひて居たからなのだった。
母は変はって居て女学校では文學をやり其の後華道の幹部にもなった程で藝術には理解を示す筈なのにまるで俗物でもって労働=社会化=人との交流が大好きな人なのだ。
だがさうした性質の故か家事全般が兎に角嫌ひだ。
兎に角家事をやりたくなひ母が仕事帰りにいつも松浦の🍱を買って来て居た訳だ。
当時は今よりも🍱の種類も少なく、母がいつも買って来るのは「なごや」と「こだま」と「天下とり御膳」の三種であった。
尚、「こだま」は確かに廉価盤なのだが侮れぬ駅弁らしひ美味しさを発揮する。
むしろ昔の駅弁の素朴さを味わひたひ向きにはコレが御勧めだ。
「天下とり御膳」は昔そんな名称ではなかったやうな気がする。
兎に角何でも信長→秀吉→家康による天下取りの軌跡へと結びつけたひ、謂はば過去の栄光の歴史に結びつけたひ自治体の人々がおそらくはそんな風にして仕舞ったことかと思はれる。
また当時「なごや」は「なごや」では無く「ひかり」ではなかったかと思はれる。
「天下とり御膳」とは卵と鶏肉のそぼろが使ってあり要するに親子丼的なものだが記憶によれば此れも結構美味かったものだ。
だが兎に角美味ひのは「ひかり」である。
尚「ひかり」に入って居る焼き魚はわたくしがこれまでに食した魚の中で最も上品で臭みが無く美味ひ。
わたくしは感覚が人とは違ひ敏感なので臭ひ魚が食へぬのだ。
もう魚なんぞを家でもって煮炊きして居たらエラヒことになる。
色んな香草やら柑橘類やらファブリーズやらでもって兎に角消臭をすぐさませぬともうエラヒことになる。
いや、いつも良く使って居るのが實は御線香なのだ。
御線香も鳩居堂鳩居堂 線香のはかうして高ひのでわたくしが使ふものは他社の安物なのだがとりあへずは白檀の香りのものだ。
尚最近食した駅弁の中では元祖かに寿しがまずまず美味かった。
だが蟹は十五年程前に北陸でもって現地で食べたものの味が忘れられぬ。
それにつけても「松浦のみそカツ🍱」だの「松浦の松阪牛焼肉🍱」だのも實に美味さうだ。
ちなみに松浦では駅弁のデリバリーの方もして呉れるのだが市内配達は一万円以上からとなって居りまあ一万分位は二日かければ何とか食へぬものでも無ひことだらう。ー或は無理か?ー
だから其れは早う十万を給付して呉れれば🍱のデリバリーを頼めると云ふのにまだマスクさへもが届ひて居なひ始末である。
まあ結局はかうしたことともなる。
安倍政権は兎に角いまだ我が家にマスク一枚配れぬのだから其処で無能と判断されても仕方が無ひ。
だからと言って関西はいつもワヒワヒ言ふだけでとても國のことなどやれやあしなひ。
関東は関東で言はば保守病にて保守にこそむしろ革新が必要だと云ふことをスッカリ忘れて御座る。
尚我我にはすでにTOYOTAと松浦の🍱があるのでもはや怖ひものなど何も無ひ。
だが地震と温暖化は常に文明にとっての脅威とならう。
其れでは最後にナゴヤの食文化に就ひて発信して置かう。ー誰も発信することが無く屡誤解されて居るやうなのでー
まず、ナゴヤの食文化は非常に多様である。
其れはどういふことかと言へば選択が可能だと云ふことなのだ。
で、カツ。
此れは我我ナゴヤ人が味噌カツばかりを食べて居るかとさう誤解されて居やうが其れは誤りだ。とんかつ好き必見!銀座で食べられる名古屋名物「矢場とん」のみそかつ
カツは實はソースでもって食べることの方が多くー6~7割位の比率でもってーむしろ味噌カツの方が食べる割合は少なひ。
とは言へ確かにスーパーなどへ行けば味噌カツも必ず売られて居るのだがあくまで其れも選択が可能なのだ。
つまり味噌がかけて無ひものも常に選択が可能なのだ。
味噌カツを食す時は串に刺した味噌カツをスーパーにて買って来た場合の方が多く普通のカツの場合はトンカツソースの方を使う方が多ひ。
其の串に刺した赤味噌カツこそが慣れると最高に美味ひものなのだが分からぬ人には其れが生涯分からぬものなのかもしれなひ。
で、かってタモリが馬鹿にしたえびふりゃーに就ひて。
尚エビフラヒは本物の場合兎に角滅茶苦茶に美味ひ。
本物とは三河湾など日本近海で獲れた車エビを用ひたもののことだ。
もう三十年程も前のこととなるが、わたくしは其れを知多半島のとある喫茶店で其れを食し全く驚ろかされたものだった。
松阪牛よりも北陸の蟹より何よりもそちらの方が美味かったと云ふのが本音である。
知多半島の先端の師崎にはかって我が家に下宿して居た御姉さんー家の知り合ひの娘さんーの實家があり小学生だったわたくしと弟は屡其処へ遊びに行ったものだった。
其処は漁師町なのであり、何より其処には海があり船が停泊し魚が獲れるところなのだった。
其の檻に御姉さんが連れて行って呉れたのがとある山の上にあるレストランだった。
其処にて決まってエビフラヒを注文したものだった。
無論のこと其のエビフラヒは知多近海で獲れた立派な車エビのものだ。
其の美味しさはいまだに忘れられぬ程だ。
だから其の数十年後の三十歳位の頃にわざわざ知多へとエビフラヒを食べに行ったのだった。
ところが其の山の上のレストランはすでに閉鎖されて居た。
ちょっとした社会的な事件があり其の開発された地帯一帯が破産して仕舞って居たからだった。
だからこちらへ帰る途中でとある喫茶店でエビフラヒを注文したところ其れがまた生涯忘れられぬ程に美味かったと云ふ訳だ。
なので変なイメージー抽象的なイメージー、また先入観でもって物事を捉へるべきでは無ひ。
エビフラヒの上等なものはハッキリ言ってアノ伊勢海老よりもずっと美味ひ。
ー三重は近ひので何度も行き伊勢海老も屡食したのだったが結局車エビの方がより上等な味だと思ふ。ー
また、味噌。
こちらでは味噌は赤味噌も信州味噌もまた白味噌も全てが選択出来る。
なので味噌汁も其の選択に応じ様々なものとなる。
事實其れは価格も最も高く味わひ深く濃厚だ。
尤も其れを薄めて使へばサラリともする。
一般に豆味噌に慣れた三河や尾張地区はそれをドロドロに濃くし其れこそ味噌汁となしたりカツにかけたりもして居る訳だ。
つまり其れはケチらず味噌をふんだんに使ひ其の高級さを味わって居る訳だ。
東海地方は昔から経済的にも豊かで豊かだったからこそ食文化もまたさうして豊かで居られた訳なのだった。
味噌カツも味噌煮込みうどんも上級編へと移行すればより濃ひ味噌の状態へと移って行く。
無論のことわたくしも其の濃ひ味噌のものの眞の美味さを知って居る訳だ。
ところが北陸の人もまた三重の人も實はさうした意味での謂はばリッチテイスト化させた濃ひ赤味噌の文化が理解出来ずに居る。
で、其の濃ひ味噌汁や味噌カツが苦手だと云ふ人もまた居る訳だ。
ところが其れが實は知らぬだけなのだ。
高級な赤味噌をたっぷり使った最高の料理を何かカン違ひして理解して御座る。
ちなみに味噌煮込みうどんなどは寒ひ冬には最高の食べ物だが此処一年程まだ食べられずに居る。山本屋本店 味噌煮込みうどん
山本屋のは高級品でもって高ひので家ではほとんど食べぬのだがまさにコレぞ其の赤味噌文化としての権化である。
但しわたくしの場合は元々味覚の方が繊細なので京風の薄めの味付けだの🍱だのも實は好むのである。
京漬物の千枚漬け、實はあれが大好物で以前は良く取り寄せ食して居たものだったが何せ高ひので今はスーパーの安物を食して居たりもする。
だから要するに両方が行け、選択の幅が広ひと云ふことなのだ。
其れも考へてみればすぐに分かることで要するに愛知県は関西と関東の丁度中間に位置して居る。
ところが特に戦後は工業圏となり工場労働者が多ひが故に文化的発信力には常に欠けて来て居た。
だから其の選択肢の幅広さのことを誰も言はぬが故に誤解、曲解されることとなったのだった。
さてソウルフードと云ふ言葉があり一面での其の意味に郷土の味、又はおふくろの味と云った意味合ひが其処には含まれて居やう。
ソウルフードは食のグローバル化に対するアンチテーゼなのでもあり其の意味するところこそが多様性であると同時に食に於ける實存的価値と云ふことなのだらう。
實存的価値とはまさにそれでしか無ひ価値のことでたとへば人間は常にひとつの場所での生まれのこと、ひとつの郷土としての生まれのことでしかあり得ず其処で食へる食へぬと云ふことは別にしてまさに其れこそが抽象的には規定され得ぬ具象的現在である食のこと其のものなのだ。
だとすればソウルフードこそがまさに其の具象的現在としての食べ物なのだらう。
かうして食べ物位は是非具象的でもあり得る余地を残して置ひて頂きたひものだ。
だが事實上食べ物もまた何時どうなるか分からぬのが今後の文明としての展開なのだらう。
グローバルに推進される経済や諸価値に信仰を持って仕舞ふと其の合理化への危険度がもはや把握出来なくもならう。
拡張主義は必ずや抽象性をさうして追求していくので何処までも何処までも全ての領域を合理化して行かざるを得ぬことだらう。
其の實存的価値としての具象的現在を顕して居る其の味のことなど實は誰にも奪ひ去ることなど出来ぬ筈だと云ふのに。