目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

『ホモ・デウス』を読み解くー1ー

「人類文明の壮大な歴史物語」であるところでの【まとめと要約】『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』 上巻 ユヴァル・ノア・ハラリ(著) レビュー及び『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』の著者であるユヴァル・ノア・ハラリ氏は此れ等の著作によりまさに現代を代表する知性として一躍世に踊り出たのだと言へやう。

 

尚最も重要な点は彼が歴史學者だと云ふ点にこそある。

 

其の歴史學からの文明への提言であるところこそが極めて重要だ。

さう彼は哲學者でもなければ宗教家なのでも無ひ。

謂わば事実の集積としての歴史過程を専門とする単なる歴史家なのだ。ー歴史=社会科ー

 

尚個人的にハラリ氏の思考はまさにドンピシャリとわたくしには了解される。

 

尤も『サピエンス全史』の方も『ホモ・デウス』の方も一通り読み通しては居るが全く読み込めてなど居なひ。

 

其れでもハッキリと分かるのが、彼の思考はわたくしにとり常に寄り添って居ると云ふことだ。

 

 

言ふまでもなく人間には常に理解し難ひものータイプーとすんなりと受け入れることの可能なタイプとがある。

ハラリ氏の思考の場合はわたくしにとり後者だったと云ふことなのだ。

 

彼の文明論の基調としてはグレーから限りなく黑に近づいていくものであり少なくとも其れは楽観主義では無ひ。

 

むしろ悲観的な解釈が其処には多分に込められて居るのであらう。

 

であるからこそゆえわたくしにも理解がし易ひのだと言へるのやもしれぬ。

 

 

さて其れでは『サピエンス全史』の方はむしろ後回しにして何かと気になる『ホモ・デウス』の方から學んでいくこととしてみやう。

 

おそらくは長丁場でのお勉強とはならうがどうか飽きずに共に學んで頂けたならば幸ひである。

 

 

さてハラリ氏はヴィパッサナー瞑想の実践者でもあるやうでつまりは仏教などにも或は詳しひのやもしれぬ。

 

然し宗教的な教義とは別に瞑想を行ふ人もまた外国人の中には多ひ故其処は決めつけられぬ。

 

 

 

 

ホモデウス図解 神にならうとするサルたちーこの図解を纏められた方に対し尊敬と感謝の念とを捧げますー

 

 

i.人類のこれまでの課題とこれからの課題

 

命題1

 

「人類はこれまで、飢餓、伝染病、戦争の3つに苦しんでいたが、現在ではそれらを克服したと言っていいレベルにまで生活レベルを向上させた。

人類にとって飢餓、疫病、戦争より怖いものとは?」

 

此の部分にも述べられて居るやうに昔人間と云ふものは常に死と隣り合わせにあった訳で、しかも其のことは洋の東西を問わずさうなって居たのであります。

ですので個に於ひても社会的自我に於ひても此の食と病と戦火とに於ける生命の損失をまずは解決しなければならなかった。

どうのこうの言ふよりもまずは其処が解決されて居りませぬと思考も何もあったものではなくまた豊かな生活もあったものでは無ひ。

然し近代以降人間は其れ等の大問題に打ち克って来たとさへ言へるのだらう。

だが其の死への恐怖に於ける全てが今解決されて居る訳では勿論無ひ。

 

新たな伝染病の発生やストレスによる癌の蔓延は今でも我我の命を脅かす難問なのです。

ただし戦争や紛争は次第に限定化されかってのやうに数万人単位で人が死ぬ確率は劇的に低くなった。

ところが現代では其の飢餓の逆に肥満による死が我我先進国の人々を脅かして居たりも致します。

 

要するに其れは保護の行き過ぎ、やり過ぎなのであります。

まさにプラスの方向へと行き過ぎて仕舞って居る。

 

病原菌にせよ結局はさうです。

確かに昔は不衛生でもって致死率の高ひ感染症が蔓延して居りましたがかへって其の方が免疫系にせよ鍛へられて居たのやもしれませぬ。

 

我我還暦世代が子供の頃ガキ共は其の多くが青洟を垂らして居たりも致しましたが其れが存外に皆躰が強く其れこそさうカンタンには病でもって死にやしなひ。

どうも人間には物事ごとに適度なバランスがあるやうに思へてなりません。

 

結局菌も全部は除菌出来ぬ訳なのですし、全ての菌は有害でもって悪ひ、全ては完璧に除菌されて居るべきだなんてたとへ潔癖症のわたくしでも其れはやり過ぎなのではなひかと思ふ。

 

たとへば、「ミトコンドリアは好気性細菌でリケッチアに近いαプロテオバクテリア真核細胞共生することによって獲得されたと考えられている[9]。」とされて居たりもする。ミトコンドリア 起源より

プロテオバクテリアとは其れ即ち細菌です。要するに人間の細胞其のものが其の細菌と共生することにより築き上げられて来ても居る。

 

だから菌や害虫が全部悪ひ訳では無ひ。

癌にせよ一番の原因は矢張り現代社会によるストレスにこそ最大因がありさうです。

 

尚癌になったら一切の治療を拒否して医者へは行くなと言って居られる医者さへもが居られる。

 

近藤  誠 

但し此の方の意見は一種極端です。

其れこそ医療否定の辺りまで行って仕舞ひますからまさに極端です。

 

ちなみにわたくしは薬の力をむしろ信頼して居ります。

若き頃に製薬会社に居たこともありましたのですし、薬と云ふものは用法と用量を適切に管理すれば全く素晴らしひものです。

 

身体が元々弱ひ人は薬のお世話になることもまた多ひのですから自らに必要な薬を日々有り難く服して居ることかと思ふ。

然し医師や薬に頼り切りになるのもまさに考へものです。

 

まずは自分自身が病気には罹らぬやうに強ひ肉体となることを目指さなくてはならなひ。

其れでも急性の症状の場合には即医療のお世話になる必要があらう。

 

勿論そんな時には文明がどうのこうのなどと云ふ屁理屈など述べては居られません。

かようにかっての人類にとり喫緊の課題であった、飢餓、疫病、戦争により齎される死への恐怖などはとりあへず取り除かれた形となって居る。

明らかに其れは近代的な力による現実的な恐怖からの解放でもまたある。

 

其の力をわたくしは大ひに認めて居ります。

かってならば若くして死んで居たやうな人間がむしろ長生き出来るやうにもなりました。

ひょっとすればわたくしなどもそんなタイプの人間だったのかもしれません。

 

故にこと此の飢饉や疫病への恐怖に関しては完全にでは無ひにせよ取り除かれたと見ることさへもが可能なのだ。

また其れは近代以降の価値が成し遂げた人間の社会への最大の貢献でもあったことでせう。

 

其ればかりか戦争や暴力に関してもむしろかってよりは大幅に減って居やう。

さう其れは無くなりはしなひが大幅に減ったのだ。

 

 

其の一方で「砂糖、老衰、自殺」が怖ひものとして此処に挙げられて居る。

砂糖、老衰、自殺は、謂わば人間が飢餓、疫病、戦争により齎される死への恐怖を克服したことにより齎されし新たなる苦の領域だ。

 

尚此処ですぐに気付くものと思われるが、砂糖ー飽食ーは飢餓ー欠食ーの対概念であり、老衰ー長生きーは疫病ー早死にーの対概念であり、また自殺ー自決ーは戦争ー社会的自決ーの対概念である。

即ち文明は飢餓、疫病、戦争により齎される死への恐怖を克服したことでむしろ其れと対義的な領域での悩みを獲得するに至った。

 

即ち肥満も長生きも自決も皆死への恐怖を内包する形でのかっての対極としての人間の悩みである。

かように近代的な価値は前近代的には恐怖であったものを葬り去ったが前近代には恐怖とは呼べなかったものを新たに肥大化させて仕舞ふ。

 

個人的には其の価値の選択は最終的に個に委ねられて居るものと思ふ。

但しまずは歴史を學ぶだけの人文としての理性の力が無ければ個による選択も何も無ひ。

 

其処で此のやうな形で社会ー文明ーを歴史過程として見詰め選択の方向性を自ら模索していくべきだ。

ハラリ氏の歴史家としての業績はまさに其処にこそ存して居るのではなひか。

人類史、文明史としての世界的なベストセラー本を書くことで歴史家としての知性が大衆へと働きかけ、其処で自主的に選択するに足る素材を我我に供して呉れて居ることだらう。

 

 

 

命題2

 

『そもそも人類がこれまで、飢餓、伝染病、戦争の3つの克服に力を注いできたのは、「人間至上主義、人間、人間の生命こそが至高であるという考え 」を実現するために他ならない。
人類にとって飢餓、疫病、戦争は人間至上主義を実現する上で、最大の障害だった。』

 

其の人間至上主義はかって人間中心主義などとも言われポスト・モダン系の思想から屡批判されても居りました。

 

「自然環境は人間によって利用されるために存在するという信念のことである。」

『このように、「人間は自然を支配することを神から許されている」と信じてきたユダヤキリスト教が文明を築く中で、自然破壊が進んできた[要出典][3]。』人間中心主義より

 

 

確かに此の人間中心の価値観には大きな問題が孕まれて居ることでせう。

尚此れは人間が偉ひかどうかと云ふ事を決めるまさに其の折での立ち位置を決めることでもある。

 

ちなみに東洋では結果的に此の立場が成り立たなかった。

何故ならば其処では自然其れ自体が神であったからだ。

 

 

自然其れ自体が神である価値観とは其れ即ちアニミズムのことですね。

 

『タイラーはアニミズムを「霊的存在への信仰」とし、宗教的なるものの最小限の定義とした。』

「霊的存在が肉体物体を支配するという精神観、霊魂観(日本で言えば「依り代」に近い観念)は、世界的に広く宗教習俗の中で一般に存在している。」アニミズムより

 

より原初的な世界観にはより分離度の低ひ観念的世界ー抽象概念ーが拡がる、と云ふのがわたくしの持論です。

価値としての話で言へば、まさにバカバカしひ現代の価値=抽象的価値により実質との乖離がある=抽象度の高ひ価値とは人間の精神にとり負担をかけるもの。

 

対する「霊的存在への信仰」観では其の逆に抽象度が低い、即ちより抑へられて居る。

なので精神的にはむしろ負担は少なひ、まさに神に縛られて居るやうで居て縛られては居らずむしろ楽だ。

 

其の信仰とは或は宗教的な自我とは、元来人間に完全性ー全体性ーが備わらぬ故に必然的に齎される領域です。

故に宗教は人間にとって必然としての精神的過程のことだ。

 

人間であり其れが増へた=社会化された時点で必ずや其処に宗教は生ずると云ふことです。

ホモ・サピエンスネアンデルタール人に対し進化上優位に立てたのはホモ・サピエンスにより集団化ー社会化、組織化ーする力があり宗教に対し自覚的であったからだとされて居る。

 

但しより理性があったかどうかは分かりません。

ネアンデルタール人の方がより優れた知力を持って居たと云ふ説もまた御座ります。

 

生命としての全体性の回復、其のことの精神的希求としての宗教観はしかしながら矛盾致します。

ズバリ言って宗教とは其の矛盾其のもののことです。

 

何故なら宗教は理性抜きに語ることが出来ぬが其の本質を規定する力とは常に信仰です。

ところが信仰には必ずしも理性が必要とされて居る訳では御座りませぬ。

 

ではあっても、其処で宗教が悪く対する合理性のみが偉ひ、と云ふことにもなりませぬ。

何故なら宗教的自我はむしろ社会的に矛盾を最小限に抑へる働きを致します。

 

 

宗教とは其のバカバカしひ価値=抽象的価値に於ける根本のもので其れもアニミズムの場合其れがより原初的なもの、よりピュアーなものとなって居ります。

故に「より原初的な世界観にはより分離度の低ひ観念的世界ー抽象概念ーが拡がる」のであります。

 

つまりは観念的欲望を追求し始める以前での価値観に其れは留まって居る。

だから自然とも仲がよろしひのであります。

 

仲が良ひと云ふよりも自然自体が神であり其れは冒さざるべき対象だ。

其処ではむしろ人間よりも自然の方が上位にありませう。

 

自然こそが神なのですから、我我人間は其の恩恵に感謝し常に敬って居ります。

其の前にひれ伏して皆で常に祈るのです。まさに自然と云ふ神を。

 

嗚呼、どうか今年もこれまでと同じやうに人間に自然の恵みをお与へ下され。

かうして崇めて居りますのでどうかどうか黙って我等を見守り大災害が齎されることの無きやう其のお怒りを御鎮め下され。

 

 

animismとは結局さうした精神的な意味での世界観を指して言ふ言葉です。

 

まさに其れは現代の価値観、其れも文明推進となる価値観とは正反対の価値観なのだと申せませう。

其れも信仰と理性と云ふ対立軸で捉へれば其の対立自体がより小規模=限定的で要するに矛盾が少なひことだらう。

 

キリスト教が先進のものというヨーロッパの視点から、アニミズムはかつて原始的な未開社会のものであると考えられた。」アニミズムより

但し此の部分は大きく問題を生じて来て居る。

 

キリスト教は先進のものでもなくしかも人類救済の為の普遍的宗教でもなくむしろ限定的な宗教でせう。

より普遍的なのはむしろ仏教ー釈迦の仏教ーの方かと思われる。

ただしイエス・キリストの教へに限れば確かに普遍的な真理を対象とするものでもまたある。

 

アニミズムが未開のものであると云ふ其の価値判断には結局自己が一番優れて居ると云ふ思ひ上がりが含まれて居り即ち自己決断的ー自我による決定ーであり其処では逆に矛盾を最大化していく方向へと舵を取って居るのだと言へる。

 

 

『「自然への崇拝」ではなく、「自然」という概念ができる以前の崇拝形態である。』自然崇拝より

「別の用法として、現代の実践家は paganism を不信心に限らず、多神教汎神教の意味で、しばしば、自然を基盤にした宗教行為を指して用いることがある。」ネオペイガニズムより

 

其のペイガニズムにせよネオペイガニズムにせよ、即ち汎神論的な世界観への蔑視や其の差別への疑問としての傾倒にせよ其れはあくまで一神教としての世界観=より観念的な宗教観を前提とする場合に対義として認められる概念へのプラスとマイナスの側面であるに過ぎぬ。

 

其のやうな相対的な反応であるに過ぎぬので勿論其れが即宗教の優劣を規定する判断基準ともなり得なひ。

わたくし自身の考へとしては宗教もまた対義的に構築されやがては対立を引き起こすものなのでむしろ宗教の側から自主的に相対化することで対立を縮小化、限定的にしていくことこそが大事。

 

あらゆる概念は相対化されて居るにも関わらず其処でもって人間は絶対を追求して仕舞ふ。

まさに其のことが宗教対立の悲劇を生むこととならうから逆に限定的に捉へることこそが大事だ。

 

元より神仏は常に絶対化され得なければならぬものでさうでなければ勿論信仰心など生じはしなひ。

であるからこそゆえに宗教には限定的な要素がまた必要なのだ。

 

其の限定性が個に必要であると云ふ以前に宗教と云ふ社会的自我にこそ其の認識が必要なのだ。

往往にして宗教はそれぞれが普遍的でかつ絶対であることを望む。

 

だが宗教の上でまた思想の上での本質的な優劣などは無く全ては言語世界ー概念世界ーが描く相対的価値判断に委ねられて居る。

逆に言へば其の相対的価値判断をせざるを得ぬ時代こそが近代以降、特に現代社会が成立させたところでの現代的な尺度による世界観なのだ。

 

 

人間至上主義とはまさしく人間の生を最大限に持ち上げたものであらう。

特に廿世紀に至り人間の生は神の生とも見紛ふばかりに輝かしひものとなった。

特に先進国に於ひて人権は確立され個としての人間の命はかけがへのなひものとして認識されるに至る。

 

「生命に対する権利は人間にとっての根本的な価値」

 

其のことは確かに分かる。

誰もがじぶんの生を最大限に持ち上げて置きたひ。

 

但し其の根本の価値の領域でこそむしろバランスが求められて居るのではなひか。

バランスとはやり過ぎなひことであり自制の価値である。

 

そんな風に自制心の無ひところにバランスなど生まれずよってじぶんの生を最大限に持ち上げて置くことなど出来はしなひことだらう。

さう高めやうとするとむしろ低められやう。

 

威張るとむしろ常にヘコヘコしなければならなくもならう。

たとへ「生命に対する権利は人間にとっての根本的な価値」であれ其れを至上の命題のやうにして奉って居るだけではいけなひ。

 

かうして全体を観じて物事の価値を判断する為に逆のことを見詰めていく作業こそが真の意味での理性の働きだらう。