目覚めよ!

文明批判と心の探求と

文學や藝術の力は矢張り偉大だった。



実在または実体というものは、実は言葉による規定そのものを超越して仕舞って居る為概念では捉えようがない、つまり本質的には捉えようのないものなのではありましょうが、其れでも人間存在の性からすれば、実在そのものを捉えられないまでも其の属性位までは何とか捉えられるのではないか、という希望的観測によってこれまで様々な哲学者が其の実体の意味を探って来て居るのです。


たとえばかのプラトーンは現象界に根拠を与える世界としてのイデアというものを考えた。ゆえに其処では真に存在する実体とは理性によって捉えられるイデアのみであるとされた。

ただし他の感覚のようなものはあくまで生成変化する現象であるに過ぎない訳です。


またかのアリストテレースは普遍的実体を第二実体として捉え最終的には質料と対比される形相を第一の実体であると考えた。


デカルトに於いては所謂心身二元論を展開し物体と精神は有限実体であるとした。そして物質という実体は属性として延長を持ち様態として位置や運動等を持ち、対して精神という実体は属性として思惟を持ち様態として感情や表象等を持つともした。



またあのスピノザなどは神をおいて実体はないと考えて居ました。また心身平行論を唱え精神と物体は同一の実体の異なる属性における表現であるともして居ます。

ヘーゲルは実体とは絶対知へと自己展開する精神であり、ゆえに主体として考えるべきだとした。現実に存在するものは合理的であり、その相互対立の弁証法によってますます絶対知の完成へと自己展開していくともした。その意味で実体は対立を乗り越えて完成へと向かう主体なのである。


尚、合理思想の祖であるデカルト心身二元論ヘーゲル弁証法は余りに人間中心主義でもってまさに今考えれば極めて危ない類の思想ですね。

実際近代を推進させて来たこの二柱の考えが再生不能な自然破壊や物質的な享楽主義に繋がっていったであろう可能性は高い。


ですが人間は本来もっと謙虚なものであるべきだったのでしょう。

この中で言えばスピノザのように是非考えておくべきでした。

プラトーンの考えも矢張り精神の自立性のようなものに、其の自立性を貫く為の理性に重きを置くという点でどうも合理精神の走りのようにも見えますね。



ちなみに私が屡語って居る精神の自立性とはそうした能動的な自立性のことではなく、近代の思想による洗脳からの脱出という意味での受動的な意味での精神の自立性のことを指して云って居ります。



Wikipedia-実体二元論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E4%BD%93%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96


ここを読んでみると非常に興味深く面白いです。


ここにもあるように件のデカルトの二元論は今日ではほぼ否定されて来て居るようです。


またここにも全体論という言葉が出て来ますがまさに其の全体論的な解釈がポスト近代の時代には求められて来て居るのです。

デカルトから発した機械論的な認識こそが近代という分析型の時代を作り上げ自然を切り刻んで人間にとって有用と思われるものだけを生み出して来たのです。


然し其の発想こそは器が小さい。

宇宙へ行ける位に大きいだろうがと言われるかもしれませんが其の発想こそが実は小さい。


ですからわたくしが何度も語って来て居りますように、大きいものとは実は小さく見え、小さいものの方が大きく見えて仕舞い易いのです。

其れはそも人間の認識が天邪鬼で見るべきものを見ず語るべきことを語らず表面上の感受の世界に捉われて仕舞って居るからなのです。



だから上のところでも一番地味でクソ面白くも無いスピノザの考えなどが一番よろしいのです。


それから、大抵の場合地味な人間の方が真面目で本質を問うていく部分があり其処が一面では信頼出来ます。

対して根っからの営業マンみたいな人も居ますがそういうのはその場だけ盛り上げるのが上手ですがとても信頼など出来ませんね。


かってー昭和の頃ーはむしろこうした人物評が一般的だったように思われるのですが昨今は逆になって仕舞って居るようでとても残念です。


尚、「唯脳論を超える近年の諸見解」という部分は矢張り非常に興味深く面白いことが書かれて居ます。



即ち死後の世界の存在であるとか、物理世界とは別の空間に意識の要素が存在するだとか、意識は何らかの量子過程から生じてくるであるとか、こういうのがむしろ最新の科学的見解でもある訳です。


もっとも逆に脳が死に至るまでを規定して居るという考え方もある訳です。


然し全体論的な発想からしても物理法則のみが現象界を規定し得る可能性は逆に低くなるのかもしれません。



さて私の存在論によれば現象化するということはお化けであるということです。


物であれ人であれ動植物であれ、存在化するものは等しく瑕疵性、負債を担いゆえに其れ等は皆お化けです。


従って我々は皆お化けです。本当は。

認識の方が天邪鬼で真相が見えて居ない為自分はお化けではないとそう思い込んで居るだけで本当は我々は一人残らず皆お化けです。


だからお化け屋敷などへいく必要などない。

ここ自体がお化け屋敷ですので、毎日がもう全部お化け屋敷のことばかりです。


この地球上にドロドロドローンと化けて出て来て居るのは何を隠そうこの我々一人一人のことなのです。

さてもお化けとお化けがくっついただのどうしただのと全く気持ちのお悪いことで。



そんな訳で最近私は人を人としてさえ見て居りませんので何言うか分かりませんが其処はあしからず。


尚、現象界に於ける霊の世界というものは、其れは基本的に在っても無くても良いものですがあえて在るものであるとするならば、おそらく其れは一桁位エネルギーが低いもののことでしょう。

物理的な存在に比べると其の位のパワーしか持ち得ないものであると私にはそう感じられて居ます。


逆に云えばこうして存在化して色々と悪さを行って居るだろう我々の倒錯エネルギー、煩悩エネルギーの確実さとは其れはもう大したものなのです。

其の本能力のあくどさ、迷いの深さ、罪深さ、とはもう本当に全宇宙的に誇れる程のものです。


其の位の根強いあくどさを持って居るのが我々人類で、自然界というのは如何に弱肉強食だろうが何だろうが悉く静謐で精緻である種地味なシステムです。

ですが口八丁手八丁であるやり手の営業マンの人類は煩いし下品だし兎に角鬱陶しいのでもう付き合って居られませんのですわ。


疎外論と幻想論[編集]

日本の思想家吉本隆明は、観念論や唯物論の対立を乗り越えるために、疎外論を用いた心身二元論を展開している。疎外とは、そこから派生するがそこには還元されないと言う意味である。意識は身体がないと発生しないが、脳のような身体の部分部分には還元できない。生命体の身体は、機械のように要素や各部分に分解して、また組み立てなおすことはできない。分解したら死んでしまい、意識は消え、生命体ではなくなってしまうからである。要素性ではなく、身体的な全体性こそが生命現象や意識の本質なのである。よって、身体と精神は相対的に自立していると考えている。霊魂や生命エネルギー(フロイトの概念でいうエス)は、デカルトの二元論のように大脳や松果腺のような部分や器官に集中して偏在しているのではなく、生物のすべての細胞にまんべんなく存在するものである。だから脳死しても他の器官が活動し続けると言う現象も起こるのであり、死とは瞬間的な現象ではなく、すべての細胞が死滅するまでの段階的な過程なのである。
意識と身体は、炎とロウソクの関係に似ている。ロウソク(燃える物)が存在しないと炎は生まれないが、炎という燃焼現象はロウソクには還元されない。よって、いくらロウソクを調べたところで炎という燃焼現象の本質は理解されない。炎はロウソクから疎外された現象なのである。
吉本は、すべての生命体を〈原生的疎外〉と呼び、自然から疎外されたものあるから、自然科学的には心的現象やエスは観察できないと述べている。エスや心的現象とはもともと物質ではないのである。しかし、自然科学的に観察できないからと言って、存在しないわけではないし、オカルト的なものでもない。文学や芸術が自然科学的に説明できないにもかかわらず、確実に存在するのと同じである。心身二元論を自然科学者が否定するのは当然であり、エスや心的現象はもともと自然科学的カテゴリーではないからである。物理的現象ではないために、因果的閉鎖性など最初から考える必要がないのである。脳の動きが物理的な作用によらずに動き始めたら超能力だと言うが、生命とはもともとそういうものであり、無生物がなにも物理的な力を加えずに動き始めたら確かに超能力だが、生命体が自分の意思で自分自身の身体を動かす分にはなんの矛盾も問題もない。自分の意思で自分の身体を動かすことができるから生物なのである。
心的現象とは自然科学的に〈観察〉するのではなく、文学や芸術のように人文科学的に〈了解〉することによって始めて出現するのである。吉本は心的現象とは〈幻想〉であり、自然科学では取り扱えないために、幻想は幻想として取り扱わなくてはならないと指摘している。脳科学や神経学の発達で、知覚の問題は説明できるかもしれないが、人間の持つ感想、解釈、意味付与、価値観、審美眼の問題は説明できないのと同じである。[要出典]

Wikipedia-実体二元論より抜粋して引用


なる程、あの吉本 隆明氏がこういうことを云われて居たのですね。


「要素性ではなく、身体的な全体性こそが生命現象や意識の本質なのである。」

霊魂や生命エネルギーは、、生物のすべての細胞にまんべんなく存在するものである。

〈原生的疎外〉

物理的現象ではないために、因果的閉鎖性など最初から考える必要がないのである

心的現象とは自然科学的に〈観察〉するのではなく、文学や芸術のように人文科学的に〈了解〉することによって始めて出現するのである。

心的現象とは〈幻想〉であり、自然科学では取り扱えないために、幻想は幻想として取り扱わなくてはならないと指摘している。



うーむ、お見事、の一言です。

確かに其の全体性こそが生命現象の本質なのでしょう。

ところで其の生命エネルギーというものは我々一人一人が明らかに感じることが出来るものです。

物凄くこれが強い人もあれば、非常に弱く感じられる人も居られますね。


そういうのは分析型の数値、たとえば検診の時の数値などでは表せないものである。


でも
生命エネルギーが弱そうに見える奴でも文才のある奴なども居る訳ですね。

あのどちらかと言えば控えめな感じの芸人の又吉氏のように、芥川賞を取っちゃう人だって居る訳だ。

ーちなみに私は前々から彼が好きだったのだ。ー



この〈原生的疎外〉という概念もまた凄いものです。

すべての生命体は元々自然から疎外されたものであり心的現象は自然科学的には観察出来ないが其れは幻想として確実に存在し
〈了解〉することによって始めて出現する。

ということですか。


このすべての、というところがまず凄い捉え方です。

人間以外の、もっと自己矛盾領域の少ない生命についてもあくまで自然からは疎外された存在であると吉本氏は捉えられて居たのでしょう。

つまり存在とは、生命存在とは其の様な自己矛盾領域に生きるもののことを云います。


だから人間以外の動植物もまさに其の
〈原生的疎外〉の範囲内で生きて居ることになりましょう。


だから其の
〈原生的疎外〉の領域では物理的現象ではないものが必然的に発現し其れが心的現象であり其れは唯物論乃至は機械論的認識からすれば幻想領域のこととなる訳だ。

ところが幻想である其の
心的現象こそが生命体を生命体として成り立たせて居るであろう不可避の負債であり自己矛盾性である。


其の不可避の負債は
〈了解〉なくして出現し得ない。

自然科学だけでは捉えなれないものも、人文科学の力でもって初めて捉えられるとそう仰って居るのでしょう。

 
と云うことは人文科学なくして生命現象を語れないということにもなりましょう。
 

ここからも文學や藝術の力は矢張り偉大だったのでした。