目覚めよ!

文明批判と心の探求と

社会と闘うー爺ちゃん、どうかお助け下さいー


以前にも申しましたが此処を覘いて下さって居るのは九割方六十代のしかも男性の方々です。

まあ謂わば社会での現役生活を引退された方々がほとんどでせう。

それもおそらくは60歳から65歳位までの方々が多いことでせう。

でも団塊の世代がもしもインターネットをされているのだとしたら或は70歳位までの方でも視て頂いて居るのやもしれぬ。


最近は何故か二十代の方々にも視て頂いて居りますが其れは此処が意外と刺激の強い滅亡ブログですので或は其の内容にビックリされ訪れて下さるのかもしれない。


然し正直申しまして今の二十代の方々の感覚はまるで分かりません。

尤も三十代の方々の感覚もまるで分かりません。

四十代でも怪しいのだが、五十代となると流石に皆同じやうことをやって来て居るので其処は分かります。

が、厳密には55歳~65歳位の方々とならより時代意識と云うか思ひ出と云うかさうしたものが共有される筈です。



元よりわたくしは妙に爺臭い人間なのでおそらくは年寄りの方々の方が話は合い易い。

其れは時代感覚が読書の影響によりズレて仕舞って居るからです。


どだい青年時代にあれ程純文學が好きだったわたくしですので、其れこそ其処で文豪の世界、其の時代に培われし精神をもう嫌と云う程読み込んで参りましたので逆にほんたうは九十歳位の精神であり感性なんです。

つまり精神的、感覚的に団塊の世代が年下であるかのやうにさへ思へて仕舞ふのです。



さらに好きな哲學者がまた大昔の人々ばかりだ。

さういうのに日常的に浸り切って居りますのですでに頭の中が二百歳程も年を取って御座る。



だから団塊の世代以上に今の此の世の中が理解出来なひ。

全く理解に苦しむことばかりだ。


だから此の際わたくしを二百歳と云う事にして置いて頂きたひ。

実は読書により精神年齢が其処までカサ上げされて仕舞った。


其の二百歳の爺が言う事は君等凡俗の民の考へて居る事とはまるで違ふ。

現代人の考へて居る事とはもうまるで違ふのだ。

だから君等はわたくしに現代の常識を期待してはいけなひ。



実はわたくしはカントでありショーペンハウアーでありかつマラルメでありヴェルレエヌなんだ。

だからもうとっくの昔に死んじまった人ばかりだ。

そればかりか最近分かったのは其処にかの荀子も入って居たと云う事だった。


すると其処に中国数千年の知恵も加わり必然的にさらに精神年齢はカサ上げされ多分五百歳位にはなっておる。

しかもさらに其処に釈迦とキリストの智慧の年齢も加算されて御座った!

そんなジジイは何処にも居らずまさに孤高の爺、まさに精神の巨人としての孤独な道を何故かトボトボと独り歩いてゆく他御座らぬ。




嗚呼、世の中は移り変わった。

其れもまさに毒々しく変わっていった。

かのショーペンハウアーは女を貶し、またかのルソーは女まみれになりつつも近代を切り拓き、さらに其の後に科学の毒花が花開き、資本主義は資本主義で大欲望を解放し、さうしてヤバいことに実にヤバいことにキリスト教が徐々におかしくなっていく。



其れは何故だ?

何故さうなる?

必然なのか其れとも偶然の産物なのか?


いや、其れはどうも必然である。

此の世界はどうも必然の世界である。

左様に今わたくしは運命を信じる、其の決定論のやうなものを信ずるに至った。決定論



道徳と決定論/非決定論[編集]

しばしば、決定論自由意志を否定するがゆえに道徳と両立しないと言われる。これは、かつては決定論者と非決定論者との最大の争点のひとつであったが、現在では過大評価とする傾向が強い。その理由として、
  1. 誰かが道徳的に思考することあるいは自由意志があるかのように振舞うことも決定論によれば既に決定しており、これらの行為そのものの存在が否定されるわけではない。つまり、人が世界の解釈にではなくその現象にのみ着目するならば、決定論的世界と非決定論的世界とは同一でありえること
  2. 道徳の根拠が必ずしも自由意志であるとは限らないこと
などが挙げられている。
なお、哲学の領域では、カントが、純粋理性の力学的二律背反で、現象における必然性を、当為における自由による原因性と両立するものとして捉えている。

自然科学と決定論[編集]

近代科学においては、物理学者であり決定論者でもあったピエール=シモン・ラプラスは、もし宇宙の全ての原子運動および位置が分かるならば未来は完全に予測できると主張した(ラプラスの悪魔)。
しかしその後、「宇宙の全ての原子運動および位置が分かる」可能性は、現在ではハイゼンベルク不確定性原理によって否定された。このことは、量子力学観測問題と直接的に関わってくる問題であるが、現在の量子力学の標準的な解釈であるコペンハーゲン解釈の登場により、決定論の証明は難しくなった。  しかし、アインシュタインは「神はサイコロをふらない」と言い、自ら創設者の一人となったはずの量子力学の標準解釈を否定し、決定論を擁護しようとした。そしてアインシュタインは思考実験「標準解釈のパラドックス」を提示することで反論しようとした。だが、実際に実験を行ってみると、それは現実に起きている現象であることがわかり、彼のもくろみは失敗した。
ただし、スティーヴン・ホーキング を含む一部の物理学者は、決定論的であるとされることもある多世界解釈を支持しており、自然科学者の間でも見解は一致していない。以上より引用



其の自由意志に関しては様々な論点があらうことかと思われるがとりあへず現時点でのわたくしの考へ方は以下である。


まず、人間には世界と交わるかそれとも世界を放棄するかと云う選択を行ふ上での理性的自由の領域が常に存在する。

其の理性的自由と、本能的自由=盲目なる生への意志とは質的に違ふ。

理性的な意味での自由だけが真の意味での自由な意志である。

対して本能的自由領域に於ける自由意志の発現を真の意味での自由意志とは呼べない。


だから自由意志が成立する根拠を持つ精神の領域に於いてはたとへ決定論ではあっても自由意志が成立する。

然し其の自由意志もあくまで限度内のものに限られると云う意味に於いて世界は決定的に現象されざるを得ない。

なのであくまで因果律は厳密に此の世を支配して居る。


即ち限定を解除されたところでの自由な人間の意志など存立し得ぬ。

尚其の限定の意味に就いてだが、もしも人間がこのまま野放図に科学技術の進歩を希求し続け地球並びに宇宙が破壊され尽くすに及んだにせよあくまで其れは決定された事象であり自由意志に基づく人間の行為そのものではない。

ただし以前に述べたやうに個としての心的領域の質を変えることで縁起する世界が其の都度変わり得る。

其の変化の幅は然し矢張り予め想定されたー物自体としてーものであり従って心的現象そのものの質が変えられた訳では無く其処に予め用意されて居た個としての心性の範囲内で質的にシフトされたものであるに過ぎない。



かようにわたくしは今決定論の立場を取る。

平たく言えば限定主義者だと云う事だ。


確かに量子力学に於いては其の決定論が否定され得るのだがかのアインシュタインはむしろ決定論の擁護者でありまた上記の如くに多世界解釈を前提とする限りに於いては決定論が成立し得る。

即ち世界が同時進行的に多義多様であれば変化の多様=自由意志もまた其処で説明し得る。

或いは心的現象のシフトに於いても其の心境の変化により境涯の決定が為され刻々と世界を移り変わって居るとも考えられる。



さらに平たく言えばわたくしは今運命を信ずると云う事だ。

信ずると云うよりも所詮はみな運命なのである。

つまるところわたくしは生命現象が創造的な何かであるとは捉えて居ない。

確かに藝術は常に創造的だが所詮は其れも限定の範囲を離れる程に自由なものではあり得ない。


ただし藝術作品は其処に独自の命を与えられ時間を超越することは出来やう。

然したとへば子孫を残すことであっても時間を超越することは出来る。




それでは社会はどうなのだらう。

社会は逆により大きく決定論と云うか運命と云うかさうした限定性に規定されて居るものだ。

個よりもより厳密に其の限定性に規定されて居るのだ。


だから社会はより強固に決定論の領域を常に泳がされて来ても居るのだ。




さて自由意志と道徳の問題であるが、道徳とは理性的規定であると云う前提に立つ限り道徳を成立させ得るのは人間に限ると考えられるが現実には決してさうではない。

自然界に於いて特に哺乳類の行動に於いて屡道徳的としか呼べぬやうな行為が認められることが近年多数の例でもって分かって来ても居る。


其処からしても自由意志=道徳的価値の実現と云う考え方には其の寄って立つ根拠がそも失われつつある。

むしろ其の動物と人間に於ける落差の解消の部分が21世紀に入り分かって来たことだ。


つまり人間は特別な存在で神に近い訳では無くむしろ動物の方が神に近い存在なのかもしれず要するに其処で人間様だと威張るな!と云う事なのだ。

元より誤って威張り続けて来た人類程バカな者はない。

最初から他にはこんなバカは居ない。



尚其のバカであるが、実は60歳以上の方々に是非お尋ねしたいことがあるのです。

皆様はネットユーザーなのですから、例の自画撮りのことをご存知でしょう。

これ、キチ外の世界ですよ、まさにキチガヒ。

ネットに氾濫するエロ動画と並んでさらにキチ外なのがまさに此の自画撮り投稿動画の世界です。


でもわたくしはこんなバカらしいもの、汚らわしいものに接して居るだけで其の穢れが身にふりかかる故あへて細かくは述べません。

でも以前此のことを是非書こうと思ひ高層ビルにぶら下がり懸垂だか何かして居るうちに落ちて死んだ青年の動画と云うものを一応確認しては居ります。





かやうに現代人の心性はすでに破壊の域に達して来て居ります。

此処に垣間見える自己顕示欲とそして日本の女子学生の股の締まりの悪さに於いてすでに異常を通り越して悪魔の領域に入りつつある訳だ。


で、其の悪を成り立たせて居る原因は畢竟其れは合理主義へと還元され得ます。

謂わば精神領域の合理化が其の過剰な自己顕示欲と女の性のあり方のふしだら化を進めて居るのです。



ですので、其れをアナタ方年長の方々に対し示しご相談申し上げて居るのです。

と云ってもアナタ方も迷惑な話でせうが我我現在の管理職はもはや現状に対し如何ともし難くまさに匙を投げて居る状態にある、まさにそんな危機的な状況にあると云う事を述べることしか出来ず要するに泣きついて居ります。


しかもさういうのは五十代以下、或いは四十代以下の人間にはと云うか現役としての社会には決して分からぬことだらうと思ひます。


要するに社会が狂って居るので人間も狂わざるを得なひ。


ですのでまだしも純文學の方に頭をやられて自滅する方がまともなんです。

またわたくしのやうに自分は利口だ4番バッターだと異常な自己顕示欲のやうにも一見見えましょうが実は其れは明らかに昭和の頃のタイプでの自己顕示欲です。



でももはやさういうのとは違うんだ!

一体何がどう違うんだ?

つまりは合理化が進んだ。

どうも精神領域への合理化が二千年以降は物凄いスピードで進んで居るやうです。



いやね、ほんたうはね、お孫さんが居られる爺ちゃん、婆ちゃんでもあるアナタ方にこんなことを言いたくはないんだ。

だがほんたうに人類は滅亡するのではないだらうか、まさにそのうちに其れも知らず知らずのうちに。


なので時代に反抗する形での純文學講座をやりたひところですね、是非文學をまた学び直してみたひ。

いや、でも其の前に矢張りと云うべきか詩の方へ行くしかないでせう。

何故なら秋になると決まって自称の詩人も何故かほんたうの詩人になって仕舞ふのだから。