目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

内面と闘うーⅠー


元より宗教が何の為に存在するのかと云えば其れは人間の邪な心を治す為にこそある。

尤も以前に社会を直す為にあるなどとも申しましたが矢張りと云うべきか最終的には其れは人間の心に向き合って居る。


人間の心は邪で元々何ともならないものだ。

とさう捉へることの出来る人は常に少なく、ほとんどの人は自分だけはさうではないとさう思って居やう。

でもだからこそダメなんだ。

まずは自分を疑い反省するのだ。



第一国家こそは組織で動く。

会社も町内会も家庭も皆其の組織として動く。

つまるところ人間関係とは其の社会性が齎すものだ。

ところが其の社会性こそが実は胡散臭いものだ。


何故なら社会は常に人間の欲望を解放してやまぬ。

謂わば社会に縛られて居ること自体が人間の心を貧しくして居るんだ。


其れでもって戦争だ、資本主義だ、共産主義だ、はたまた科学立国だ、文明のシンポとミライだとまことにウルサい。

で、其の時々に於いて其れ等は全て善なのである。



そして君の欲望も善なのだ。

左様に社会に護られた君の生活そのものが全て善だ。

とさう思って居らう。


だがまさしく戦争などは誤りだったらう。

其れと同じやうに資本主義も共産主義も科学立国も人類史も全部が間違ひだ。

死を前提としなひ限りに於いては全部が誤りなのだ。


だから君の生は全て悪だ。

君の欲望も所詮は悪の権化であるに過ぎぬ。



さう云うと決まって君はひどく気分を害することだらう。

つまり自分が偉ひと常に思って居るのでプライドが傷つけられ此のニセ詩人めが何を言うて居るのか、おまへのやうなバカにそんなこと言われたくはないわ。

第一おまへは何様のつもりか。


良く言い回しは間違へるは文章は変だわで何一つまともに書けてなど居ない。

おまへの言うて居ることなどもはや誰も信じはせぬ。


もう自称詩人が弱いと思ってそんなにイジメるな。

信じて貰おうとなどとは思ってなど居なひ。

確かにわたくしが悪い。

全てはわたくしのせいだ。

わたくしめが世を惑わしまさに-の感情ばかりを振り撒いて来た。



のみならず組織を全部貶した。

社会は悪だと喝破した。

社会の悪に染まりし人間の悪は救われぬとさう断言した。



たしかにわたくしはタダのバカ詩人です。

飯を食ふこと以外は何も出来ませぬ。

おまけに人間嫌いで人を人とも思って居りませぬ。

だが其れはほんたうのことだ。


生を前提としなひ世界は人間の世界ではないから理解し難いが其れはある。

あるんだよ常に其れはある。

たとへば宗教の世界に於いて其れが初めて成立する。



さっきエホバの証人の方が来て少し話し込んで居たが或いは彼もわたくしの悪魔性に手を焼いて居るのではなからうか。

もう五年位話し込んで居るのでわたくしは何を言いたがって居るのか分かって居り最近は最後まで相手になどなって呉れぬ。

つまりわたくしは宗教に興味があるのではなく社会批判そのものに興味があるので大抵の人は其れに付き合うのがつひに嫌になるのだ。


だがかの青年は実に辛抱強くわたくしの宗教談議に付き合って下さった。

我は生まれついての作家で今まさに合理主義を批判しておる。

即ち合理主義が人間の心を貧しくしておる。

対して宗教は常に人間の心を見詰めておらう。


ゆえに宗教こそが人間の心を救うよすがともなる。

キリスト教に於ける罪の概念は煩悩滅却への道と同じであり其はまさに人間の内面を見詰める大義への道ぞ。


かのイエス・キリスト様のお導きにて初めて我我罪深き肉の群れは淫蕩なる貪欲から離れ清浄無垢なる神の御世へと高々と舞ひ上がるのだ。

罪、其の罪とキリストによる罪の贖ひ、其の永遠なる贖罪に於いて初めて我らが罪深き生殖器は其の機能を停止する。

嗚呼、思へば長き長き道程であった。



キリストが十字架にかけられ、かの十字軍が異端征伐に乗り出しまたかの中世の暗黒時代を経てルネサンス宗教改革を経験し近代の幕開けと共に切支丹は堕落するに至ったのだった!


だがキリストの精神はどっこい死んでなど居らぬ。

仏陀の精神もキリストの精神も絶対に悪魔などには負けぬ。


おお、悪魔が其の悪魔がいつの間にやら車になり飛行機になりさらにAIになり我我を地獄への道連れとなしておらうぞ。


ひゃあ~、スマフォが携帯電話がドローンが我を監視ししかも盗撮していったぞよ。

ああー、我はもう怖い。

何が怖いと言って兎に角科学技術が怖ひ。


でもパソコンは怖くなひ。

机上のパソコンだけは安全だ。



キリスト様が左様に狂った世界をいつも見詰めて居られる。

だから心配は要らなひ。

キリスト様はいつも我我罪の民と共にあり実際何もかもお見通しだ。


君の邪な心、其の真っ黒な腹の中身がもう全てお見通しなのだ。

キリスト様は君の其のエロ、其のエロの為に天に召されていかれたのだ。

其ればかりではない、君の其の金銭欲、其の一億円が欲しひと言う欲。

其のやうな欲による罪を贖ふ為にこそ神の元へと召されていかれた。

さらに君のバカ、批判無き其のバカゆえに社会がのさばる。



かやうに社会が悪ひのでキリストはあへて十字架にかけられ社会の罪を贖われた。

其のやうな悪の巣窟としての羅馬帝国はキリストの受難なくば決して成し得るものではなかった。

だが悪だから結局滅んだ。


かやうに悪の文明は必ずや滅ぼうぞ。




ところでエホバの証人はカルト宗教扱いされても居るやうですが大丈夫ですか?

馬鹿者!もはやカルト宗教どころではない。

カルト宗教どころか家に来て下さって居る其の青年など全く優しくて品の良いそして背の高いまことの善人だぞよ。


それどころか実戦倫理宏正会の方の方も実に心根の優しい、まさに心の真っ直ぐな方じゃ。



どだいわたくしの方がずっとアクが強く悪魔的ですらある。

わたくしは文學悪魔なので兎角に扱ひ辛ひ。

普通の人間にはまさに手に余ることだらうタイプだ。



さう最近キリストの映画も視ましたよ。

「最後の誘惑」ですがコレこそ一種凄みのある映画でした。最後の誘惑 [DVD]

80年代の古い映画で悪役が似合うかのウィレム・デフォーがキリストを演じて居ます。

DVDが千円以下なので凡作かと思いましたら意外と凄い映画でした。


特に磔にされて居るキリストが途中で天使に助けられエルサレムの街で老人になるまで幸せに家族と共に暮らし死ぬ間際にまた十字架の方へ戻りコレで成就された!とか何とか叫んで天に召されると云う何ともフィクショナルな結末こそが最高でした。


当時此の部分が物議を醸し幾つものキリスト教関連団体から抗議の声があがり、また上映反対運動も巻き起こったとされて居る。





此処でユダの裏切りは神の使命に基づくものであるとされまたデヴィッド・ボウイがローマの総督役で出て御座るがほとんど印象には残らない。

当時キリストは社会の改革を唱え集団でもって宗教的思想を吹聴して歩いて居たのであったからコレはもう明らかに死罪に値する思想犯である。

だから残酷な虐待を受け十字架を担がされ死の道を歩きかの丘の上で磔の刑に処されるのだった。

其の苦、彼の受けた肉と心に於ける苦しみこそが我我の罪を贖う為の受難であった。

さて罪、其の罪とはまず認識の罪である。


確かに我我は罪があるのに無いと言い、其の欲が醜ひと言うのに其処で何も気にして居なひ。

世界が苦だと云うのに楽だと言い、また世界は無いのに在ると言い、かつ我は無いのに有ると言い、腐って居るのに清らかだと言う。




四顚倒

即ちまずは其れが凡夫の認識の上での誤りだ。

凡夫の認識の上での誤りを正す認識こそは無常・無楽・無我・無浄なのだ。

ところが涅槃から見た場合の誤りとしての認識とはまさに其の無常・無楽・無我・無浄なのだ。

こちらの誤りは二乗即ちインテリ層が陥り易い過ちなのである。

即ちインテリは無常・無楽・無我・無浄の方へと認識が傾き易い。

つまり利口=理性的だからつひ否定的になりがちだ。

実際どんなものでも否定したひ。

挙句の果てには自分をも否定したい。



然しインテリの認識も所詮は概念であるに過ぎぬ。

概念では解脱はならぬのでたとへば何処までもリヤカーを引いてみなければならぬ。

だが苦行はいけなひ。

苦行して岩場から落ちて死んだとしても決して解脱はならぬ。


では概念では無いものだけでいこうとすると即座に凡俗の価値観へと舞い戻る。

元より概念では無いものだけではダメで苦行だけでもダメ、即ちバカでもダメリコウでもダメ即ち凡俗でも聖者であってもダメ。



なので結論としては解脱など出来なひ。

どだいかの日蓮だの親鸞だの全然解脱などはして居ない。

おそらくはかの空海でも其れは無理と云ふものだ。


そんな偉ひ御坊様方がそも解脱出来なひのに此の迷へる肉の群れ、即ち凡夫の群れが解脱など出来はしないのであるし其処でイエス様の贖罪の意味などそも分からう筈がない。


だから凡夫と云うものは常に額を地面に擦りつけまさにひれ伏して居なければならぬ。

神仏に額ずくことまさに其れこそが我我が出来得る唯一のことであり其こそがまさに修行であり贖罪である唯一の行為じゃ。



だから今すぐにお寺かまたは教会へと出向かう。

さうして汝の日頃の罪の数々を懺悔しお釈迦様またはイエス様に心よりひれ伏して祈るのだ!

其のやうにせぬと悪魔が何処からともなく忍び寄り汝が生活を総じて悪の巣窟と変えていかうぞ!



「最後の誘惑」でのイエス様はトコトン自らの境涯に悩み抜かれさうして死にたくないと思ひながら磔の刑に処される。

其の心の葛藤こそはまさに我我の、其の哀れで淫蕩な肉共の群れの内面の葛藤そのものです。


常に自分が偉ひと思ひ、さうして特別だ、自分だけは特別でアイツはバカだと誰しもが内心思って御座る。

特にわたくしは其の倍程もさう思っておる。

君等も社会も皆バカで我のみが尊いと思って居りしが其こそは誤りであった。


そんなわたくしこそはまことのバカでした、其のお詫びにせめてイエス様とお釈迦様の物語を書いていかうかとさう思ひます。

どうかどうか御怒りにならず此のわたくしめを御赦し下さい。

実際もう何でも良い、此の際何でも良いから此の悩み深きわたくしめをお救ひ下され。



あめのきさき カトリック聖歌