目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

社会と闘うー悪ひ父ちゃんとしてのルソーー


近代思想が開いたものとはおそらくは禁断の扉である。

禁断の扉はかねてより長きに亘り重要な何かを護って居たが其れをあへて開かざるを得なくなった。

おそらくは其れが悪を閉じ込めて居た扉なのである。


尤もより本質的にはかの楽園追放の折にすでに人間は罪としての業を背負わされて居た。

楽園=神からの分離が罪を生じ人間の生殖器をイチジクの葉でもって隠さざるを得なくなる。

無論のこと其れに対して動物は皆裸でもってして生殖器は恥ずかしいものでも何でもない。

生殖器が恥ずかしいものとなったと云うこと自体が何か人間の持つ屈折の部分だ。



其の屈折は普通理性と呼ばれやうが其の理性自体がなかなか一筋縄ではいかぬものだ。

即ち理性は偉いかと云えば無論のこと必ずしもさうではない。


理性は常に両義性に捉へられて居るので何故か悪魔化し易い。

平たく言えば頭がおかしくなり易い。

まさに天才とキチ外の差は紙一重だ。


事実科学者も頭がおかしくなり易いのだし藝術家も気が狂ひ易い。



逆に言えば君等のやうに凡俗の民は決して其処まではいかぬから安心して置くがいい。

わたくしの場合も七割方すでにおかしいのだがとりあへずは自分の頭がおかしひと言えて居るうちはおそらくまだ大丈夫だ。



即ち理性は偉いと云うよりもとってもリスキーである。

そも危険だと云うことだ。



どだい東大や京大へ行く奴は可成に危なひ。

早稲田大學位の方が実はより安全だ。

いやもう少し下のバカ大學ー早稲田以下の大學は皆バカ大學ーの方が実はリスクがより少なひ。


バカ大學出身でも凄く頭の良い奴は居て事実わたくしが其のタイプの人間だ。

バカ大學でもわたくしよりも頭の良い奴はちらほら居てコレはもうほんたうに敵わぬと思わされたことも屡であったゆえバカ大學と雖も決してバカになどしてはならぬ。



どだいルソーはどうも学校など出て居ないやうである。


それどころか典型的な非行少年だったやうだ。


其れも相当なワルだ。

しかも女好きでもってマゾヒストだ。

其処でもってしてどんなプレイをして御座ったものやら知れたものではない。

然しそんな苛烈な運命の下での現実から逃避するが如くに彼は読書を好んだ。



つまるところ、知性を磨くには、其れも一級の知力を我がものとする為には学校でのお勉強よりも此の読書によるところが常に大きい。

結局人間を利口にするのが其の読書なのだ。


だからオレは良い高校と大學を出たから利口だぞと言って御座るほんたうのバカをたまに見かけるのであるがさういふのに限り学校を出てから本など読んで居らずのみならず妻や娘の尻に敷かれてまさに何のための人生なのやら分からぬやうな境涯の五十台の人を何人かわたくしは知って居る。


即ちアソコに雁字搦めにされて居らう。

だから本も読めずまさに食ふ、寝る。SEXする、だけだ。

しかも小遣ひさへ基本的に無い。

何故なら月に二十万もローンを払わないといけなひ。

景気の良ひ時に無理をして高い家を買った罰がソレだ。



嗚呼、情けねえ人生だ。

ただし、其れは其れで実は立派な人生だ。

娘が二人も居ればやがて孫がポコポコと生まれ五十代前半ですでに爺ちゃんだ。

事実其の責任たるや並大抵のことではない。


つまるところわたくしのやうに遊んで暮らしてはおられぬ。

即ちゴルフ、そして読書、さらに石の趣味、そして筆記具マニアとしての遊びの数々。

尤も女遊びのみが其処に欠けておる。


だから結局どちらかだ。

わたくしのやうに遊びたひなら女からは一切手を引け。

だが利口になり過ぎると将来はどうなるか分からんぞ。

そして趣味に金は全て毟り取られていかうぞ。



さて其のルソーの愛人生活こそは羨ましひものだ。

其のやうにパトロンが居なひと詩人乃至哲學者は基本的に生き抜いてはゆけぬ。

だからわたくしもパトロンが欲しひ。



確かに労働もまた尊い

労働から得られる真理もまた多々あらう。

だが労働により藝術家が藝術家として生きられないのはまさに過酷な現実だ。

嗚呼、何処かに金持ちで美人でしかも根性の悪ひ未亡人は居ないものだらうか。



だから心ではない。

まず金でありそして美貌が何より大切だ。


ただしたとへ不細工でも心の清い仏教徒キリスト教徒は可である。

イスラム教は豚肉を食べなひのでわたくしの大好きな角煮が食えぬ分だけ少し弱ひ。




かようにジャン=ジャック・ルソーこそが独學でもってして第一級の知性に至った人であった。

彼の説いた近代へと至る為の啓蒙思想は理性による平等かつ自由な社会秩序の建設を目指した。

其の事は基本的に誤りではない。


其れなくば近代をば開闢させることは出来なんだ。

だが其処には確かに矛盾が存して居た。

ですが其れは理性の持つ本質的な矛盾なのだとわたくしは捉へて来ても居る。




個人と社会と主権が全く対立することなく重なり合う局面
、「一般意志」は、単純な「特殊意志」の和ではないが、そのそれぞれの「特殊意志」から、相殺しあう過不足を除けば、「相違の総和」としての「一般意志」が残るのだと説明している。このように、無論、選挙の投票によって得られる意志や、議会での政党間の合意などで得られる意志は、「一般意志」ではない。「一般意志」は政治家の意志でもない。ルソーは、『社会契約論』の全体を通して、「一般意志」への絶対服従を説いている。
また、ルソーは『社会契約論』第二篇第七章において、「一般意志」を取り出す仕組みとしての「立法者」なる概念を提示している。
このように、「一般意志」は非常にわかりにくい概念であり、長年多くの学者研究者によって様々な検討がなされてきた。 以上より引用



されどルソーの社会論の骨格をなすかの一般意志と云う概念程分かりにくいものもまたない。

謂わば分かったようで居て何だか分からなひ。

が、要するにコレは理性的規定なのだと考えられる。


逆に云えば近代は其の理性的規定を抜きにして成立するものではない。

即ち近代とは理性の時代なのだ。

其の理性が矛盾化しやうがどうしやうが悪魔にならうがなるまひが兎に角其の理性でもって社会的規定を行ふ。


実は其れのみが近代を成立させる要件だった。

なので近代化出来なければ人類は近代直前の時点で滅んで居た可能性すらある。


此処からしてもどうも近代化は社会の必然として用意されて居たものだ。

近代化しなければもっと長くそれこそ恙なく社会は存続するやうにも思へたのであるがどうもさうではない。



だから近代とはまさに運命のこと。

所詮は必然としての人類の運命なのだ。



ヘーゲルは、ルソーが仮定した理想的な理性には何の根拠も無いと論じ、必然的にそれは恐怖による統治につながると論じた。以上より引用

ヘーゲルの批判もまた鋭ひ。

ヘーゲルは確かに利口だった。



尚其の理想的な理性とはカントの述べたところでの定言命法に於ける理性としての質に一脈通ずるものである。



他の著名な批判者としては、アイザイア・バーリンがおり、一般意志への服従を前提としたルソーの自由社会は、自由という名のもとで抑圧を正当化する全体主義の指導者の存在を許し、ルソーを「人類の思想の歴史の中で最も邪悪で恐ろしい敵の一つだ」と評した[3]。以上より引用


かやうに一般意志への服従を前提としてつまるところは理性としての限定を信じて生み出され得る自由な社会の根本は矛盾である。

だがわたくしは彼ルソーがそのことをあへて知りながらさう規定して行ったのだとそのやうに捉へる。

たとへ彼ルソーが人類の敵であったにせよ近代と云う理性的矛盾領域をまさに彼の思想なくして乗り切ることなど出来なんだ。



以前にも述べたが近代と云う社会制度に於いては理性は自己矛盾するのであるしであるからして科学技術も矛盾化したとへば其処で大量破壊兵器を生み出し、また大衆の心性は易きに流れ必然として悪魔化しそればかりか民主制そのものが壊れていくのである。


さうした流れは理性の自己矛盾過程にこそ原因を探るべきであり元よりルソー一人を悪者にすることで解決され得る問題ではない。



最初に述べたが其のイチジクの葉で生殖器を覆う働きこそが理性の働きだ。

だから何故其れが恥ずかしひのだ?

本来ならばちっとも恥ずかしくはない。


だからもう服を着るのは止めやう。

素っ裸で其の辺を堂々と歩いて見給へ。

すると即逮捕される。



無論其れが理性の働きなのだ。

だが問題は其の理性の働きそのものにある訳ではない。


其の理性が効かない社会での流れにこそ問題がある。

其れも極めて根深い問題を孕んでおる。

何故學者達は其の原理を示さうとはなさらぬのか。



こんなバカ大出の自称詩人如きに全てを押し付け或はわたくしを悶絶死させやうとする御積もりなのか。

だからこんなバカに何故其処まで責任を押し付けて御座る?


理性的だと言っておきながら適当に教え高い給料を貰ひ実は少しも理性的ではないアナタ方のことなどもう知らない!



かやうに理性は矛盾化するのであるし常に信じ切れぬものである。

ではあるが、ほんたうはどんなものでも信じ切ることなど出来はしなひ。

おそらくは信仰の領域を除いて何かを信じることなど出来はしなひ。



ゆえに謂わば理性そのもののみでは幸福にはなれずかつほんたうの意味での理性的な存在になどなれぬ。


理性の使い方を知ること、其の適正な適用の範囲を規定していかぬ限り其の理性は必ずや裏切るのだ。



なので全然悪くはないのです、彼ルソーがしたことは。

悪ひのはむしろ其の後のことです。



即ちルソーの思想が元々矛盾に充ちて居り悪ひものだと云う認識が近代以降の知識層の頭の中に欠けて居たことこそが大きな責任問題だ。

近代以降の知識層は即刻其の高給を返上しリヤカーをば何処までも引いていくべきだ。

其れも裸でもって何処までも引いていけ。


其の理性に培われし精神力さへあればそんなこと位はもうまるで恥ずかしくは無い。

でもわたくしは恥ずかしいのでそないなアホなこととてもやれまへん。



それにつけてもジャン=ジャック・ルソーの人生こそは滅茶苦茶だ。



二人は「決して捨てないし結婚もしない」という条件で生涯添い遂げるが、晩年になるまで正式な結婚はしなかった。この二人の関係は、周囲の状況に影響を受け順調にはいかなかった。テレーズの親類縁者がルソーを図々しく頼り、ルソーは稼がなくてはならなくなる[44]。また、二人の間には1747年から1753年までに五人の子供ができるが、経済力のないルソーは当時では珍しいことではないのだが、わが子を孤児院に入れている[45]。以上より引用



かやうに悪ひ父ちゃんであったルソーは貧乏であるにも関わらず女に五人も子を産ませ其の全部を孤児院に預けたのじゃ。

元々甲斐性が無いと云ふのに女好きで即ち其処で生殖器の制御がままならぬ。

其の子等は其の後どうなったのか、また其の女は其の後どうなったのか其れはもはや分からぬこと。



ただひとつ分かることは昔の父ちゃんは洋の東西を問わずそんなこと位当たり前のことで、そればかりか殴るわ女をつくるわ酒浸りになるわでもうとんでもないまさに犬畜生の如き父ちゃんばかりなのであった。

其のやうな男性の放埓振りに対し女共はタダタダ歯を食ひしばって耐へたとへ自らは飯を食わずとも子等に飯を食わせ、また父ちゃんが暴れ回るにせよタダタダ其れに耐へただ黙って飯を作って居った。

左様な殊勝な心掛けにて初めてかの大日本帝国はしかと立つことが出来やうぞ。

左様な忍従の姿勢こそが21世紀のやまとなでしことしての必須の心掛けであらう。