おそらく般若心経とは人間が生きて行く上での諸の問題に対する処方箋であり医師なのだろうとわたくしには感じられても居ります。
今現代文明はまさに混迷の時代、まさに色んな矛盾的問題を其処に突き付けられそれこそ身動きの出来ない時代となって居るように見受けられますが無論そうなることには理由がありそういうのを宗教ー真理レヴェルでの思考ーは全て喝破して来て居るのでありましょう。
喝破して居るのであるから、こうなることは無論のこと明らかに分かって居りました。
何でそんなことが分かるのかとお思いのことでしょうが、そんなことは元々真理レヴェルの思考にとっては全て自明のことなのであります。
だからそういうのがそれこそ予言なのであり悟って居るということなのです。
という事は分かって居るから何とかしなくちゃならないと日々もがいて居る人々も色々と居られるということです。
宗教に限らず学者の方々や藝術家の方々は概ねそうした精神のレヴェルに常に住して来て居ります。
だからそれぞれに皆真剣ですが、其の真剣さに見合うような解決策が見いだせないこともこの文明が抱える根深い問題なのだと申せましょう。
即ち其処でも自己矛盾化して居るのです。
こんな風に全部が自己矛盾化していくのですから、今まさに我々は自己矛盾性の檻の中に閉じ込められし犯罪者の如き存在です。
其の犯罪者としての自分なんて現代人はまずそんな風に捉えて来ては居ないことでしょうが其の位に思って居ないと此の文明が犯して来た罪は決して贖えないと いうことなのです。
もっとも罪を償うというのは、それこそキリスト教の方での仕事です。
対して仏教では罪を償うことなどしません。
何故なら其処には罪という概念そのものが無いからなのであります。
実は此処が仏教に於ける思考での最も分かりにくいところで我々のような凡夫にはほとんど理解不能なところなのであります。
我々は近代的な思考法を身につけて来て居りますので、其処で所謂合理的な判断にて物事を考える癖がありますが此の世のことは合理的に見ようとすればする程むしろ真相ー実相ーが見えて来ないといった部分さえもがあります。
其れに対する見方は主に東洋思想の方で見い出すことが可能である。
老荘思想や仏教に於ける考え方は此の非合理領域をこそ対象に据えた思考なのであり其れこそがまさに実相を見据える為の思考の過程なのだと申すほか御座らぬ。
この世の中のあらゆる存在や現象には、実体がないのであるから、(もともと、生じたということもなく、滅したということもなく、)(よごれたものでもなく、浄らかなものでもなく、)(増えることもなく、減ることもないのである。)
また其処では、(感覚も念想も意志も知識もないし、)(さらに、悟りに対する無知もないし、)(ついには老と死もなく)(老と死がなくなることもないことになる。)(苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そしてその方法もない。)(知ることもなければ、得ることもない。)(かくて、 得ることもないのだから、)(悟りを求めている者は、)(知恵の完成に住する。)
つまるところ、此の世の本体とでも云いますか実相の部分には元々何も無い、其処に拘るべきことー物資的、精神的にーがそも其処には無い。
何故なら其処にはそも実体が無いからなのである。
然し其の世の実相としての非実体性の把握を、我々東洋人はあえて放棄して来ました。
其れは西欧の文化圏が生み出した合理的かつ直載的な思考に慣れ切ることで其の部分がいつの間にか見えなくなっていったのでした。
だから現在の此の普遍的文明世界、特に近代文明というものはそうしたひとつの魔術だったのです。
以前にも申しましたように、幻想としての現在をより克明に現在化するものが近代に於ける思考法なのだと申せましょう。
つまるところは幻想としての現在をより強固に築き上げたのが近代が為し遂げし唯一の事業だったのです。
ところが其処では謂わば嘘に嘘を重ねる、嘘の上塗り、または虚の二乗化を常に為して居るのですから本質的には矛盾性ばかりが幾何級数的に増大していくのです。
見たところ即ち可視レヴェルでは良くなっていくように見えて居るのですが実は世の実相への方向性を踏まえて居ない行為であり思想なのですから必然的に矛盾性はいやましに高まっていきます。
平たく言えばそういうことばかりして居ると本質的には全てが悪くなっていかざるを得ないということになります。
たとえば人を判断する場合に、外面ばかり良い人を良いと判断するとそいつが実はとんでもない奴だったということがままあるものです。
逆に内面の良い人は本質的にも良い人が多いということを忘れてはなりませんね。
現代文明はこうした意味で外面ばかりが良い何かをずっと追い求めて来て居りますので其処は必然的に底が浅いものとなって仕舞います。
実際にはこれにとどまらず真の意味での犯罪者になって仕舞う虞が大きく存して居ります。
特に今後は地球及び生命に対する犯罪者として永遠に刑に服するだろうことがほぼ確定的です。
人間という存在はまた考えることも出来得る存在なのですからまさに此の部分をこそ考えておかないとなりません。
以前にも申しましたが、より大きく考えてより慎重に事を為していく必要が是非ある。
ですが近代は逆により小さく考えてより大胆に行動して来て仕舞った訳です。
真理方向への流れとは逆向きの行為、思想を為して来たのが近代の犯して来ただろう其の罪の内容です。
しかしながら、先にも申しました如くに、此の世には元々実体など無いのですから、其処には元々罪もクソも無いのです。
本当の本当は、生も無く死も無く詩も無く文學もまた無い。
絵画は無く宗教も無く貴方も無くかつわたくしも無い。
此の虚無感は実際相当なものであるのですが其れがニヒリズムかと云えばまたそうでもないのであります。
要するに観念的脱落こそが実相ということなんです。
観念が概念化するという其の幻想の設定をつい行うので其の設定、設営にこそ従わなければ良いということなのです。
この観念的脱落は、おそらく観念の抽象過程での最後の段階、最終段階のものではないかとわたくしは睨んで居ります。
考えるということは、其れを突き詰めて考えた場合にもう何も考えるべきものが無いという状態へと必然的に到達していくのです。
故に考えること自体がひとつの錯誤でありカン違いであったとようやく人は其処で気付くのである。
ところが考えることのみではなく生物として生命活動を行うー本能領域ー自体もひとつの錯誤でありカン違いであったと同時にようやく人は其処で気付かなければならないのである。
要するに本質的に虚妄の観念である衣食住のことや生殖のことにつき過分に求めるべきではない、其れはそも本質として虚のこと、仮のことなので此処に一切拘る必要などはない。
そんな無常の世界に対し色々と拘り、たとえば美味い飯のことばかりを、また綺麗なねーちゃんのことばかりを、それに豪邸や高級車やサザエさんのような中流家庭の幸せばかりを追い求めて生きるのは間違いである。
いや、実は求めようが求めまいがそんなことはどうでもよろしく、要するに此の世で起こったことに対しては実はどんな価値も設定することなど出来ず、其れはそもそういう世界なのであるから兎に角君が今持ち合わせて居ることだろう其の諸の願望自体が全て無意味である。
そうした無意味なことにはエネルギーを注がず、自ら心身を律することに対してのみエネルギーを注いでいくのが仏教流の合理主義ー非合理性をも踏まえた上での合理主義ーなのである。
此の世は、天然無垢に、つまり無為かつ自然に何もなく空っぽなものなのです。
是を空性と云います。
そうした空性の存する世界、無常でしかも観念化することの限界を宿した世界でそも君達は何を設定しようとして居るのだ?
だから其れが煩悩に基づき行われるー罪あるー行為なのであり、其の煩悩は無明ーつまるところは無知ということーより生じる。
然しお利口になろうとすると観念の観念による自己牢獄化が促進され我々は其処で気が狂って仕舞ったり孤独に陥りうつ病になったりなどとまさにロクなことにならない。
こんな風にお利口にはお利口の方での悩みがあり無知には無知の悩みがまたあるというのが此の世での実相。
尚、此の空という観念乃至は概念については、少々慎重な態度を取り受け容れていく必要があります。
此の点につきわたくしが探求を進めたところ、原始仏教に於ける空性観と大乗仏教に於ける空性観との間には大きな隔たりがあることが分かりました。
大乗仏教に於ける空の概念は高度に理論化、哲学化されたものですが釈迦の説法そのものに於ける空とはもっと素朴な意味での空っぽなものといったような意味ででのことです。
尚大乗仏教は屡小乗仏教ー上座部仏教ーの個を中心とする修行即ち個人主義的傾向を批判して居ますがハッキリ言って其れは当たって居りませんね。
人間は個としての精神的覚醒という基盤なくば真の意味で目覚めることなど出来よう筈もない。
大乗仏教の団体主義、大衆迎合主義は一面で仏教を堕落させ、通俗化ー曲解に充ちたものにして仕舞ったという意味でのーして仕舞ったのだとも言える。
即ち仏教の不純化の過程そのものが仏教の大乗仏教化だったのだと言えなくもない。
さらに大乗仏教の教理は複雑化、難解化してまた後には非観念化、形式化されまさに何でもありの状況を生み出して行ったのだとも言える。
大衆化するということはまさに其のようなことで、其れこそが一種の自己矛盾、自己解体の過程でもあったということです。
勿論其の代わりにこうして我が国はいまだに仏教国として存立し続けることが出来た。
謂わば純粋なもの程死に直結し、不純なもの程生き延びるという此の世の実相を仏教自らが示してみせているなどとも云えそうです。
Wikipedia-般若
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5
この世に於ける二元的対立の超克即ち智慧の完成を追い求める為の精神の旅は長くかつ険しい。
般若とはまさに無分別智のことでしょうが、このことに気付くのは我々凡夫にはまず不可能なことであり、さらにはわたくしのような縁覚、独覚的な要素を多分に持つ人間にとっても其れはほとんど不可能なことです。
其の無分別智とは相対的な主観・客観の分別を離れた真実の智慧であり識別・弁別する分別智に対してそれを超えた絶対的な智慧のことを云う。
其処には絶対智というものが、此のすべからくが仮であり虚である世界の中で成立するものであるかどうかというそもそもの疑問がないではない。
絶対智が此の世に存することとなると、其れはそも自己矛盾して仕舞うからなのである。
そも絶対があり得ない筈の此の世に果たして絶対領域が存立し得るのか。
という問題が其処に生じて来るということです。
絶対というのは、成ったと同時に此の世から離れて行って仕舞う類のものです。
永遠化された非現象的な世界に逆に生ずるのが絶対である、とも申せましょう。
勿論我々は何より悟って居ないのでまた神でもないのだからして永遠化され得ずかつ非現象化され得ない存在なのです。
平たく言えば我々は此の世界で文明が滅亡するまで生き、そして個々としての死に何らかの特別な意味が与えられると云った訳ではありません。
我々は智慧の完成なくして死に、そして死んでからも永遠に智慧の完成は得られないと見ておいた方がより現実的です。
然し観念的な意味での悪あがき、其の道程だけは、其の軌跡だけは是非残しておきたいと思いこうしてわたくしは仏教のことにつき書くばかりなのです。