目覚めよ!

文明批判と心の探求と

人間とはお化けである


結論としてわたくしが持ち得た世の実相とは諸の矛盾に翻弄され破滅に向かうことであろう精神無き世界のことなのである。

そして其れが何故其の様になるのかということを考えて居る。



ひとつには欲の解放が真理方向へは向かわないものだということにある。

精神即ち魂の洗浄が必然として禁欲の方向へ向かうのはまさにそうしたことなのである。

故に現代人は、或は現代社会は求めれば求める程にむしろ本質として貧しくなっていく。



其れは何故か?ということをわたくしは考え続けて来た。

やがて其の回答として、原始的退行という原理が導きだされたのだ。

即ち理性が矛盾化して原始的な本能領域へとなだれ込んで行くのである。



従って理性的かつ高級な営みをして居るー自然の営為に対してーようで居てまるで非理性的。

愛や慈悲に充ちて居るようで居て逆に非人道的。

人権だの自由だの平等だのと謳って居る割には妙に抑圧的。

安楽な良い暮らしを目指して居る割にはいつまで経っても充たされることが無い。



そうした文明に於ける人間の営為がすべからく其の原始的退行による自己矛盾の世界なのである。

ならば文明の、或は人間の自己矛盾をどう解決すべきかという問題が其処に生じようが畢竟其れも問題と云えば問題だが問題で無いと云えば問題では無い。



何故なら人間とはそうした矛盾をまさに此の世で履行する為に生まれて来た者なのだから。

つまり、人間から矛盾を取り除いたら後には何も残らない。


人間は矛盾を生きる矛盾であり、まさに其の為に此の世に生を受けしお化けだったのだ。

彼等お化け人間は毎日あくせくと働き日銭を稼ぎ其れをヤフーだのアマゾンだの百貨店だのにばら撒きつつ生きて居る。


其の様や何やら滑稽なのであるが、そういうのをバカと断ずるにせよ詩人もまた其のバカの仲間であることからは免れず其処で結局自己矛盾しつつ奈落の底へと落ちて行く。

精神など幾ら高く掲げても結局其の自己矛盾が邪魔をして最終的には其の精神をして地獄へと落とし込むのである。




しかしながら、此の生の目的とはまた構築でもある。

虚の構築であり錯誤であり瑕疵そのものである生の目的とは謂わば逆向きの生の構築である。


生きないもの、生かされないもの、決してギラギラとしないものの獲得のことを其の逆向きの生の構築だと云う。

かって真理として其のことを世に指し示した釈迦は其の逆向きの生の構築を成し遂げし唯一の存在である。




目に映ずる此の瞬間とは、此の匂いを嗅ぎ味を確かめ手に触れて得る此の瞬間とは本当のものではない。

其れは幻のやうに次から次へ迫り来る錯誤の世界のことなのだ。


謂わば我我は瞬間を、其の穢れに充ちた、そして罪に充ちた瞬間を無限に創り出して来て居る。

未来永劫に亘り其の錯誤を繰り返して行くのである。



しかも其の営為に悦びさえをも感じて仕舞って居る。

生きて居ることが楽しく、常に長生きがしたいとさえ願って居る。




ハー、そうですか。

其れは其れは誠に殊勝なことで。


だがハッキリ言って莫迦だ。

其れも大莫迦だ。

だが其の莫迦は金輪際治りゃあしない。


感覚も想念も、皆此の莫迦を成り立たせる為にこそ用意されて居る。

つまるところ我我は此の莫迦を生きる為にこそ生きて居る。


そして是が是こそが最大限に馬鹿だということの証左である。




嗚呼、瞬間、其のキッスの一瞬、其れは仕掛けられし罠である。

地獄へ堕ちる為の罠である。


瞬間、其の食欲性欲物欲権力欲の其の一瞬、其れは仕掛けられし罠である。

地獄へ堕ちる為の罠である。



其れではお勉強の方の欲はどうなのですかと聞かれても其れは困る。

お勉強にて釈迦に近づくことは出来ようが、決して釈迦そのものになれる訳ではないので。


然しお勉強つまり観念もまた其の一瞬、其れは仕掛けられし罠である。

地獄へ堕ちる為の罠である。ー所謂観念の無間地獄のこと。ー





此の生の瞬間、瞬間は、まさにアナタ自身が創って居る。


其の錯誤の時間を、心の莫迦が生み出すのである。


謂わばアナタの心が此の矛盾に充ちた世界を創るのである。



でも創るということは良いことなのではないでせうか?


いや、其れは違う、違うぞよ。



創ることは罪である。


即ち真理と創作とは違うということである。







現実とは、唯物論ではない

ましてや観念でもない


永遠の錯誤のことなのだ



現実とは非実体的な錯誤のことを云う

其の非実体的な錯誤の集積が現在である





故に現在は矛盾化する

矛盾化することは避けられない

不可避の矛盾こそが現在なのだ



ひとつひとつの現在は無数の現象の縄として絡み合い、全体を形作る

全体の矛盾は、ひとつひとつの現在に於ける矛盾よりも大きい


より大きな矛盾は宇宙をも破壊するうねりとなり今地表を覆う





こんな風に存在は矛盾化する

そしてまさに矛盾の履行の為に現在を成り立たせる



だから存在とは限定である

限定とは罪である


限定とは罪であり錯誤のものである瑕疵であり負債である








要するに存在して居ないことの方が良い訳である。

真理は其れを説くが、大衆つまり我我は其の事の意味を決して理解出来ない。



我我が存在して居て、こうして瞬間を感じ時には自然や女と交わり、映画を観て車で移動したり何だのと、或は日々勉学に勤しみ、今日は中也だ明日は唯識だのとお勉強にお勉強を重ね生きていく。


確かに其れは偉い。



偉いのだが、何かが抜けて居る。


つまりはマヌケ。



そして其のマヌケは何処まで行ってもマヌケである。


其のマヌケにはマヌケに見合う世界が用意されて居り其れが現在だ。






現在はこのやうに尊い。ー皮肉たっぷりに言えばー


現在とは永遠の反対で二辺としての極である。



ー有るものと無いものとに分かたれて居る。完全である無いものには悩みが生じないが、不完全である有るものには悩みが生じる。悩み=苦。ー





永遠とは物質でもなく精神でもなく二辺が生じない何かである。


言うまでも無く神や佛は其の何かである。



対して我々の営為はすべからく二元的対立を生じせしめ、かつ限定的なので永遠には到達し得ない。


永遠ー神佛ーを見据える為には精神を創造して物質としての巣ー本能の巣ーを滅し去る以外にない。



そうでなくば、時の経過と共に矛盾ー破壊ーは拡大し破壊が世界を覆うのである。







何やらB級カタストロフ映画のようになって参りましたが、あくまで本当のことなので仕方がない。


どだい宗教はすわ世界が破滅するので此の信仰に生きよとか何とか申すもので御座りますが、今まさにわたくしの思考もそのやうになって来て仕舞いましたな。


思えばかってはノストラダムスの大予言であるとか、或は黙示録の世界観であるとか、昔そんなものを好んで読んだりして居たものでしたが本当にそんな風に思えて来ましたので其処は不思議です。




ちなみにわたくしはB級カタストロフ映画が好きです。

尤も表面上は恋愛映画も嫌いではないが本当はヤッパリ嫌いです。



今興味のあるのは宗教の映画で、其れもかっての映画で釈迦や日蓮を描いた映画やキリストの生涯を描いたものなど、或はゴッホベートーヴェンの伝記映画のDVDなどを集めたく思って居ますがこれ等も意外と数が出て来るのでなかなか実現致しません。




B級カタストロフ映画だけは結構集めましたが21世紀になり映画化されたものは皆可成に楽しめるものばかりです。

実際CGの技術が上がって居る為か視て居る其の瞬間は楽しめますがそうかと言って何度も繰り返して視たくなる様なものでもない。




宗教というものはこの手の破局を大真面目に取り上げる部分が御座いますがそうした真面目さを現代人が笑って眺めて居るとやがてもう本当にどうにもならなくなり、其処で初めて釈迦だのキリストだのの価値が実感として分かるというオチともなりましょう。



左様に我我が感知出来得る現実とは所詮は虚妄の世界のことですので正つまりは真のこととして捉えない方が良いのであります。


故に現実上ー現象上ーのことで悩む必要はなく逆に構築せし観念上の悩みを悩む必要があるという訳です。




其の種の悩みこそが真ー実体ーの方向へ向く作業であり営為であるというただそれだけのことなのであります。




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ー確かにこれも仏教は仏教ですが、このやうな大衆迎合を為すと仏教がテーマパーク化しアトラクションのひとつか何かのようになり通俗化されることもまた否めない部分なのでしょう。ー