此の生の瞬間、瞬間は、まさにアナタ自身が創って居る。
其の錯誤の時間を、心の莫迦が生み出すのである。
謂わばアナタの心が此の矛盾に充ちた世界を創るのである。
でも創るということは良いことなのではないでせうか?
いや、其れは違う、違うぞよ。
創ることは罪である。
即ち真理と創作とは違うということである。
現実とは、唯物論ではない
ましてや観念でもない
永遠の錯誤のことなのだ
現実とは非実体的な錯誤のことを云う
其の非実体的な錯誤の集積が現在である
故に現在は矛盾化する
矛盾化することは避けられない
不可避の矛盾こそが現在なのだ
ひとつひとつの現在は無数の現象の縄として絡み合い、全体を形作る
全体の矛盾は、ひとつひとつの現在に於ける矛盾よりも大きい
より大きな矛盾は宇宙をも破壊するうねりとなり今地表を覆う
こんな風に存在は矛盾化する
そしてまさに矛盾の履行の為に現在を成り立たせる
だから存在とは限定である
限定とは罪である
限定とは罪であり錯誤のものである瑕疵であり負債である
要するに存在して居ないことの方が良い訳である。
真理は其れを説くが、大衆つまり我我は其の事の意味を決して理解出来ない。
我我が存在して居て、こうして瞬間を感じ時には自然や女と交わり、映画を観て車で移動したり何だのと、或は日々勉学に勤しみ、今日は中也だ明日は唯識だのとお勉強にお勉強を重ね生きていく。
確かに其れは偉い。
偉いのだが、何かが抜けて居る。
つまりはマヌケ。
そして其のマヌケは何処まで行ってもマヌケである。
其のマヌケにはマヌケに見合う世界が用意されて居り其れが現在だ。
現在はこのやうに尊い。ー皮肉たっぷりに言えばー
現在とは永遠の反対で二辺としての極である。
永遠とは物質でもなく精神でもなく二辺が生じない何かである。
言うまでも無く神や佛は其の何かである。
対して我々の営為はすべからく二元的対立を生じせしめ、かつ限定的なので永遠には到達し得ない。
永遠ー神佛ーを見据える為には精神を創造して物質としての巣ー本能の巣ーを滅し去る以外にない。
そうでなくば、時の経過と共に矛盾ー破壊ーは拡大し破壊が世界を覆うのである。
何やらB級カタストロフ映画のようになって参りましたが、あくまで本当のことなので仕方がない。
どだい宗教はすわ世界が破滅するので此の信仰に生きよとか何とか申すもので御座りますが、今まさにわたくしの思考もそのやうになって来て仕舞いましたな。
思えばかってはノストラダムスの大予言であるとか、或は黙示録の世界観であるとか、昔そんなものを好んで読んだりして居たものでしたが本当にそんな風に思えて来ましたので其処は不思議です。
ちなみにわたくしはB級カタストロフ映画が好きです。
尤も表面上は恋愛映画も嫌いではないが本当はヤッパリ嫌いです。
今興味のあるのは宗教の映画で、其れもかっての映画で釈迦や日蓮を描いた映画やキリストの生涯を描いたものなど、或はゴッホやベートーヴェンの伝記映画のDVDなどを集めたく思って居ますがこれ等も意外と数が出て来るのでなかなか実現致しません。
B級カタストロフ映画だけは結構集めましたが21世紀になり映画化されたものは皆可成に楽しめるものばかりです。
実際CGの技術が上がって居る為か視て居る其の瞬間は楽しめますがそうかと言って何度も繰り返して視たくなる様なものでもない。
宗教というものはこの手の破局を大真面目に取り上げる部分が御座いますがそうした真面目さを現代人が笑って眺めて居るとやがてもう本当にどうにもならなくなり、其処で初めて釈迦だのキリストだのの価値が実感として分かるというオチともなりましょう。
左様に我我が感知出来得る現実とは所詮は虚妄の世界のことですので正つまりは真のこととして捉えない方が良いのであります。
故に現実上ー現象上ーのことで悩む必要はなく逆に構築せし観念上の悩みを悩む必要があるという訳です。
其の種の悩みこそが真ー実体ーの方向へ向く作業であり営為であるというただそれだけのことなのであります。
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ー確かにこれも仏教は仏教ですが、このやうな大衆迎合を為すと仏教がテーマパーク化しアトラクションのひとつか何かのようになり通俗化されることもまた否めない部分なのでしょう。ー