目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

身心問題につき考えしこと



   

所謂心と体の問題とは良く云われるのだが其の心と体と云う名辞に寄りかかると此の問題は余計に理解すること能わずでかえって思考がゴチャゴチャになって仕舞うのである。
上でのやうに先哲の方々も様々な御意見を述べられて居るのですがズバリわたくしの場合には仏教詩人としての見方が強いので畢竟以下に述べるが如き考えに至らざるを得ない。

私の考えは所謂悲観論ながら究極の悲観と究極の楽観は実は紙一重なのであり、其のことからしても以下のわたくしの思考が楽観論に繋がっていかないという保証は何処にもない。



結論としてのわたくしの思考の現状

1.身心即ち体と精神は共に似たもの同士の分解能での非実体的現象である。
2.身心は異なるようで居て大元では似て居り、其のゆえ相互に働きかけ影響を及ぼし合う。
3.身心とは牢獄なのでいつかは放棄せねばならぬもの。よって逆に心身の構築を是とするあらゆる思想の根本は誤りだ。
4.観念はそして名辞は世界を規定し得ないものだが現実を規定することは出来其の試みから突破への糸口は見つかろう筈。




物質=肉体とは、実体の分解である。

また精神=心とは、実体の分解である。

分解されたものであるゆえ其の様に現象化している。

されどあくまで分解されたものであるゆえ其れは実体ではない。

実体ではない幻の如き現象を事実としてのみ見て居る。


そう見ざるを得ないのが我我が実体の変化体として現象化することの意味である。

其の意味に沿うて我我の肉体と感覚が形作られ得る。

ゆえに我我の心身とは謂わば其のやうな誠実な嘘の類のものでしかあり得ない。

ゆえに物心の関係とは、そんな相互の負債を抱えた謂わば似たもの同士での錯誤の過程、または幻の過程での関係性のみを指し示す。

仮の存在としての物心に於ける不実な様、即ち分解としての限定性と尚克つ時間的な分解能を其れは有する。



其の分解能を有するからこそ、こうして我我は自然を自然として把握し人間を人間として把握することが出来る。

ゆえに此の限定の世界、檻の中の夢幻の世界に対してはまことに適した心身を我我は初めから与えられて居るのだ。


そして其の生身の心身が語り得るもの、乃至は心身の経験として敷衍され其処から語り得るものだけが我我の住する宇宙の範囲だ。


ということは宇宙もまた我々にとり限られたものであるに過ぎない。

限られた範囲での分解としての時空と分解能を持つ心身の関わり合いの世界を我我は生きて居る。


其の場合に事実としての経験則が其処に初めて生ずるのだ。

ゆえに事実の積み重ねは常に我々にとり現実である。



我我は其の事実としての現実を生きるようにつくられて居る。

そのやうに心身は共に分解され同等の分解能を保つに至って居る。



なので我我には我我の住する此の世界のことがまさに良く分かる。

そしてつまるところ、其処には何ら問題が生じないのだと言える。


然し我我にはひとつだけ問題が生じて居る。

其の観念としての言葉の檻、言葉の限界を生きて行かざるを得ない限りに於いては。

言葉が我我をそして外界を即ち他者を規定し得ない限りに於いて我我の現実はむしろ不実であり不幸である。



心身とはそのやうに誠実な馬鹿さ加減のことなのであり、逆に真理にとっての其れは言葉の檻に閉じ込められつつ行われる刑の執行のことでもまたあり得る。

即ち我我の現実、事実の積み重ねつまり歴史とは其の類での刑の執行にほかならない。

心的領域と物質的側面が共に其の冷酷な刑の執行なのである。



ちなみに心を持つこと、或は体を持つこと、が共に犯罪である。

完全性ー神仏の領域ーに対する犯罪なのである。



従って教科書にもあるやうな、或はまた藝術の分野に於いて感動させられるやうなあらゆる美談めいたお話し、たとへば命を大切にしませうとか、弱者を労わりましょうとか、そうした一見立派なお話が本当は全て嘘でありクソくらえの偽善なのである。



本当の本当は此の世は身心の為の監獄である。

否、心身を持たざるを得ない程に不純な何かである己に対する愛の現場である。

其の愛こそは利己愛であり矛盾としての愛である。

且つ又盲目の愛であり倒錯の愛である。


とどのつまりはかの地獄を愛するだろう愛の愛のことである。



最終的には其のやうな莫迦が一人宇宙に抛り出される。

よって心身とは其のバカの付属品であり、即ち我我自身の限界を何より如実に示すのが此の心身の存在でありまた此の世界が嘘の上塗りの世界であることの証左なのでもある。

ゆえに最終的には其の心身に捉えられし己のバカさ加減と格闘し解脱を目指すのが全人類に与えられし生の課題であり生の目的である。



其れも言葉の檻の中で其のことを成し遂げていかねばならない。

言葉の変態性、変質者振りが我我をして檻の中に閉じ込めて居るのであるから、まずは其の呪縛を解いて清い心根を、即ちまっさらさらの静かな心をもう何としてでも取り戻さなくてはならない。



なんとなれば言葉は最終的には虚であり、呪縛でありかつ呪術である。


其の呪術が身心といふ檻を呼び寄せあろうことか世界と同化させて居る。

不完全かつ真理に対しては不実な世界を、己として知覚ー錯覚ーされる身心が其の自らを誠実に縛り付けて居るのだ。



従って我我の真の姿とは其の呪術師としてのお化けのことである。

我我は一人一人がお化けであり、尚且つ文明だの思想だの、または宗教だの文化だの、そうした諸の規定でさえ本当の本当は全ておバカである。


うんにゃ、お化けである。

サテ此処に化け人間が一人。

また一人と集まり其処に化け文明をつくり上げ其処でつひ真理を忘れて仕舞った。


其の真理とは限定といふ言葉の檻を超えるもの、言葉以前での完全性のようなもののことだ。

だが完全なものには真理は無く、また其処には言葉も無い。

ましてや心身も無く、時間さえもが無い。



何故なら分かれる必要がないからなのである。

分かれるから盲目になり嫌でも存在して仕舞うこととなる。

分かれないもの、ゴチャゴチャして居ないものは静かでしかも美しい。

其れ自体が完全なので其のようにしか我々には見えない。



だが分かたれし我々には其の完全性、言葉以前での美の様への縁が元々存して居ない。

ただひとつ神仏といふ窓口を除いては。




心身とは牢獄である。

そして罪である。

或は不完全である。

もうまるで言葉に置き換えられし嘘である。



其の嘘を本当だと思い、花は、女は、そして森はきれいだと思いつつまさに其の牢獄の内部を生きて居るのが我我人間である。


尤も牢獄の内部を生きて行くには此の腐った心身が何より必要である。

つまるところ我我は矛盾を矛盾として生きる何者かなのであり、かつ矛盾そのもののことだ。


其れも心身を持つ矛盾である。

何故なら矛盾は身心を抱え持つ運命にあるからなのだ。


そのような矛盾を今として捉え得るのであれば、少なくとも搾取したり破壊したりといふ餓鬼、畜生道の有様を心静かに見つめて居られもしよう。

なので心身の問題こそが真理を具体的に考える契機を我々に指し示すものであろう。