目覚めよ!

文明批判と心の探求と

愛とは何かーⅠ


さて愛とは何か、と云うこの古くて新しい問いが常に私の頭の中にある。


また近年は特に此の問題の重要さを突き付けられて居る気がしてならない。


まさに殺伐とした現代社会の有様を見るにつけそう思わざるを得ない。


愛とは果たして創造なのか、それとも破壊なのか、或いは其のどちらともつかぬ矛盾、迷妄の類のものなのか、そんなことは考えれば考える程に分からなくなり誰も答えを得ることなどかなわぬ。



だがおそらく愛の本質とは矛盾であろう。


創造であると同時に破壊であり生であると同時に死、そして愛であると同時に憎しみなのであろう。




さて此の矛盾をどう克服するかと云う点につき考えて来たのが宗教である。



けだし宗教とは実は矛盾には弱い。


何故なら宗教自体が矛盾的概念なのだから。



なんとなれば宗教は良いと思わせるやうなことを述べ立て此の悪い世の中を存続させていく。


ですので宗教程矛盾的な存在もまた無い訳であります。



其の点一番凄い宗教は原始仏教であり其処では人間を解脱に導き二度と此の世に生まれて来ないやうな心にすることが目的ですので事実上愛も何も無いのであります。



むしろ愛と云うものがどんなにバカバカしく意味の無いものであるかと云う事を悟るつまり気付くのが釈迦の教えの内容であり其れは普通の人間=凡夫の考えとはまさに正反対での心理的傾向です。



愛はバカバカしいものであると気付くと此の世を愛してやまぬ気持ちが失せ己がまるで虚の空間を漂うゴミか何かのやうな気分になりおそらくは其れが真理への気付きの為の第一歩です。



が、愛が無いと兎に角何もかもが潤わないです。


なので潤いとは即ち愛です。



潤いとは合理主義からは生まれないものです。


潤いとは命が持つ優しさのこと。



植物の蔓や葉の形に見られる優美さ、またはあの黒猫の毛並みの美しさ。


こうして何にでも美が宿ります。


どんなものにも生の潤いが充ちて居ます。



其の潤いこそが美です。



然し同時に植物は食われ枯れ果て黒猫は闘いに明け暮れ謂わば破壊的な生をも繰り返すのだ。


人間も同じで、いや、人間だけが少し違い可成に頭の方が異常である。



人間だけが馬鹿なのでなるべく生まれて欲しくないのだが其処であえてお釈迦様は人間は成仏出来る機縁に恵まれて居るのでまだしも良いとそう思われたのではなかったでしょうか。



然し其れは人間が特別に良いとか優れて居ると云うことではなくむしろ逆に人間こそが極悪犯罪者であり悪魔そのものでありたった今消えて亡くなるべき存在なのでそう仰ったのです。



要するに罪障の度が深い、深過ぎる人間共は一度は偉いとして褒めておき何とか教導してやらぬと此のバカ共はそれこそ淫らな性欲や大金への欲、権威や権力への欲、ギャンブルへの依存、アル中やヤク中などにどうしても陥り易いのでそう仰ったのです。



人間の生に潤いが欠けるのは欲望が大き過ぎるからです。




植物や黒猫はそんなデカい欲は持とうとしても持てない。


だから彼等は人間より清浄なのです。


清浄な心的領域に生きて居ります。



従って植物の方々やお猫様、お犬様などに出会ったなら兎に角こうべをたれ或はひれ伏して尊敬の念を抱かなければならない。




然し人間を殺してはならない。


こいつらはバイキンだとばかりにみだりに人を殺すとまさにあのオウム真理教のやうなことになります。



正しくは人間は別に生きて居ても良いが常にひれ伏して生きていなければならないと云う事です。


ひれ伏して生きていなければならないのに淫らな生活に甘んじて犯しあい殺しあい憎しみの連鎖を続けるだのそんなことばかりしているとあと廿年で人類は滅亡します。



人類滅亡は、実は仏法上悪いことでも何でもなくむしろ必然のことなのではなかろうか。



それと共にキリスト教に於いても人類滅亡は、実は悪いことでも何でもなくむしろ必然のことなのではなかろうか。



ちなみに仏教とキリスト教では愛に対する捉え方が可成に異なりますが実は共通して居るのが現世への悲観主義的な見方です。



つまりはどちらもストレートに現世を肯定し此の世で欲望を開花させることを是とはして居ないのです。



まあどちらも屈折して居りますね。


でも宗教の屈折は藝術に於ける屈折度とは異なる。



藝術は大抵の場合突き詰めると自己破壊に至りますが宗教は基本的に破壊することをしない。


でも最終的には世界を破壊するのかもしれません。



信仰以外のものに対する破壊がもしやあるのかもしれません。



ところで何故一流の宗教は悲観的なのでしょうか。



だからそれが、此の世の本質である矛盾性に対する正直な方向性であるからです。



もしも此の世が良いところでしかも無限であるとするならば宗教は要らないと云う事になります。


おそらく科学だけで行けて仕舞うことでしょう。


人類は無限に欲を追求していけば良いのです。



ですが無限と云う事はそも此の世では成立しないと云う事をかって私は述べましたね。


逆に此の世は限定なのであり分解なのでありしかも認識上の錯誤なのです。



其処を間違って見て居てはいけないと云う事です。


科学と云うものは其れがそも分かっていないので私にバカだと言われても仕方が無い。



近代と云う厄介な時代もまた然りで其れがそも分かっていないので私にバカだと言われても仕方が無い。




ほんともうバカばっかり、ですわ。


ただ私の場合は反省も出来るので自分もバカだとほんたうにそう思っているのです。



こんなにも頭と心の出来が同時に悪いと死んでから一体何処へいくのだろうか。


また何処かの星で女の股の間から生まれるにしてもだ、またぞろバカ、莫迦と皆に蔑まれ生涯孤独でもってただ批判精神だけが突出してある。



だからまた其処の星のことを馬鹿莫迦と言い続け其処にはもはや詩もクソも無くただバカが、其の言葉の羅列のみが永久に続くのであらう。ばかばかばかばかと。




ところで批判が愛か否かと云う問題が生ずる。


愛とは一体何か。


愛とは矛盾をあえて引き受ける力のことなのかもしれない。



たとへば女は愛である。


女とは矛盾化した本質に於ける愛の過程である。



だから女はバカである。


女のバカさ加減に付き合える理性など何処にも無い。



でもバカだからようやく生きていける。


生の優美さや黒猫の毛並みの見事さは全て此の女のバカ即ち本能的盲目的な生への意志から生じて居る。




つまり美はバカが用意する。


対して理性は美を用意出来ない。



美を設えるに必要なことは矛盾化した本質即ち愛のことである。




其れを思えば、嗚呼、美しい。


女は美しい。


バカなので兎に角美しい。



そして黒猫の毛並みも植物の蔓も皆美しい。


何も考えて居ないのでかえって美しい。



然し考え過ぎた科学が創り出すものは皆醜い。



文明が創り出すものは皆醜くそして潤いが無くつまりは殺伐として居る。




何、女が美しい?


本当にか?


ほんたうのほんたうにそうなのか。



女など皆醜いのではないのか。


何せ心が腐って居るゆえ皆醜いのではないのか。




いや、其れは分からん。


確かにそう云うこともあるのかもしれない。



然し、此の潤いは何だ?



潤い、此の女の肉が醸し出す潤いの正体とは何だ?


男共が沢山集まっても決して出て来ない此の潤いの色っぽさとは。



色っぽい、即ちエロースの、其の優美なる、そして大馬鹿の倒錯の世界。



コラーゲン、または淫乱なる性欲の巣窟がこんなにも眩しく我に迫る。


女の肌が、其の白い肌が其処にましますあらゆる矛盾を、生の倦怠を手玉に取り宗教さえをもこえて突き進んでいく!




即ち女は愛であり、愛とは矛盾である。



此の世とは愛であり、愛とは錯誤である。



そして真実の愛とは信心である。



此の腐った世界を愛する矛盾こそが其の信心である。


尤も信心は信仰とは違い壊れ易い。



女がつひ腐ったり浅知恵に陥ると容易に壊れる。


でも壊れやすいのが美なので其処は辻褄が合って居る。




ところで何故女は信心に入り易いのだろうか。


男性は信心せずとも生きて居られるが女は兎に角何でも信じたがる。


まるで信心の為に生きて居るやうなのが女の特徴である。



そして、いざ信じると、どんな極悪非道な男でも付いていく。


たとへ子供がどんなバカでもどこまでもどこまでも愛してやまない。



そして現実的な権威、権勢の力に容易になびく。


つまりは良く云われるが如くに現実だけを見詰めて行動して居る。



意思決定が決して合理的ではない。
そして合理的ではない力にだけ屈する。


或いは信心する。



愛があるのに美があるのに実は愛がなく美しくもない。


愛がなく美がない男性には実は愛があり美が存する、のか?



いずれにせよ生を成り立たせて居るものの正体とはそんな矛盾のことだ。


女性とは其の矛盾の忠実な僕である。



だからこそ信心する。


つまるところ女とは生への信仰の民である。


なので特に宗教に頼らずとも充分に信心深い。



信心深いからこそ妙に美しく見えるが其れは表面上のことで中身は常にドロドロである。


然し其のドロドロのものこそが世界に潤いを与えることだろう。


そして其のドロドロこそが愛の正体である。

愛の原形質流動とでも呼ぶべきものが其処にはありまさに其れにより女共は愛の生涯を貫く。


無論のこと其処には理論などは無い。

有るのはただドロドロの子宮の奥のまっ暗闇だ。


そうだ、其の真っ暗闇から我我は生まれ、そして女共の生への愛を体内へ移植される。


だからどんな不良でも母ちゃんの為ならエンヤコーラと回心しやがて家庭を持ち意外と立派な父ちゃんになって仕舞ったりするものだ。

ところがインテリは、インテリ共の頭の中身だけには此の愛が通用しない。


即ちインテリの頭の中には懐疑が渦巻き理論が駆け巡って居る。


だからそういう理屈っぽい男性はまず真っ先に女に否定されるから兎に角一番気をつけなければならない。

ではどうしたら女にモテるのであろうか。


それはもう兎に角女の好きなものになりきれ、其の場だけでも良いから変身するのだ。

即ち猫になったり犬になったり挙句の果てに亀や蟹になり泳いでみよう。


そうすると此の人はバカだと思われアナタの知性の鋭さを隠すことが可能である。

そうすると元々バカな女は騙されて逆にお説教などして来ようから其れを黙ってただ聞いてやるのだ。


左様に女の心をわしづかみにすることは宝くじに当たるが如くに難しいことだ。


女は正攻法では落とせない矛盾の城である。

矛盾を矛盾にしないのは理論では無く感情である。

だから感情論で押しまくれ。


さすれば余計に感情的になりし女に君は振られる。

潤いが、愛が、永遠に去り君は一握の砂になり道に蒔かれた感じになる。


嗚呼、哀しい。

どうしてこんなに哀しいのだ。

たかが女にフラれた位で何故にこんなに哀しいのだ。


其れは潤いを失ったからだ。

矛盾と云う愛の源泉からの潤いを失なったからだ。

生と云う悪夢への信心と祈りの念を同時に破壊されたからなのだ。

またついでに美も破壊される。

何故なら美とは矛盾としての愛から生まれ、潤いそのものへと至る道程のことなのだから。