目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

仏教とは死後の幸せを求めるものですか?



此の問いに対しお坊様方が懇切丁寧に答えて下さって居ますので其処は何かと参考になることでしょう。


では僧侶の方々に代わり自称の仏教詩人であるわたくしめが答えさせて頂きます。



此処ではまず、幸せとは何かということが問題となります。


世俗的な幸せとは豊かにそして楽しくー安楽にー暮らすことを言います。

また自己をも含める一族郎党、または自己が属する国家が豊かにそして安泰で続いていけば其れで良い訳です。

或は自己が奉ずる思想乃至は道徳、哲学、宗教が世に認められたものであればまず人間は安心することが出来る。

ましてや其れが強い勢力として世界に拡がるものであれば、猶更心強く精神的な不安を拭い去って呉れるのである。



そんな風に、一般的に云う人間の幸せとは実は可成に利己的なものなのです。

そして極めて限定的なものなのです。

実際宗教ひとつ、或は人種ひとつ、または猫好きか犬好きかということひとつにしても大抵意見は真っ二つに割れ其処で理解し合えることなどありません。


何故理解し合えないのかと言えば、其れは人それぞれに観念のあり方が違うからです。

そして狭い範囲での観念的希望を抱かされるような限定を生きることでまさに其の違いが与えられて居るからです。



が、ことこの幸せの定義に関しては普通の人間ー覚者以外の凡夫ーに普遍的な傾向が色濃く認められる筈です。

即ち自己をも含める一族郎党、または自己が属する国家が豊かにそして楽しく続いていけば其れで良い訳です。

或は自己が奉ずる思想乃至は道徳、哲学、宗教が世に認められたものであればまず人間は安心することが出来る。

此の種の幸せを一言で表現すれば、其れは現世利益ということでしょう。



そう普通人間は現世利益を求めて今を生きて居るのです。



然し宗教、藝術、學問などの範疇では必ずしも其のことが当て嵌まる訳ではない。

実際自己を捨てて宗教の為に生きる宗教家や命を懸けて作品を生み出す藝術家、自説の構築の為に生涯を捧げる學者というものは屡存在しているものです。

彼等にとっては、今が物質的、社会的に幸せであるかどうかということは絶対的な幸せの条件ではなく、自分の信じた道を完遂することこそが其の絶対的な幸せの条件です。


ただし、之もまた高等な意味での現世利益を求めて今を生きることです。


ですが其の現世利益を求めて今を生きることは本質的な幸せには繋がりません。

何故なら此の世の本質的な価値が無価値であり、即ち仮であり実体の無い虚妄の世界に過ぎないのですから其処で本質的な価値=本質的な幸せなど得られるべくもないのであります。



では一体何が本質的な幸せなのかということになります。

本質的な幸せとは、此のやうに迷いの心が生じさせて居る虚妄の世界から一刻も早く脱け出すことを指します。

どんな苦にも惑わされることなき常楽な世界で永遠に無であることが其の本質的な幸せです。

そうした世界のことを涅槃と言います。



昔俳優の沖 雅也さんー彼はいかにもハンサムな方でしたがーが自殺され其の遺書の中に、オヤジ、涅槃で待ってる、とか何とかあったようですが其れは誤用です。


尤も浄土系の宗派に限ればそうした言い方が成り立つのかもしれませんが、本来は人間は涅槃になど普通入れません。

たとえ釈迦の少し下位まで勉強したり修行したりしたとしても其れは無理です。

従って私にも無理ですが、わたくしの場合は詩人のあがきを其処にプラスして何とか涅槃に入っていけないものかと常に考えて居ります。



學としての観念的苦闘と藝術の上での苦悩と宗教的な格闘を全部+すれば何とか涅槃の近くに行き得るのではないかとそうも思うので御座います。

またそう思うのでわたくしの場合はまさに声聞、縁覚止まりで本当の本当は悟りには程遠いのだが其れを自覚して生きて居る分だけ兎に角目覚めては居ります。



そんな訳で幸せというのは実はかなりに幅が広い内容を含むものであることを考えておかねばならない。

第一詩人は作品として言いたいことを世に伝えることが出来れば其れこそがもう本当の幸せ=本望です。

もう本当に子孫なんて要らないからまずはそうしていかねばならない。



そう考えますと、幸せということの限定性自体が明らかになって参ります。

然し仏教で捉えられる幸せとは、あくまで永遠かつ常なる範囲での幸せです。

即ち限定されることの無い幸せです。

或は普遍的な幸せのことです。



すると、其の普遍的な幸せにとっては、自己をも含める一族郎党、または自己が属する国家が豊かにそして楽しく続いていくことや自己が奉ずる思想乃至は道徳、哲学、宗教が世に認められたものであることや自己を捨てて宗教の為に生きる宗教家や命を懸けて作品を生み出す藝術家、自説の構築の為に生涯を捧げることなどはむしろどうでも良いようなことばかりとなるのです。


普遍的な幸せとは、真理を生きて此の世の牢獄から脱け出すことですのであらゆる努力から脱落することでもまたあるのです。



即ち努力などして居るうちは悟れないので結果として涅槃に達することなど出来ない。

謂わば努力そのものを放棄していかねば涅槃になど達することは出来ない。



そんな訳で、普遍的な幸せとは要するにまともな人間の目指すところのものではない。


普遍的な幸せ即ち涅槃を目指すのであれば、其れも本気になり目指すのであれば、たとへば東南アジアへでも移住して其処で小乗仏教の僧にでもなり生涯食事としてのお布施を受けつつまさに衣一枚、托鉢の鉢ひとつだけ持って生き挙句に其処で野たれ死ぬことを是非お勧め致します。



其れで、死後の幸せとのことですが、死後には幸せも何もなく悟りもなく何もなくHもなく何もなくクサいも何もなくウマいも何もなくキモいも何もなくバカもリコウもなく金持ちも貧乏もなにもない。


死というのは不可知の世界のことですので基本的に考える必要のないものなんです。

釈迦は死の問題や宇宙の問題、或は社会の問題などにつき考えようとはしなかった。

何故なら其れ等につき考えることが仏教の目的である普遍的な幸せには繋がらないことだからです。



従って仏教に於ける基本姿勢は生きて居るうちに其の心のあり方を正すというただ其のことだけなのです。

ですので真の仏教徒は生きて居るうちに普遍的な幸せを求め生きるべきなのであり、然し其れを努力するだけでは到底成仏出来ないのでどこかでもう全部捨てて仕舞う、アレ、いつのまにやらもうスッカリホームレスだ、という位に人間であることを辞めるか生きること自体を鎮静化していくことが必要です。


ゆえにたとえ死んだとしても何も変わりません。

心を変えることが出来るのは生きて居るうちだけのことです。