さて果たして文明とは何か、という問題である。
畢竟文明とは母性原理の体現だとも言えそうである。
然し、本来ならば実存的存在には父性原理の方も併せて必要なのである。
父性原理と云うのは、叱る力であり抑える力である。
其の力の喪失が文明をしてあてどもない放浪へと、此の根無し草としての虚の世界観の構築へと向かわせたのだ。
近代以降、歴史過程としての母性原理は文化をして文明化させて来た。
即ちより快適に、より楽に、そしてより大きくー多くーという価値観である。
そりゃあアメーバだろうが昆虫だろうが猫だろうが何だろうが皆お母ちゃんは皆此のことこそを願いいやむしろ其のこと以外には元来何の興味も無いのである。
ゆえに母性原理とは基本的に本能領域のものである。
其の本能領域を基準として展開されて居るであろう自然界の営為は然し矛盾化されることはない。
何故なら其れは小さいー限定されたー領域で営まれて居る。
ところが文明とはもはやそうしたものではない。
ズバリ矛盾である。
それどころか、文化でさえ其のズバリ矛盾である。
然し文化が、此の文化こそが其の矛盾回避が可能な最大の単位だったのである。
即ち文化のスケールで語られるところでの人間の営為はかろうじて、まさにかろうじて破壊へ向かう方向性ー悪魔の所業ーを食い止め得たのである。
たとへば中世、此の世界観こそが其のギリギリの線であった。
されど必然としての世の矛盾性は、其の越えてはならぬ一線を踏み越えて仕舞う。
謂わば其れが近代である。
近代とは其のやうな必然としての自滅行為である。
其の自滅行為自体につき考え、そして自滅行為を止めよう、少なくとも文明と行動を共にはしたくない、オレはこんなに考えたんだぞ、其の揚句にもう全てがバカバカしいので何も言わぬ。
その代わりに人間自体を批判してオレは若死にする。
もう其れで良い。
事実付き合って居られないものに付き合って居ることほど愚かなこともないわな。
尚其の母性原理を批判することは殆ど不可能である。
第一一体誰が母ちゃんの愛を、アンタが生まれた瞬間から連綿として続く其の母の盲目的な愛を否定出来るというのか。
誰が、アンタ、誰が其の子猫達の、其の産み落とされた野良猫の赤ちゃん達の面倒をみる母猫の愛を否定し得るというのか。
だからそんなものは否定出来やしない。
即ち本能は即否定出来ない。
否定と云うか抑制することが可能なのは言うまでもなく大人になってからのことである。
即ち理性的に獣性を抑制する他はない。
其処で結果的に母性原理を否定することが可能となる。
だから其れが父性原理の力だとも言って居るのだ。
尤も文明とは、むしろ父性原理の体現ではないかと捉える向きもあることだろう。
然しわたくしはそうとは捉えない。
況や文化の領域に於いてもそうだ。
云うまでも無く文化とはメスの営為である。
だからオカマは大抵文化的である。
そして実は我も可成に、いや、実はしつこいばかりに文化的である。
兎に角文化人なので、其処はもうほんたうに困って居るのである。
文化は金がかかるし心の根が優しいから世の中の汚らわしさにカンタンに凌辱されて仕舞う。
つまりは手籠めにされそうなの。
其れが怖い、いや、兎に角我慢がならぬ。
ならば何故文化的母性原理の自立を認めないのだ?
ーなどと思想的帰結とはつひ反対のことを云う羽目となって仕舞うー
其のメスの営為は文明の段階に於いて雁字搦めにしつつ抑えておく必要が必然的に生じる。
戦争?
ああ、戦争も武力つまり力の論理も須らく其の母性原理の一形式である。
何故なら、子を守る為には強い父ちゃんが必要なのであるが、其の強い父ちゃんは母ちゃんと子猫を守る為にそう創られたものなのである。
快適性の追求即ち自己保存欲の追求という目的を達成するが為の一形式なのである。
なので父性原理もまた母性原理の胎の中でのものだ。
むしろ母性原理から産み落とされたものがソレなのだ。
問題は、文化の段階では父性原理が母性原理と分かたれる必要がないと云う事なのだ。
ところが文明は必然的に父性原理の分離を促す。
すると、文明に於いては母性原理だけが幅を利かすやうになる。
資本主義に於ける過酷な競争も、帝国主義的な搾取構造も、はたまた都市化も過密、過疎化も全てが此の母性原理の望む自己保存欲としての利己主義の賜物である。
それから先程述べたが如くに戦争、軍拡競争、科学技術、宇宙開発、なども皆此の母性原理の望む自己保存欲としての利己主義からの賜物である。
だから逆の性質、逆のものをもっとシッカリ見つめていく必要がある。
実際そうせざるを得ない。
然し父ちゃんはなかなか家に居つかない。
実は父ちゃん程難しいものはない。
気紛れかつ暴力的で、おまけに色好みである。
其れで、電車では我慢が効かずにつひお尻を撫でて仕舞いいざみつかると大慌てで線路を走って逃げていく。
あれ、また逃げたのか、まさに命がけだね。
其れは偉い、いや、偉くはないが凄い。
父ちゃん、此の物凄い力、まさに星 一徹のやうなあの力。
どうも其の力こそが必要なのではないか。
と云うのも、最近気付いたのですが女には此の力が無いのです。
自己保存欲とは反対の力、謂わば飲む、打つ、買うの其の力。
遊び回ってつまりは放蕩してなかなか家に寄りつかないがいざ帰れば厳しく女房と子等を躾ける其の力。
或は其れが三島先生が求められし力のことなのだろうか?
或はかの太宰が現実的に堕落せし其の力、または芥川が観念的に追い詰められし其の力。
悪の力、悪夢を育む力なのか?いや、逆に悪を諫め悪夢を終わらせる為の力なのでは。
いずれにせよ、其れは現実的に生を営む力ではないのであります。
無頼が、或は理智が、乃至は武による統制が其の日の飯の種となる訳では無論のこと無い。
だから女性に其れは分からない領域である。
偉ぶって居るどんな立派な女性にしても其れは理解されないのである。
何故なら子宮、女共は是にほぼ百%規定されて居る。
だから其処からの命令に対しある意味合理的に動いて居るのである。
さういふロボットこそが女だ。
だが、其のロボットにこそ母性は宿る。
ゆえに命の母である彼女達を誰も否定することなど出来ない。
母性原理から産み落とされし文化が、そして文明が矛盾化しあろうことか父性を、其のパートナーとしての父性原理を殺して仕舞うのだろうか?
だとすれば其れは最も恐ろしいこと、まさに神を殺す以上に恐ろしい現実なのだ。
そうだとすれば文明に於いて最終的に男性は皆死亡しー精神的にー、或いは男の形だけを持つ男だけになる。
或は女が男に化け、本質が女なのにどう見ても男といふそんなものばかりになる。
事実すでに此の世には星 一徹など居ない。
そればかりか三島先生も太宰も芥川もとっくに居ない。
無頼、頑固、観念的倒錯に関するあらゆる因が消され妙に女クサい生活至上主義の世界が出来上がりつつある。
しかしながら、其れではイカん。
無論のこと男と生まれたからには飲む、打つ、買うを指向せずして何とする。
ゆえにサア、飲め。
そして悪所でもって思い切り遊んで来い。
それにカジノへ行き一千万位は賭けて来い。
うーむ、一体何でこんな風になったのか。
こんなことは口が裂けても言わないつもりだったのに。
無論のこと父ちゃんの力は、こんな近代風のサラリーマンの精神などではない。
事実動物の父ちゃんなんてもう仕事なんか金輪際して居ない。
たまに巡回して、時にメスを犯し、後は気ままなことをしつつダラダラとして居るだけ。
そんな素晴らしい父ちゃんの力を、近代は此の莫迦近代はまさにまさに永遠に奪いつつある。
しかも其れはメスの胎の中の欲望からそうなって仕舞って居るのだ。
即ち自己保存としての利己的な願望が、其の誰も批判することが叶わぬ母性の連なりが近代の仕事熱心の似非男性達の群れを創り上げて居る。
嗚呼、恐ろしや。
恐ろしや、恐ろしや。
もう今すぐにでも宇宙へ還りたい。
いや、此処が其の宇宙の一部であった。
莫迦近代はさうして本質的に男性を締め上げ、代わりにAVだの車だの何だのと要らないものばかりを与え我我男性を欲望のドレイ化、即ちメス化させるに至った。
然し男性は特に日本国の男性は目覚めなければならぬ。
今此処に至りて、つひ自分がメスになって居たことをしかと自覚し今一度、是非今一度自分の中の星 一徹を、そして太宰を芥川を三島先生を、己の心の深部より掘り起こし確り其れにコミットしていなくてどうする。
だから線路を逃げるだけでは男にはなれない。
そうではなく是非無頼派たれ、放蕩をばよしとせよ。
家庭などもうクソくらえだ、給料はもう全部俺の物だ。
わたくしはそういう悪人でもう食い逃げ、やり逃げするだけである。
嗚呼、素敵だわ。
もうまるで男だわ、これぞこれこそが真の男。
左様に文明とは母性原理の齎す自己矛盾領域である。
ゆえに文明は必然として生の+の側面ばかりを向く。
然し生には+の側面ばかりではなく-の側面もある。
たとへば子は、五匹産み落とされてもほとんどが食われたり死んで仕舞うのである。
其れが自然の摂理でもあるところでの自然界の合理性の体現である。
ところがメスの欲望は此の五匹の命を全て生かそうとする。
文化とはそうしたことであり、其れが文明規模となっても其の欲望だけは不変だ。
然し文明規模に於ける其の利己的な欲の集積は結果として文明を破壊するに至る。
即ち愛こそが、其の利己愛こそが文明を破壊する。
其の愛は、母性なる愛は、文明以前の段階でこそ発揮されるべく規定されしものなのである。
ゆえに愛は地球を救う、のではなく、愛は地球を滅ぼす、のである。
ただし愛にも色々あり、文明に於ける愛は普遍化される過程を必然的に辿る。
普遍化されることなくば、文明に於ける愛は成立しないからである。
所謂母の愛ばかりでは即崩壊して仕舞うからなのだ。
然し其の普遍化されし愛ー宗教に於ける愛ーにも問題がある。
問題はあるがそれこそ難しい問題なので其の件についてはまた後日に論じたい。
父性原理の復権は以上の如くに最重要である。
されど文明は其の事に気付けないであろう。
何故なら文明とは母性原理の体現なのであるから。
尚思想的には左翼思想がより色濃く此の母性原理を体現して居る。
即ち人間を皆平等かつ緒権利を享受し得るものにしておきたい。
其れは一見正しいが、実は文明状態にあっては其れは実現されない考え方である。
無理に其れを行えば諸の破壊を必然的に生じさせる。
こちらは世界を闘争の場へと変えやがて核戦争で人類は滅ぶことともなろう。
ゆえにほんたうにお利口な考えとは、そんなんじゃなく、もっと根本のところを見据えて、母性原理中心主義を止めよ、同時に父性原理の復活を目指そう、と云うことになる。
でもコレこそが文明レヴェルでは不可能なことなのだ。
要するに文明化の度が進んだからこそ父性原理が失われていくことが必定。
だが我我が小中学生に巨人の星のDVDや三島、乃至は芥川、太宰の文庫本などをおススメすることは可能だ。
其処で是非日本の男子に無頼のやり方、或は怒った父ちゃんの恐さーちゃぶ台をもひっくり返すあの怒りの凄まじさーを知らしめていくことが出来る。
言ふまでもなくそのやうに思想改造をしていくことこそが教育に於ける本義である。