かように自然をナメて居ると人間は破滅を迎える。ナイアガラの滝に飛び込み生還の男性、2度目の挑戦で死亡
かように自然を征服した、自然こそはもう我にとり従僕だ、などといふ誤った考えに捉われて居ると必ずやこのやうに死んで仕舞うことになる。
そうか、ではこの際いっぺんくらい滅びてみるか?
第一其の滅びの為のあらゆる機は熟して来て居る。
正直わたくしもこんなバカバカしい滅びの話ばかりを続けて居たくはないのだが、それでも何処まで行っても愚かな人間、其の獣クサい、即ち猿人のやうな、まるで前文明的な、無知無明の莫迦共が闊歩する世界に偶然居合わせたばかりに、其の人間存在の莫迦を見詰める役目を仰せつかり此処にこうして出て来ざるを得ない。
さて、わたくしは以前より宗教戦争のことを述べて居た筈である。
或は此のブログの前の掲示板に書いて居る頃からそう述べても居た筈だ。
近代に於いて宗教そのものが矛盾化し戦争を引き起こす。
わたくしは昨今の核戦争の危機よりもより危惧されるものがソレだと考えるのだ。
尤も其の悲観主義から近代の楽観主義も生じて仕舞ったのではありますが。
其れも楽観に過ぎる思想に転化していって仕舞いましたな。
尚、わたくしは女性に対する正しい処遇をされて居ることだろうイスラム主義の考え方の部分には賛成です。
是非日本の女性も毎日を黒い喪服か何かでもって過ごしていくべきであろうとそうも考えるので御座います。
要するに欧米流のはしたないなりをした近代女が好きではない、いや、ハッキリ言えば大嫌いだ。
女はもうヘロヘロになるまでこきつかわれて、つまり夫の下の世話や育児や家事に追いまくられて実際其れで丁度良い塩梅だろう。
其れを自由とやら、或は平等とやらで解放解放、ついでに股の方ももう解放とばかりにもうまるでまさに売女の如きふしだらな、もうまるで魔物のやうな女ばかりが増え世界が腐りはじめても居る。
そのやうな軽ーい女、まさに貞操のテの字も知らぬやうな淫売婦ばかりが巷に溢れ、其処に家事の尊さを忘れ夫への尊敬を失いただただホストのやうな虚の男にだけうつつを抜かすといふ実に実に面妖な、乃至は奇怪な、特に我のやうに精神年齢が九十歳をこえた老人にはまことに嫌らしい、嗚呼もう見聞きするだけで汚らわしい、そのやうな世相をみるにつけイスラム主義が女を規定する其の在り方に共感と共に尊敬の念を覚えるのであります。
さういふ訳でイスラム原理主義の方々、わたくしはアナタ方の敵ではない。
ただしもしもアナタ方に襲われでもしたらわたくしも一人の仏教徒として戦わなくてはならない。
尚、わたくしは意外と喧嘩っ早くて、実は若い頃車のトラブルで相手の車をボコボコにしてやったことがありました。
もっともわたくしの車も其のお返しにボコボコにされて仕舞ったのでしたが。
ですのでわたくしはタダの観念的仏教徒ではない。
確かに今は暴力は嫌いですが、それこそ我慢が効かずにいつのまにか手足が凶器と化して居るタイプですので決して怒らせてはいけない。
ですが無論のこと普段は菩薩です。
ですがたまに阿修羅になることがあるので注意しなくちゃなりません。
さて、それにしても宗教の世界は一体どうなっていくというのでしょうか。
おそらくは宗教の世界も、ひとつの必然としての歴史の過程を今辿りつつあるのではないだろうか。
宗教というのは、煎じ詰めれば其れは限定物の為の規範であり文化である。
なので東洋の宗教と西洋或は中東の宗教は元々相容れないものがある。
ですので、宗教といふものは本質的に前近代的に成立するものである。
ということは、近代以降の宗教は必然として須らく解体されていく其の過程に於いて成立する疑似宗教である。
要するに完璧には機能し得なくなった宗教の数々のことだ。
ただし、近代化を免れて居る社会に於ける宗教はたとへ今でも本物の宗教である。
されど近代化といふ前提を経た宗教は須らく其のやうに変質していくのだ。
近代といふ原理は恐ろしいもので、まさにそのやうに社会の構成要件そのもの、或は人間そのものを解体せしめて仕舞うのである。
すると社会からは規範乃至は道徳といった、社会化された人間がよって立つところでの根っこでの価値観のやうなものが壊れていく。
其処ではそうした大事な価値の方こそが壊れていく。
その代わりにむしろどうでも良いやうな価値の方こそが尊重されはびこるやうになる。
だから金だとか、女の自立だとか、過度の自由や人権の尊重だとか、或は社会のロボット化だとか、虚の軍拡競争だとか、学歴だとか、まさにそんなものだ。
また或は家だとか墓だとか。
またはマイホームだとか。
然しよーく考えてみよう。
人間の生活とは、そうした諸の外面的な欲よりも内側の制御、心の内側の整理を行うことの方がずっと大事だ。
そうであればこその人間なのであり、生きて居る意味にも其れが繋がろうものなのである。
然し現代人はもはや其の大事な何かを失ったのである。
何故なら我我は今、其の信ずるに足る心の支柱のやうなものを欠いて居る。
こうして資本主義は日々さらなる金儲けをせかし、科学技術は我我の生活とは遠く離れた場所で再生医療だの、アンドロイドだのと謂わば我我の実感からすると要らぬお世話のことばかりを追いかけてやまぬ。
だから我我には今何も信ずるべきものがない。
信ずるに足る価値観がもう何処にもないのである。
こうした近代の社会の病に対して宗教は無力である。
否、確かに宗教は個々の世界、個々の価値観に対してはいまだ息づいて居る。
しかれども社会レヴェルに於いてもはや其れは機能することが無い。
近代の欲望は左様に虚妄化し実体を欠くものへと変容していく。
巨大な虚の欲望の塊と化していく。
つまりは此の社会を、近代という此の歴史過程としての最後の装置を制御し得るものがもう何もない。
あー、恐い。
兎に角恐い。
恐いからもうお家へ帰りたい。
いや、此処が家だった。
其の宗教が、まさに矛盾化する。
より良く生きる為の教えの数々が矛盾化し、其処で対立を引き起こし挙句の果てに戦争まで引き起こす。
ならば宗教がそも悪いのであるか?
うんにゃ、そうではない。
そうではなく、其れはあくまで近代が悪いのじゃ。
近代といふ悪魔ー悪夢ーの世紀こそが悪い。
或は近代をそも成り立たせて居る合理主義といふ一方通行の思想こそが悪い。
第一宗教は皆それぞれに真面目にやって居るばかりだ。
だからキリスト教は人工中絶には反対して来て居るし、仏教ではそんな何人もの男を相手にするといふそんなはしたない、いやふしだら極まりないことは金輪際認めて居りません。
其れでも近代といふ此の腐った思想が、其処でやれ人間は平等だ、女は自由だ、金は稼ぐべきだ、またやれ海外へ行きお外の世界がどんなに良いかを満喫して来るべきだとか、ウォー、俺は獣だ、いや、神だ、神そのものだ、だからこんな滝位は屁でもねえ、俺は人間だから神なんだ?ソレッ、もう一回飛び込んでやれ、もう何度でも何度でも飛び込んでやれ。
アーレー、ドッカーン。
といふことで彼はお亡くなりになりました。
このやうに行き過ぎた自信、行き過ぎた性に於ける快楽の追求、行き過ぎた金儲けと行き過ぎた宗教は皆悪魔の所業なのであります。
然し、限定された時空でのみ成立する宗教乃至は思想をあえて普遍化し、しかも其れがさも正義であるかのやうに振る舞いし米国の近代進歩主義に対しかってイスラム主義が発した疑義は決して非難されるべきものではない。
ただ、価値や価値観といふものは本来限定物なのであり、つまるところは様々に分かれて色々とあった方がより自然なのである。
其れを一纏めにしてしかも其処で文化的にも其処で一番になりたいといふデカ過ぎる欲望ー国家乃至主義の欲望ーこそが其処に悲劇を招くことだろう元凶なのだ。
其れと個の範囲でも、当然のことながら自分が何でも出来ると思い込んで居ては其れは悲劇を招く根本原因である。
自分はもう何も出来ない、わたしはもう此の地元だけで沢山、女なども此の年増な彼女だけでもう沢山、さらに自分は罪深きタダの一仏教徒です。
ほんたうは可成に世間を斜に眺め見下しては居りますが間違いなくタダの大人しい仏教徒です。
だから攻撃しないで下さい。
キャー、わたくしを撃つな、撃たないでー。
いや、別に撃たれても構わん。
君等が幸せになるのならばもう我などいつ死んでやっても良い。
然しここまで達観と云うか放棄の度が進んでは果たして我は此の先生き抜いていけるのだろうか。
ほんたうに其の事だけが最近少し心配である。
ただ菩薩の心で皆様を見て居りますわよ、いつも包んで居りますわよ、しかと此の心の中に。