No.6より
「中島義道という哲学者がそれを正面から指摘していますね。
いずれ死ぬ人間が、幸福になれるはずがない、なんてことも言っています。」
仰る通りで人生とは無意味なものです。
其れも元々無意味なものなんです。
其れにどだい生きること自体が無意味なんです。
生きることの中で、意味のあるものなど何一つ無い。
たとえ憧れの女性を口説いてマイホームを築き子供が出来たにせよ、或は一流大學を出て一流企業に入り其処で出世して偉くなり沢山稼ぎ大きな家を建てたにせよ、そんなものは畢竟真理の流れからすれば取るに足らないやうなことばかりです。
むしろ其処で進んで真理方面へ歩み寄る、即ち仏道修行を目的となし生きて居るやうな人は偉いと云うか意味ある人生を歩んで居られることかとも思うがほんたうのほんたうはそればかりでもない。
むしろそうした形に捉われし修行のあり方が成道への道を閉ざすことにもなりかねない。
ー目的に対してーそう思い込むことがすでに欺瞞、偽善の様相を帯びて来るのが此の世の真の意味での地獄性です。
なので此の世はとんでもなくバカバカしいところでそれでもって此処では何一つ規定し得ない、価値化することが出来ないという所位までは是非考えておく必要がある。
然し此処まで来るともはや思考の限界へと近づく。
そうするともはや何ものも信じられないばかりか、目に映ずるあらゆるものが人とは違った分解能で見えて来たりも致します。
まあ気が狂う一歩手前位まで此処で考えて仕舞って居ります。
然し観念上は左様に何処まで考えてもあくまで人生は無意味です。
ですが、其れはほんたうのことなんです。
あくまで人間にとっては此の世は無意味としか言いようがない。
と云うのも人間は分解されて居るのです。
幸か不幸か、あれら鉱物や動植物とは別物に仕上がって居ります。
其れで、鉱物も動植物も考え込んだりはして居ない。
ということは、考え込む其の事こそが我我を苦しめて居る。
無論考え込んだりはして居ない鉱物や動植物は幸せかと云えば本質的には幸せではない。
ただ人間に比べれば半分位しか罪がない。
ゆえに苦しみも少ない。
苦しみが無い訳ではないのだろうが。
然し人間は特等の罪人で、其の考え込む癖、即ち理性がある分の苦しみがモロにふりかかって来て居ります。
だからわたくしは人間であることが嫌だ、イヤだ、といつもそうゴネ続けて来て居ます。
つまるところ人間である、人間として此の世に存在して居る事自体が明らかに宇宙一の犯罪である。
ですので人間を辞めたいのであります。
わたくしは。
でもこんなことを言う奴は流石にネット上にも見当たりません。
別に死にたいのではないのです。
人間であることから解放されたいのであります。
実際嗚呼、早く解脱したい。
此の腐った岸の方から、彼方の岸、アノ清い水の流れる方へと渉っていきたい。
それで、何で人間はいつもこんなに苦しいのだろうかと最近は其の事ばかりを考えて居ります。
しかも仕事もこなしつつこんな宗教詩人をやって居るところがもう本当に自分でも偉いと思うしかない。
だからわたくしはヒマがないのだ。
でもまあいい、そんなことは。
さうして分解されし人間は理性ー知性ーの領域で元々不合理な死を理性的に捉え直そうとする。
でもだからこそ苦しいんだ。
また矛盾といふ世の実相に対して論理的な解決を図る。
でもだからこそ苦しいんだ。
ところが、此の苦に慣れて来ますと、即ち四、五十年にも亘り此の観念的苦闘に慣らされて居りますと逆に其の苦に対する愛着のやうな感情が湧いて来たりも致します。
だから嫌なんだけれども、実は此の苦を愛する、其の人間であることは金輪際イヤ、イヤだけれども此の苦しんで居る自分は好き♡といふ実に面妖な、或は奇々怪々な情念と云うか情欲のやうなものに突き動かされても参ります。
で、こういう人間は、結局は成仏出来ない。
出来ないが、少なくとも苦闘は為し終えた。
苦闘せよと云われた分の苦闘は為し終えた。
との実に晴晴した気持ちで、わたくしは死に臨むのです。
ゆえにわたくしは少しも死を恐れてなど居ません。
だってむしろ死は解放でしょう。
本質の解放ではないが、少なくとも現状からの解放です。
逆に生の方が死?なんです。
死の方が生?です。
生は生のやうで居て実は生ではなくズバリ地獄=死です。
死は死のやうで居て実は死ではなくズバリ天国=生です。
いや、ほんたうのほんたうはそうした区別をも超越することです。
ただし心の状態ー心的なレヴェルでのエネルギーの質と量の差ーによりおそらくはまた生が生じましょう。
が心の状態が高みにあればおそらくはもはや生の苦労が生ずることはない。
其のやうに分かたれない方が良く、其れが真理です。
ですので死は本質的な救いではない。
されどインターバルとしての休息は其処に与えられよう筈です。
なので何故死を恐れるのですか?
死よりも生の方が余程に恐いことではありませんか。
尤も其れは心の段階によりそう見えて仕舞うということなのでしょうが。
其の人生が無意味だといふことを悟るのは理性ー知性ーにとっては意義のあることです。
ですが其の覚醒は即矛盾化致します。
つまるところ其の小悟は即矛盾化し生にとっての悪魔の唆しともなり得る。
事実さうした仙人思考が生きることの為に役立つことは何ひとつない。
生きることは、飲む、打つ、買う、という此の嫌らしい実にイヤらしい三欲にて展開されるところでの謂わばものの分からないことだろう莫迦の為のステージなのです。
其処でスターの方々が、其の健全なる欲望をムラムラさせておいでのまさに其のスタアの方々が正しく欲望を発散させたところでのショーこそがまさに地獄の生の様=性の様そのものだ。
だからそんなところに小悟の思想を持ち込むともうロクなことにはならない。
其の代わりに真理はもう諦める。
真理はもう無きものとして観念する。
そして博打に打ち興じよ、または腐った女共の心にまみれよ、それからあえて大酒飲みにでもなり揚句に政治家にでもなれ。
すると余計に死は恐くなる。
恐くはなろうが、他方で生がもう怖くない。
其のやうにどちらか一方だ。
凡人は結局悟れないので、このまま清めなままに生きていくか、それともむしろ今以上に汚れて生きるかの、其のどちらかの方向性の選択しかない。
ただしわたくしは、此のわたくしめはあくまで人間を辞めたい。
兎に角人間であることを辞め植物として長生きがしたいだけである。
出来れば誰も来ない山奥でスックとした大木となり生きていきたい。
ですので生は選択です。
心の上での選択なのです。
観念と現実との二元的選択です。
究極的にはどちらを選ぼうがいいんです。
ですが究極的にはどちらも無意味化しましょう。
観念を突き詰めれば無意味さに気付き欲は減じましょうが其の代わりに生きにくくなり早死にすることでしょう。
現実を取れば建設的な生を送ることも出来ようが其処で真理に対する罪が蓄積され余計に悪い世界へと生まれ直します。
つまるところ生は無意味です。
でも無意味なだけに生きて居られます。
意味のあるところ=真理の世界では、其処にそも生が生じることはない。
よって生の開闢は無意味さから引き起こされる。
つまりは腐って居るから生が生じて居るのです。
よって清いなどとは思わない方が良いです。
根が腐って居ます、だから今があるんです。
其処をどう浄化するのかということを考えるばかりです。
ゆえに死を恐がって居るヒマなどはない。
そうそんなヒマなどはない。
二元的展開での此の地獄はそうこうする間も確実に我我の首を絞め続けて居るのです。
中島先生が仰るやうに、「いずれ死ぬ人間が、幸福になれるはずがない」のですから、幸福の構築を義務化したところでの近代の常識は明らかな誤謬です。
それに釈迦は、「いずれ死ぬ人間が、幸福になれるはずがない」のですから、全てを捨て出家し森の中でもって考え続けたのでした。
つまりは其処で真に楽になる方向性のことを模索して居られたのです。
其の結果得られた中道の真理は、世俗的な意味での幸福を物語るものではなく人間存在にとっての本質的幸福へ至る道程を謂わば仮の形で言語化、概念化されたものでした。
然し仏法では捨て去ることこそが基本です。
其処には否定の意味が色濃く漂って居ます。
言うまでもなく現世の諸に対する否定を行ってこそ行くべき処、見つめるべき処が自ずと見えても参りましょう。
其の楽、浄楽の世界=悟りの世界とは、ズバリ死の世界のことではない。
されど生よりは死、此の死の世界の方が浄楽の世界には近いのかもしれない。
いや、逆に此の狂おしい餓鬼畜生の生きる世界こそが浄楽の世界には近いのかもしれない。
要するに分解度が低い方面即ち真理方面へのアプローチが深まるにつけ論理も価値も何も、そうした概念的な規定自体があやふやになって来ますのでもう幾ら考えてもこうとは規定し得なくなって参ります。
だからわたくしは其の辺までは考えなくてはならないとそう申して居るのです。
さうして論理即ち理性ー知性ーの限界まで行きもうまるで論理が働かなくなるところまで行き其処で初めてSEXだの、物欲だの、他諸の欲だのを実質的に抑えていけることだろう契機が与えられる。
なので結局観念は大事です。
むしろ観念の調教こそが人間存在にとっての唯一の仕事である。
観念は其の限界を知り捨て去るに至るところまでは人間にとって一番大事な領域なのでしょう。
第一猫や犬、其の他の動物、乃至は植物はここまで観念に苦しめられることはそもない。
わたくしはただ其れが羨ましいだけである。
なので生が無意味なことも死が無意味なことも、かつ人間が観念に苦しめられて居ることも総じて虚の観念から齎されるものである。
されど其処まで考えしアンタは兎に角偉い。
其の位までは人間であるなら是非考えておかねばならぬ。
よって生が無意味なこと及び死が無意味なこと自体に問題があるのではなくアナタがさふ考えること自体に問題があるのだが其処まで考えたアンタの思考の価値をもはや誰も奪えない、といふことだけをわたくしは此処に訴えておきたい。