さて、果たしてこのやうなアンドロイドが何故必要なのだろうか?
其れもよりによってあの漱石のアンドロイドだとは!
言うまでも無く漱石は近代文明を批判的な眼差しで見つめ明らかに其れに対し否定的だったのである。
其の漱石のアンドロイドが此の21世紀になり生み出されるとは何とも皮肉なことだ。
高校の頃、学年主任の理科の先生が、本を読むー文學書を読むーということは良いことのようで居て良くないと父兄に語られていたそうだが其れは矢張り違うのではなかろうか。
其の先生は香道を嗜まれるなかなかの人格者だったのだが文學の何たるかを結局知らずに亡くなられたのであるから其れはむしろ随分と可哀想な人生である。
人生など、ややこしい数式だの化学反応式だの覚え込むよりは、文學に縁し其処で悩みに悩み自殺して仕舞う位で丁度良い程だ。
バカ文明が理系的合理主義で人間のモヤモヤを圧迫するから人間が腐っていくのである。
人間が腐ると、こうしたバカバカしいことが逆に大真面目に取り組まれたりするものである。
そうだ、最近どうもバカバカしいことばかりが大真面目に行われて居るように思えてならない。
然し本当に悩むということは、矛盾に充ちた世界と全的に対決することの筈だ。
今人間は此の文學を、或は宗教ということの意義を忘れて仕舞いつつある。
芥川 龍之介や太宰 治は何故死んだのか?
三島 由紀夫は何故死んだのか?
勿論悩んだからである。
では悩んで居て良いのか?
そうさな、少なくともアンドロイドなど創り喜んで居るよりは余程に良い。
死んでも良いのか?
良い、別に構わん。
人間は死んでも魂が全うならば其れで何ら問題はない。
然しアンドロイド文明は気が狂って居る、異常だ、其れこそが最高にキモイ。
だからそんなキチ○×文明に付き合って居ると人間が破壊される。
其の破壊を見抜く力こそが文學の力である。
ゆえに文學こそは真実の力である。
悩んで悩んで、揚句の果てに自殺して、其れでも至極真っ当な、まるでまるで生一本な、生を真正面から見据える、強い強い真実の力である。
対する文明はあらゆるものを、合理主義に染め上げつつ、男も女も、爺ちゃんや子供までをも、そして大學や塾も、美術館や動物園も、シングルマザーも高齢独身男性も、もう兎に角全てを合理主義に感染させ、まるで不治の病でもあるかのやうに、ジワジワと其の精神性を破壊しつつある。
従って漱石が学んだ学校でも漱石アンドロイドを是非創らねばならず、おまけに性は合理化され女といふ女はふしだら化されなくてはならず、男女は平等なので女都知事と対決したかの石原先生も召喚されねばならず、ましてや爺ちゃんも婆ちゃんも、世話して呉れる子供など居ないから結局孤独死していかなければならない。
此の合理主義が生の深き悩みの側面をむしり取り単線的管理社会、平板な命の営みのみを成り立たせて居る。
元来数値ではないものまで数値化され、屈折することのないつまりは悩まない文明を拵えて仕舞って居る。
されど深き命の営み、其の生の懊悩を悩みに悩んで生きていくのが本来の人間といふものよ。
其れが其れこそが合理主義には決して真似の出来ない人間性の発露といふものよ。
あの太宰が芥川が何故死んだのか?
何故なら彼等は人間だったからだ。
三島先生は何故自決したのか?
心から日本国を心配する人間だったからである。
然し漱石アンドロイドは悩むのだろうか?
悩む訳ないわな。
人形は悩みません。
悩めません。
しかも嗚呼、気持ち悪い。
こんな風に文明が創るものはすべからくおぞましい。
人間が死を選ぶのは、絶望するからである。
だが絶望とは良心である。
絶望しないもの程恐ろしいものはなく、絶望して死を選ぶ者はまだしも救われて居る。
でも合理主義の文明は、或はアンドロイドは、絶望しない。
絶望しない文明に未来などある筈もない。
絶望しない未来に未来などあるべくもない。
生の深みを見つめ、生の矛盾に悩み、生を絶望し文學として生きる。
これほど素晴らしいことはない。
これほど素晴らしい生はない。
これほど未来ある生はない。
またこれほど良い生き方はない。
故に読書人には未来の往生が約束されて居る。
然し文明は、其の合理主義にだけは未来が約束されて居ない。
未来を失うのは、悩みによるものではなく絶望によるものでもない。
悩みを悩みとして悩まず絶望を絶望として絶望しない合理主義のみが未来を奪うのだ。
ただしこちらはお勉強にはなります。