中原 中也は齢三十で死んだ詩人ですのでおそらくは密度の濃い生を歩んだ人だったのでしょう。
然し詩人の生の根幹には常に生と死、夢と失意、破壊と構築などといった内面の格闘がありまさに其の様こそが詩人の骨格なり存在感を成り立たせて居るのである。
故に詩人にとっては生きて居た時間の多寡といふものは意味をなさないものである。
詩人にとっては長生きしたことが価値なのではなく現実に何を苦しんで其処から何を得どう詩として結実させたかということこそが大事だ。
何故なら生きることは楽しいことではなく苦しいことなので苦の中から言葉を紡ぎ出す必要が必然的に生じる。
言葉とはそんな必要悪なので要するに其れは宗教と似た類での信仰の告白なのだとも言い得る。
其の信仰の告白が詩を生み出す原動力となり其れは此の苦に充ちた世界が用意する悪意と欺瞞に対する復讐である。
精神のプリズムの作用で詩人は生を美化したいのだけれど、あくどい現実は決まって其の美化を許さずかえって失意や絶望や破壊の方へと内面を引き摺り込んでいく。
そうした冷徹な法則への自衛が藝術でありかつ宗教なのだとも言える。
其れで中原 中也はどう自衛したのであろうか。
わたくしは其処にこそ興味があったのだけれど、彼は結局失意や絶望から言葉を紡いでいくほかなかったのである。
夢といふものが見られない此の言葉以前の冷徹な現実が彼を打ちのめすのだが打ちのめされた者は打ちのめされたことで逆に言葉以降の世界を構築していくほかはない。
要するに現実に打ち克つ為には言葉を紡ぐ他に方法がない。
そうした意味で中原 中也は言葉=自己を此の世に屹立させ得た人間である。
つまりはまさに詩人としての詩人をまともにやりおおせた人である。
対して現代は言葉の感受性が乏しくなる=破壊されている、とも云われて久しい。
言葉が屹立しないのは、それどころか言葉の復讐が低次元化して居るのはそも其処に詩が成立する余地がないからなのか。
いや、でも苦を生み出す生の淵源に変わりなどある筈はない。
現代では中原のように早逝する機会も減りあらゆる物で充たされ人々は楽しく生きて居るように一見見かけられるがこと人間の内面に限れば決してそうではない。
つまり楽しくはない。
其の楽しくはない現実に対峙しどうあがいたかということだけが詩人の価値乃至は宗教家の価値を決めるのである。
中原はもうグジャグジャにあがいたので其の詩が教科書に載るような詩人になれた。
だが詩人にとり教科書に載るような詩人になれるかどうかということもまたどうでもいいようなことであるに過ぎない。
要するに此の闘いを、此の内面での闘いをどう闘い切り言葉としてのドキュメントを紡ぐかというただそれだけのことだ。
またそういうのは普遍の闘いなので、必然として時代を超越しかつ時空を超越した闘いとなる。
詩人の内面の闘いとはそうした性質のものなので其の逐一が宇宙のどこかに記録される類でのものだ。
まさに虚の言葉による実の闘いが虚の時空に永遠に保存されるというそんな現象なのである。
中原は絶望から、また失意からそうして明らかな復讐を成り立たせた。
だからこそ彼は良い詩人なのだ、なかなか真似の出来ない真面目な詩人である。