目覚めよ!

文明批判と心の探求と

日本を代表する詩人による死の解釈ー谷川 俊太郎氏による詩と絵本に就いてー

19.谷川 俊太郎氏による詩と絵本に就いて

 

 

 

 

其の認識上の誤謬、其れも全体主義による価値観の誤りは即破壊を齎す訳だ。

 

であるからこそかうして皆が金のメタルを取ることに酔い痴れて居る時でもむしろ其の逆方向を向きコッチの方こそがプラチナのメタルだよとさう言い放って居る位でむしろ丁度良いのです。

まさに其の人間の社會が齎す暴挙を糾弾して行かうと云うのがひとつには此のブログの内容其のものなのでもあった。

 

つまりは其の全体による赤信号無視での暴走が酷い交通事故を引き起こす訳だ。

其れも死亡事故をやっちまう虞が多分に御座ります。

 

 

また其処では立場の弱い児童や御年寄り、また生命力の弱い詩人などが屡そんな災難に巻き込まれがちです。

いやほんたうは其ればかりでは無く今其の暴走文明にまさにやられつつあるのが自然界の生命です。

 

対して人間界の其れも科学者共は「宇宙へ逃げて行けば良いのだ」とさう申して居ますがさて果たしてそんなことが可能となるのでせうか?

第壱コロナウイルスひとつをやっつけられぬと云うのに。

 

逆に人間共がより危険度の高いウイルスにやられ且つ温暖化にて学校も役所も焼き尽くされおまけに地震が引き起こされ大都市圏が粉々に打ち砕かれる!

おい頭のネジの外れた爺さん、アンタもしや其れを願ってないか?

 

金輪際願ってなど居ない。

只此の侭ではマズいのではなからうか。

 

 

此の侭文明の御遊戯に付き合って居れば居る程に其のリスクは日増しに高まって行く。

 

さて本日はまたTV番組を視聴した上でのことに就き書かせて頂きたい。

 

 

「ぼくは しんだ じぶんで しんだ 谷川俊太郎と死の絵本」 - ETV特集 - NHK

まずはこちらにて其れも九拾歳とおなりになった我が國を代表する哲學的詩人谷川 俊太郎氏の御姿をまさに久し振りに拝見致しました。

 

其の感想としましては相変らず極めて重い詩作の上でのテーマと向き合って居られるなと云うことです。

『主人公の自死を読者が「わかったつもり」になることを詩人は拒否していた…。』以上より

 

其の九拾歳と云う年齢は元より人間の男性に取りほぼ生存の限界としての年齢です。

其処からも老詩人が向き合わねばならぬものが常ならぬ重いテーマであることにまずは違和感を覚えます。

 

ですが逆に申せば其れは實存としての生のあり方に常に向き合って来られた谷川先生らしい選択なのだとも言えやう。

 

 

さて以前わたくしは詩人の金子みすゞ - Wikipediaのことを何処かで論じましたが26歳と云う若さで服毒自決を遂げた其の苛烈なる生の上での心理的闘争をよもや我我は理解することなど出来ないとさう述べて居た筈だ。

かうして若くして死んだ文學者の作品は大抵の場合生の暗部を抉り切って居りすでに其処に於いて完結して居る場合が多い。

 

あくまで藝術的には其れは完結して居る訳だ。

但し實人生の上での厳しい其の歩みを其処に掬し取ることなどは出来ない。

 

 

お魚

海の魚はかわいそう。

お米は人につくられる、
牛はまき場でかわれている、
こいもお池でふをもらう。

けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたずら一つしないのに
こうしてわたしに食べられる。

ほんとに魚はかわいそう。

 

大漁

朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ。

浜はまつりの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう。

名言・格言『金子みすずさんの詩』一覧 | iso.labo (iso-labo.com)より

 

個人的には其の實人生としての苛烈な運命のやうなものが眞理への眼差しを培うのではないかと見て居る。

屡文學者や画家や音樂家の生は過酷なものですが、まさに其の過酷なる生を歩む者であることこそがかうした認識としての基底にあることだらう。

 

つまりは其の過酷な運命に翻弄される稀なる純な魂こそが作品を生み出す為の母胎なのだ。

逆に申せば所謂サザエさん的な、またちびまる子ちゃん的な日常其のものからは詩や死の観念が生まれ出ずることなど無い。

 

逆に言えば其の日常こそが言語以前での詩であり且つ死なのでもある。

其の過酷な精神的負荷は無論のことかの宮澤 賢治などにも担わされて居たものだった。

 

其のやうな負荷を与えられし精神は視点、視座を分裂させるに至る。

賢治の詩、また金子 みすゞの詩には何より其の視点、視座の移動が見られやう。

 

 

魚=食い物=利己主義

大漁=大金=拝金主義

なので、人間界でもって常識的な大人達はむしろお魚が沢山獲れみんなの腹が膨れればまさに其の事をこそ喜ぶ。

 

ですが独り詩人が其の事をかうして深く悲しむ。

詩とはまさにさうしたことなのだ。

 

其れはみんなとは違う眼差しを持つと云うことだ。

 

対して谷川先生の詩もまた突出してみんなとは違う眼差しを常に持つ。

僕はまさに其処が好きですね。

 

さて子供の自殺が増えて居るさうですが果たして其れは誰の責任なのでせう?

個人的には其れは社會の責任だと思う。

 

 

まさに其れは哲學的にどーかう言うことでは無く社會が希望の持てる状況にして居ないことこそが大きな原因です。

要するに文學、つまり國語の問題では無く社會が悪いことにより引き起こされて居る大問題なのだ。

 

だから其れを具體的に批判し社會を立て直して行くのは本来ならば自治體なり政府なりが是非行うべきことだ。

とどのつまりは其れが社會科の公民的分野としての課題なのだ。

 

つまるところ其れは實際的具體的に齎されて居る問題なのだ。

 

なので其れは文學が解決出来る問題では基本的に無い。

ですが谷川先生はあえて文學にてつまりは詩としての言葉の力でもって彼等の死を追悼して居られる。

 

其のあってはならぬ死を、早過ぎる死を見詰め詩でもって其のことの不条理を世に訴えかけたのだ。

さうして老詩人は挿絵画家と入念に打ち合わせを重ね壱冊の詩の絵本を完成させるに至る。ぼくはしんだ…谷川俊太郎・合田里美の絵本「ぼく」感想。NHKが子供の自死の絵本に迫る! | マダム・アフロの旬な情報調べてみました - Part 2 (trend-madam.com)

 

尤も其の詩の絵本に僕は興味が無い。

興味があるのは谷川氏のこんな詩である。

 

 

  さようなら

私の肝臓さんよ さようならだ
腎臓さん膵臓さんともお別れだ
私はこれから死ぬところだが
かたわらに誰もいないから
君らに挨拶する
長きにわたって私のために働いてくれたが
これでもう君らは自由だ
どこへなりと立ち去るがいい
君らと別れて私もすっかり身軽になる
魂だけのすっぴんだ

心臓さんよ どきどきはらはら迷惑かけたな
脳髄さんよ よしないことを考えさせた
目耳口にもちんちんさんにも苦労をかけた
みんなみんな悪く思うな
君らあっての私だったのだから

とは言うものの君ら抜きの未来は明るい
もう私は私に未練がないから
迷わずに私を忘れて
泥に溶けよう空に消えよう
言葉なきものたちの仲間になろう

谷川俊太郎「「さようなら」――自分が解放されるとき」|現代作家アーカイヴ~自身の創作活動を語る|飯田橋文学会|cakes(ケイクス)より

 

どうであらうか。

個人的にはスペシャルなつまりとても特別で素敵な作品だと思う。

 

僕は中原 中也の『骨』と云う詩が大好きなのだがまさに其れにも似たある種自分を内部から突き放した詩である。

だが若い時にはこんな詩はまさか書けない。

 

と云うことからも谷川氏にとり詩とは最終的に死に連なるものなのだ。

死、つまりは實存としての全的な崩壊なのか。

 

いやだが谷川先生に取り死とはあくまで「言葉なきものたちの仲間になる」ことでありつまりは其れが實存としての言語以前の段階への回帰のことなのだらう。

なのでむしろ其の實存は残るのだが其れが宇宙的自我へと吸収されて仕舞うが故に其れはもはや「私」でさえ無くなって仕舞う。

 

其処からしても谷川 俊太郎と云う詩人はそんな非日常としての實存の段階があくまで日常としてある少年少女達の現象を消し去ることの無残さをむしろ其の侭に此の絵本に描き切らうとした。

 

まさに其れは社會的に齎される無残な様だ。

が、ひとつの救いとしての仕掛けとは其れが「言葉なきものたちの仲間になる」=言語以前での實存へと回帰することなのだらう。

 

 

だが無論のこと其れは普通還暦を過ぎてから其の御迎えが来るのである。

其れが小中学生の段階で来て仕舞うと云うのはあくまで其れは國語の問題では無く社會の問題なのだ。

 

うーん。

其れにしても此の『さようなら』と云う詩は良い。

わたくしも何かかうこんな世界とのお別れの詩でも此の際是非書き遺しておくべきなのではないか。

 

まあだが其れどころでは無く毎日寒いのだし其れに歯が痛くてならぬ。

いや17日にはまた歯医者へも行くので何とかなるものかとは思うのだがなる程、生きて居ると云うことはかうして至極厄介なものだ。

 

尚さうして「言葉なきものたちの仲間になる」ことが果たして現代人に取り可能なのかどうか、まさにそこんトコがどうしても我には引っ掛かる部分なのだ。

我は今かうして抽象的概念に対し概ね懐疑的なのでたとえ現代人が壱人死んだにせよ其処には地獄への道が物凄く広く拡がって居るばかりでまさか宇宙的自我と融け合えるなどとは思って居ない訳だ。

 

 

だが少なくとも詩人としての感度は保って居るべきなのだらう。

サア、其れではまた庭へ来るメジロ達にエサでも与えてやらう。

 

もうミカンが無いので昨日はパンで今日はコンビニの🍙を枝に挿して置いた。

かうして動植物との会話だけは欠かさぬ我はどうも昔から自然との距離が近くあり逆に社會との距離が開いて行くばかりだ。

 

死を眞近に控え老詩人は其の宇宙的自我と融け合うことへの歓びであり期待を書き描いて居る。

其のことは今ならば我にも何となく分かる。

 

だが拾年前には其れがついぞ分からなんだ。

つまるところ老いることとは徐々に死を受け容れて行くことなのだらう。

 

対して老いること無く死を迎えざるを得ない其の少年少女達。

だからまさに其れが理不尽な様なのであり其れは畢竟個では無く社會としてのあり方の問題なのだ。

 

 

さて寒く作業が出来ぬのでソロバンの先生に剪定鋏を返しに行ったところそんなものは何時返しても良いのださうな。

ソロバンの先生が髭を生やして居たので我もまた髭を生やしてみたところ其の半分が白髭でもってして存外に恰好良い。

 

其処で我もまた髭文人に是非なることとしてみた。

かうして髭があると貫禄が付き仙人や文人に見られ易くもならう。

僕はかうして顔が扁平で且つお肌がツルツルでつまりは美肌なので其の侭では貫録が付かないのである。

 

ところがかうして髭が伸び頭も禿げて居るところを見ると所謂🚹ホルモンの方がむしろ沢山出て居るのであらう。

其れに脛もまた毛むくじゃらなのですし。

 

アアーイヤだわ、まるでケモノみたくに…。

 

 

尚哲學的には其の日常と非日常を言語世界と非言語世界、さらに社會的自我の世界と宇宙的自我の世界として分けることはむしろ言語的機能である。

言語的機能に則らぬものはまさに自由ではあるが予測不可能でしかも其処では生死さえもが混沌として居る。

 

即ち小鳥でもまた🐈でもまさに神出鬼没であり其の行動はあくまで論理以前での認知行動=非認知型行動を取る。

故に獣の世界での認識がそも人間の認識とは異なる限り死としてのあり方ー形ーもまた違うものとわたくしは見て居る。

 

即ち死とは畢竟其の認識に於いての死なのだ。

さうして生もまた畢竟其の認識に於いての生なのだ。

 

 

つまるところ生命としての實存は其の認識に応じた死を迎えざるを得ない。

其処からもわたくしは以前人間は特に近代以降のー現金なー人間は必然ー自然ーとしての死を迎えられぬなどと書いたことがあった。

 

ではどんな死を迎えつつあるのか?

どうも其れがみんなで行く死に場でありまるでウソの死なのではないかとさう思えてならぬのである。

 

だったら現代人はもはやまともには死ねずに地獄界か又は餓鬼界へと行くのであるか?

いやおそらくは現代人用の肥溜めのやうな場所が宇宙にはありみんなでもって其処へと突っ込んで行く訳だ。

 

するとみんながさうして肥溜めに落ちて死ぬるのか?

さうだみんなが肥溜めに落ちて死ぬる。

 

だが精神的に苦しみ死んだ「ぼく」や詩人や画家や音樂家は宇宙へと溶け込むことが可能なのだ。

さうか、すると直に谷川先生も其処へ行かれるのだな。

 

うーむ、確かにもう此の世とのお別れもしておいでなのですしね。

ちなみに谷川先生のお父さん谷川徹三 - Wikipediaは愛知県人なのです。

 

 

ー 昭和三十年代に多く語られた、現代芸術と政治と宗教の関連への考察では、新しいというだけで、わけも分からずありがたがる資本主義の風潮を迷蒙とする一方、共産主義社会主義の国家において、政府が都合のよい芸術だけに権威を与えて価値観を強制することにも同調せず、「芸術には時代の進展に伴う進歩なんてものはないし、従って如何なる時代にも唯一つの正しい芸術的立場なんてものはないのである」と言い切っている。

 さらには近代以降、西欧文明が世界を征服し「集団的、匿名的で、繰返しの上に立つ規格生産」が地球を均一化した結果、西欧は逆に支配力を喪失し、アメリカもロシアも中国もヨーロッパから独立し、非西欧世界の芸術が新しい意味を持って見直されているのが「二十世紀芸術」だと言っている。二十一世紀の現在、インターネットによってこの状況がさらに進化することを見越しているような一文だ。

 古今東西の芸術や歴史や宗教、政治も経済もすべて知っているというだけなら、現代人にはグーグルがある。だがそれらを関連づけて考え、戦争にも社会主義にも、民主主義にさえも染まらず、人間のあるべき姿を追求し、提示する、それが哲学であり教養であると谷川の著作は示している。ー谷川徹三は普通の言葉で哲学と芸術を語り続けた | 文春写真館 - 本の話 (bunshun.jp)より

 

かうして同じく知多出身の梅原猛 - Wikipedia先生と同様に西欧近代に対し如何にも批判的です。

其処からも西欧近代に潜在的な危険性があることはまず間違い無いことだらう。

 

ですが其れは結局世界を席巻して行った。

谷川 徹三氏は個人的に好きな哲學者の壱人ですが梅原先生と同じく西欧近代に対置し得る近代的東洋哲學を築けなかったことが何とも心残りな部分です。

 

さてもかうして場所柄として愛知には哲學的な気質などもまたあるのやもしれません。

 

其の気質を受け継いで居るのがまさに此のわたくしめだとさう言えさうだ。

さうして何より哲學的詩人であらせられる谷川 俊太郎先生其の人なのだらう。

 

ーカルトなことを申せば谷川 徹三氏の母校の旧制愛知県立第五中学校(現:愛知県立瑞陵高等学校)と云うのは私の母の母校である。母が通って居た女学校が後に其の瑞陵高校編入されよって母は瑞陵高校卒と云うことになって居る。他にもかの杉原 千畝などが此の高校を出て居ます。-