目覚めよ!

文明批判と心の探求と

怒りを解放するー『1日1話 マンガでわかるブッダの教え』より學ぶ聖なる認識とは?3ー

18.1日1話 マンガでわかるブッダの教えより學ぶ聖なる認識とは?


 

 

 

其のプラチナメタルとはおそらくは極少数の高度な心の段階ーより幅広い視野を持ち其処で正しく心の向きを選択するであらう心の段階ーの持ち主に取りまさに相応しいものなのやもしれない。

ですが實はさうした心の階梯を生きればすでに欲望の対象となる価値ヒエラルキー其れ自體が変容し又は消滅するに及んで居るが故に別にプラチナメタルだの壱億円だのにはもはや拘らぬ訳だ。

 

但し其の種の下世話な欲望なども軽んじたりはせずまさに自己への御褒美用に保存して置く方が良い。

其の下賤なる生存欲こそが知の上部構造として与えられる本質的な不安定さに対し効き或は己を生き延びさせて行くのやもしれぬのだから。

 

其の生存欲こそがケモノであることの証拠であり武器ですが獣がケモノを生きることで不都合が生じる訳ではむしろ無くよりお上品な知性、まさに理性が其のケモノにやられて仕舞うところにこそ損失が生じるのだ。

つまりはケモノには其のケモノをやり続けて居ることへの反省や心配などは無いのです。

 

ではケモノとは👿や馬鹿のことですかとさう問われたにせよ其れはさうとは限らず厄介なことにケモノは其の👿や馬鹿以外にも偽善者の仮面を被り此の世に満ちて御座る。

其の偽善としての獣の正體を見抜くことこそがまさに人文としての理性の働きなのだらう。

 

其れ即ち人文の理性とは常に其の獣共と闘う知性の働きだと云うことだ。

其の働きにはエネルギーとしての義憤の働きが是非必要です。

 

 

其れは例えば、

 

人類史上最高難度での軽業を決めたと云うのに何故か其の点数が如何にも低かった。

だから彼は其の不条理への怒りを自己奮起へのエネルギーと化し最終的には金のメタルを勝ち取った。

 

まさに其れが義憤の類です。

 

またサイエンス・ゼロと云う番組を視て居たところとある科学者が其のうちに人類は宇宙へ進出することとなるからこれからは昆虫食などが重要な食糧確保の分野となる、と云うやうなことを述べて居られたが其の発言に対し我は如何にも腹が立ちました。

何故なら其の「人類は宇宙へ進出する」と云う考え方こそが如何にもオカシイのです。

 

人類は地球上に於いて初めて人類なのであり其れが宇宙へ進出すればもはや👽となって仕舞うことが何故彼等には分からぬのでせう。

其の昆虫もまた地球上に於いて初めて昆虫なのであり其れが宇宙へ進出すればもはや👽昆虫となって仕舞うことが何故彼等には分からぬのでせう。

 

ですので、此の場合もまた人文理性による義憤の類です。

即ち瞋りにもかうして正邪の区別があるのです。

 

 

また僕は今また映画の『シンドラーのリスト』をアマゾンにて視て居るのだが矢張り何遍視てもナチスの将校の理不尽な振る舞いには腹が立ちます。

平気で人を殺す其の👿の如き人間性に対しまさに義憤を感じないでは居られない。

 

さらにかのグレタ氏は「地球と人への搾取をもう止めよ」とさう叫ばれて居り其の叫びの原動力となって居るものこそが強欲資本主義が環境破壊を進めることに対する義憤でせう。

 

其れと言うのも人間が形成する社會には常に不備があり多くの場合其れは全体主義を形作るつまりは社會としての上部価値ヒエラルキーを形作り個が其れに逆らえなくして仕舞うことこそが歴史上往々にして繰り返されて来た訳だ。

さうした社會が齎す理不尽さへの疑問なり反抗こそが其の義憤です。

 

我がまず言いたいのは「怒りは常に義憤として持つ」と云うことです。

何故なら義憤とは批判であり多くの場合批判は建設的意見として機能するのだから。

 

対して「義憤以外での怒りは無知ー本質的な暗愚さーによるもの」です。

ですが多くの場合我我は他人に対し怒りを爆発させることが多い。

 

 

我もまたむしろ信長公並に他人に対し怒りを爆発させることが多い。

尤も概ね生物や環境また宇宙に対してはむしろ人並み外れて優しい。

 

わたくしは元来人間を信用などして居ないのでつまりは人当たりがキツイ訳だ。

なのですが、理性的な人の特徴の壱つとして「他を尊重する」面があるのださうで實は同時に其のこともまた当て嵌って居ます。

 

さうではあれ、攻撃をもしも受けたのであれば千倍にして返してやると云うのがコレ迄のわたくしの人類に対するブチ切れ方でした。

其の如何にも理性的でジェントルマンなところとヤクザみたいなところが同居するのが稀なるパーソナリティとしての我が持ち味でせう。

 

 

「人類に対する義憤」

どうも我の場合は此れが強くある。

 

でもってケモノだと感じられた場合には徹底的に相手を批判致します。

逆に自分並か又は自分よりも上の理性に対し頗る弱く其の種のものに対しては隷属する性質がどうしてもある。

 

 

 

では果たしてお釈迦様は其の瞋りに就きどう考えられて居たのか?

 

『怒りを捨てよ。慢心を除き去れー腹を立てるのは損ー』1日1話 マンガでわかるブッダの教えより

 

とのことです。

要するに慢心して居るからこそ怒りが生じるとさう考えられて居た訳だ。

 

ですが、其処で壱つ疑問が生じます。

其れ即ち「果たして義憤は慢心か?」と云う部分です。

 

また宗教上も其れこそ世に対する義憤のやうなものから生ずる教義などもまたあることかと思われる。

また我が宗教、宗旨こそが正教である、などとする考え方なども意外と宗教には多く見られる。

 

まさに此れは解釈が非常に難しく且つ微妙なところを含む問題ですが個人的にはあくまで「義憤は瞋りでは無い」とさう捉えて来て居る。

対して義憤無き怒りは単なる無知、無明が引き起こすことだ。

 

 

さうして此の世の中にはむしろ其の無知、無明なる状態が満ち溢れて居ります。

其の理不尽なる様、心の不条理の部分を指摘することは必ずしも慢心や自己の承認欲求とは結び付かぬ筈だ。

 

其れを放置すればむしろ自己と他己にとっての不利益でせう。

 

例えば教育こそがまさにさうしたこととなる。

生徒さんの心の方向性の誤りを正すのはさうして教師の壱喝でしか無い訳だ。

 

教師が其の壱喝も出来ず常に生徒さんとお友達であるのならば其処に教育など成立せず其の無知、無明を野放しにすることともならう。

さうした意味での上下関係はあって当たり前のことでよって場合により叱咤激励や憤慨などすることがむしろ其処に有効に働くことともなる。

 

但しあくまで眞理を基準とする場合には全ての瞋りは不要なものとなる。

尚宮澤 賢治と云う詩人はかって瞋りまくって生きた人でもまたあった訳だった。

 

 

春と修羅
  (mental sketch modified)



心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲てんごく模様
(正午の管楽くわんがくよりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
つばきし はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の眼路めぢをかぎり
 れいろうの天の海には
  聖玻璃せいはりの風が行き交ひ
   ZYPRESSEN 春のいちれつ
    くろぐろと光素エーテルを吸ひ
     その暗い脚並からは
      天山の雪の稜さへひかるのに
      (かげろふの波と白い偏光)
      まことのことばはうしなはれ
     雲はちぎれてそらをとぶ
    ああかがやきの四月の底を
   はぎしり燃えてゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ
  (玉髄の雲がながれて
   どこで啼くその春の鳥)
  日輪青くかげろへば
    修羅は樹林に交響し
     陥りくらむ天の椀から
      黒い木の群落が延び
       その枝はかなしくしげり
      すべて二重の風景を
     喪神の森の梢から
    ひらめいてとびたつからす
    (気層いよいよすみわたり
     ひのきもしんと天に立つころ)
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しづかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく
 修羅のなみだはつちにふる)

あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずゑまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く

雲の火ばなは降りそそぐ

 

 

宮沢賢治 『春と修羅』 (aozora.gr.jp)より

 

いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
つばきし はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだー

 

其処に瞋りは靑く苦いとさう述べて居る。

其の靑く苦い瞋りを抱えた壱修羅が自分であるとさう述べる。

 

対して聖人は決して瞋らぬ。

だが此の世は聖人様や佛様のやうにはまさか生きられぬ世界なのだ。

 

其れは宗教的原理のみでは實効的に救えない世界であると云うことだ。

だからかの東北の詩人は自ら修羅の役割を引き受け靑く苦い瞋りをこそ生き参拾代後半でもって死んだのだった。

 

そんな風に瞋りにもまた色々とある。

個人的にそんな賢治の靑く苦い瞋りは此の世で最も美しいものの壱つだとさう思う。

 

 

 

『言葉はすべて天に吐かれる。仕返し、必ず汝の身に至らんー悪言は自分に返ってくるー』1日1話 マンガでわかるブッダの教えより

 

ゲエッ、ついにしてもうたのか?

ついやってもうたか?

 

其れもかうして罵倒の限りを尽くし悪口雑言の限りを尽くしやって来たのでもはや助かりませんな、コレは。

 

また倍返しはさらに倍返しされると云うことですな。

千倍返しはさらに千倍返しされると云うことですな。

 

わたくめの悪いところが實は其の所謂口が悪いところなのだ。

要するに言い方が嫌らしくしかも汚い。

何と言葉が時折肥溜めに突っ込んでも居る!

 

まあ兎に角、我は其の周囲との軋轢のやうなものが特に酷い方ですので今反省だけはして置きます。

要するに個性が強くありまるでかのセザンヌゴーギャンの如くに自己本位での人間なのだらう。

 

ですが基本的には他を常に尊重してさえも居る。

其れに常にみんなの幸せをかうして祈り且つ願っても居る。

 

みんなが間違って居ない限りではまさにさうなのだ。

でももしもみんなが間違って御遊戯して居たら其の誤りを是非正さずばなるまい。

 

だからかうして馬鹿だ、アホだ、マヌケだとあえてさう言って来たのだ。

ばか、お前こそが其の「馬鹿だ、アホだ、マヌケだ」わい。

 

うわー、ついにやられましたー。

もはや立ち直れぬのやもしれぬ。

 

 

ちなみに三年程前に職場でもって僕は部下達が僕の悪口を言い合って居るのを聞いたことがあります。

其れもナメられたのかわざと聞こえるやうに言って居たのです。

 

正直其れは応えました。

また定年後に勤めた文化施設でもいい歳をコイた爺さん達が職場の他の人のことを常に悪く言う訳です。

 

対して僕はと言えば心の底ではむしろ皆の幸せだけを願い続けて居たにも関わらず、です。

でもって僕は完全に人間と云うものがイヤになりました。

と申しますか職場での人間関係程汚れたものは無いとさう思うやうにもなった。

 

従って我の口が悪いのは其れ即ちそんな経緯より人間不信の度が酷いからなのだ。

で、其処でもって悪いのは壱體誰なのでせうか?

まさか僕自身が悪い訳では無いと思うのですが何で周りの人間はそんなに根性が悪いのだらう。

 

只壱つ言えることとは多くの人間の心はほぼケモノに等しいものでありまさか理性的なものではあり得ないことだ。

よってまともに其れに向き合い其れこそ「腹を立てるのは損」です。

 

 

『傷つけるなー悪意は持った瞬間から人を傷つけているー』1日1話 マンガでわかるブッダの教えより

 

無論のこと其れは物理的にも心理的にも人を傷つけてはならないと云うことです。

ですが此のこともまた非常に難しいことです。

 

例えば教師であれば教える側の子を教え導く為にまさに時には心を傷付けるやうな指導をしなくてはならない場合がある。

また職場を纏める責任者であれば部下を纏め上げ外部からの評価を高める為にそれなりの指導をして行かねばなりません。

 

ですが其れはあくまで指導つまり愛のムチであり悪意や悪口では無い。

対して根拠の無い悪意や悪口をむしろ其れをしたいが為にして居る人間が此の世には結構居るものです。

 

勿論其の逆に善意即ち眞心でもって人と接することを欲する我の如き善人のタイプもまたある。

アレッ、まさかさうだったの?

 

さうだよ、僕は口は悪いがさうしてどうしても善人なのだ。

 

で、善人は普通悪意を持たず悪口などもしたいとはまさか思って居ない。

逆にケモノのやうな輩程むしろ最初から悪意に満ちて居り悪口のし放題に快感を感じて居たりもまたするものだ。

 

ところがさうした様を見て酷く心を傷付けられるのはむしろ善人の側なのだ。

故に還暦を過ぎてからむしろ其の人間の心の中に巣食う悪の部分と否応無く対峙することとなった。

 

 

悪、つまりは👿であり悪人としての心の本性のことだ。

自らには其れが欠けて居るが故にさうしてむしろこんな爺さんになってから其れに就き悩むのであらう。

 

其れに付けても人間は…人間とは罪深いものなのですね。

人間の心が罪深いものだからこそ宗教が生まれたのだ。

 

また文學を始めとする藝術の世界は其れを飽きもせず表し描くのであらう。

 

さうして映画の中で平然とユダヤ人を射殺するナチスの将校が…。

さうして平気でもって人のことを悪く言うむしろ普通の人人が…。

 

かうして人間が抱え持つ其の悪の根拠は常に根深く隠されて居ることだらう。

 

 

『もしも愚者がみずから愚と考えれば、すなわち賢者であるー自分は正しいという考えから離れてみるー』1日1話 マンガでわかるブッダの教えより

 

無知の知」ソークラテース

 

さて其の種の知性による反省が出来る人は無論のことより少数派であらう。

個人的には自らの愚かさに気付くと云う点では不完全で人間存在の愚かさに気付くと云う点でおそらく可成の部分まで行って居るのであらう。

 

ですがそんなわたくしでも謙虚さは常に持ち合わせて居てよって意外に見えることかもしれないが我は人の意見を聞くのが得意なのだ。

まさに其れは他己としての實存なり意見なりを尊重して居るからだ。

 

但し「自分は正しい」と云う考えからは離れられて居ない。

何故なら其れなりの努力を積み重ねかうしてやって来て居るからだ。

 

其の文人としての眼差しでもって長きに亘り世を見詰め自らの考え方を磨き続けて来た。

だから「自分は正しい」と云う考えからは特に離れにくい人間のタイプなのだらう。

 

 

1.自分は正しい⇔他人も正しい

2.自分は正しい⇔他人が邪

 

個人的には此の弐種の命題が成立して居りなるべく1.のパターンの方で理解して行きたいとさう願う者である。

但し現實的には2.のケースの方が多いやうだ。

 

尚我に取り正しいと思える他人とはつまりは理性の感じられる人だと云うことだ。

理性とは母性でも無く親愛の情なのでも無い。

 

個としてまた世界として置かれた状況を理解し其れに対し自ら挑んで行く人であればまず理解されると云うかさらに尊敬まで出来る。

特に嫌いな人間のタイプが自らの頭では考えず情に流され易く陰ではコソコソと人の悪口を言うやうな非理性的なタイプの人間だ。

 

彼がどう現實を纏め上げて居やうと例えば夢想家でもって世に対しまた人間に対し批判的な友が居ればわたくしは其の友をこそ支持することだらう。

要するに僕は理性としてのレヴェルの低いところを常にうろつくやうな人間が兎に角好きでは無い。

 

故にわたくしに取り他を認めると云う事はレヴェルの高い知性の持ち主であるかと云うことにまずは掛かって居る。

が、特に高い知性の持ち主では無くとも人の好い人即ち善人のタイプの方は大抵の場合我とはウマが合うやうだ。

 

そんな訳で「瞋り」を全て抑え込むのでは無く正しく怒り且つ正しく他を認めるべきであり同時に悪い形での怒りの持ち主や程度の低い人間の認識を認めるべきでは無いと云うのが人間に就いての個人的な見解である。