17.認識の完成者に取り眞に必要なものとは何か
さてもオリムピックは、そも何の為に其れをやるのでせうか?
正直な話冷静になり熟考致しますとオリムピックをやりたがる非理性的文明なのだからこそかうして地球温暖化を引き起こし自滅への道をひたすらに走るのだともまた言えませう。
ですがあえて其の理性的見解を封印しアホとなりヘラヘラ笑いつつTV中継を視て居りますと感動だの根性だのが其処に感ぜられ結構面白い訳だ。
ですが百分の壱秒、弐秒の差でもって優劣を競い合うのはどう考えても異常な世界であり究極的には其れは要らぬ競争ー狂騒ー原理のことだ。
まずは近代オリムピック其のものの意義が實は何処にも無いのではないか。
確かにかの浅田 真央やまた羽生 結弦は武士でした。
ですがソコまで悲壮感を漂わせずとも、例えば伊藤 みどりや宇野や鍵山などはまた其れとは異なる職人技を持ち日本人体形でありしかも手足が短い。
要するに回転技にはむしろ日本人体形の方が向いて居らう。
即ち軽業師のことである。
軽業はかの中國人をはじめ韓國や日本などの東洋人が得意なので今後フィギュアスケートは東洋人の得意技となることであらう。
だが米國のブラウン選手はあえて四回転ジャンプを選択せず如何にも藝術的なフィギュアの滑りを披露し其れがむしろ完璧な演技であった。
つまりは評価の基準を何処に置くかと云うことで評価其れ自體が変わるのである。
ならば其れもまたオリムピックをやりたがる非理性的文明としての価値だと云う位に見て置くべきでそんなタダの軽業の世界が國や個の価値を全的に規定するなどとはまさか思わぬ方が良いのである。
かうして我は最近スポーツの世界に対し概して懐疑的である。
スポーツをやって居る暇があるのであればもっともっと文明が抱えて居る大問題に対し是非何とかして行くべきなのではないか。
其れもさうして樂しく超人技を視て居ると何やら人間は何でも出来そうに感じられて来る部分こそが壱番イケナイところであらう。
其れと矢張りと言うべきか価値ヒエラルキーを壱面的ー社會的ーに決め付けて仕舞うことなども良いことでは無い。
ーマズローは、最初の4つの欲求を欠乏欲求 (Deficiency-needs) 、自己実現の欲求を存在欲求 (Being-needs) としてまとめることもある。マズローは、欠乏欲求と存在欲求とを質的に異なるものと考えた。自己実現を果たした人は少なく、さらに自己超越に達する人は極めて少ない。数多くの人が階段を踏み外し、これまでその人にとって当然と思っていた事が当たり前でなくなるような状況に陥ってしまうとも述べている。
また、欠乏欲求を十分に満たした経験のある者は、欠乏欲求に対してある程度耐性を持つようになる。そして、成長欲求実現のため、欠乏欲求が満たされずとも活動できるようになるという(例:一部の宗教者や哲学者、慈善活動家など)。
晩年には、自己実現の欲求のさらに高次に「自己超越の欲求」があるとした[3]。ー自己実現理論 - Wikipediaより
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- 現実をより有効に知覚し、より快適な関係を保つ
- 自己、他者、自然に対する受容
- 自発性、素朴さ、自然さ
- 課題中心的
- プライバシーの欲求からの超越
- 文化と環境からの独立、能動的人間、自律性
- 認識が絶えず新鮮である
- 至高なものに触れる神秘的体験がある
- 共同社会感情
- 対人関係において心が広くて深い
- 民主主義的な性格構造
- 手段と目的、善悪の判断の区別
- 哲学的で悪意のないユーモアセンス
- 創造性
- 文化に組み込まれることに対する抵抗、文化の超越
マズローは晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それが、自己超越 (Self-transcendence) の段階である。 自己超越者 (Transcenders) の特徴は
- 「在ること」 (Being) の世界について、よく知っている
- 「在ること」 (Being) のレベルにおいて生きている
- 統合された意識を持つ
- 落ち着いていて、瞑想的な認知をする
- 深い洞察を得た経験が、今までにある
- 他者の不幸に罪悪感を抱く
- 創造的である
- 謙虚である
- 聡明である
- 多視点的な思考ができる
- 外見は普通である (Very normal on the outside)
マズローによると、このレベルに達している人は人口の2%ほどであり、子供でこの段階に達することは不可能である。 マズローは、自身が超越者だと考えた12人について調査し、この研究を深めた。ー自己実現理論 - Wikipediaより
さて其の自己実現性に関し我は11項目が該当しまた自己超越性に関し全項目が該当して居りました。-と自ら判断する限りに於いて-
即ちわたくしはむしろ其の自己超越 (Self-transcendence)への意欲が強くある人間なのやもしれない。
ところが、其れこそ外見はむしろ普通過ぎてまさか文人だとは思われぬ筈だ。
むしろ文哲などには弱い馬鹿だと見られ易いのやもしれぬ。
ですが、正直なところわたくしは特別製である可能性が高いです。
但し、「数多くの人が階段を踏み外し、これまでその人にとって当然と思っていた事が当たり前でなくなるような状況に陥ってしまう」人間なのでもある可能性もまた高いのです。
要するに境界層者とでも言えば良いのか、まさに壱歩間違うとドーンと何処かへ落ちて行く可能性もまたある訳です。
まあ其れも昔の文人や哲人、また宗教家や画家などにはむしろさうしたことが当たり前にあったことなのやもしれませんのですが。
尚其の「在ること」 (Being) の世界に関してのことこそが前回述べたところでの「非認知的認識」での認識のことでせう。
おそらく其れは認識としてはより高度なものと言えるのやもしれません。
ですが其れもあくまで分析的に認識の仕方を類型した上でのことでありつまりは科学的に規定すればさうなると云うことに過ぎない訳だ。
例えば禅を始めとする佛法に於ける認識はむしろさうした分析的類型を相対分別と言い表し嫌います。
個人的にわたくしはさうした佛法への理解力がある筈ですがむしろ近代以降の人文的価値ヒエラルキーの方に強く捉えられて居るので其の侭に佛法の説く眞理を生きて居る訳でも何でもありません。
但し方向性としては「常に人間を考える」視点を其れも否応なく持ち合わせて居る訳だ。
さて重要なことは我我個の認識には限りがあると云うことです。
即ち認識其のものがそも有限ですので其れは何を認識して居るかにより大きく幅が出るつまりは世界観に差が出ると云うことです。
其れでもってもしも常に例の認知的認識の範囲のみで生きて居ればおそらくは其処で自らの思考力が弱まりまさかわたくしの如くに言いたい放題を言う訳には行かなくなることだらう。
と云うことは僕がかうして何でも言えるのは常に自分の脳味噌でもって人間を外側から眺めて居るからなのだ。
なのでどうしても言うことが人とは違って来ます。
例えば「ウンコ、ウンコ」と良く僕は言いますが其れは常識的な大人がまさか言わぬ言葉でせう。
でもって僕はかうして還暦を過ぎてから少年の頃へと戻り余計に何でも言っちゃうやうになって来て居るのだらう。
であるからこそ其れは壱面では幸せな訳です。
要するに其の「自己實現」や「自己超越」の部分にのみ己が思考を使えるやうになったので確かに壱面では幸せです。
なのですが其れでも社會的束縛は受けざるを得ずよって其処で本質的に自由になった訳では無論のこと無い。
また「創造性」の面では僕は全くのところ満足などしては居ない。
正直もっともっと創造的に生きつまりは己が藝術の方を完遂させたいのだけれどこんな風に社會のあり方と向き合って居るうちは其れもほぼ夢物語です。
かうして結局は僕もまた其の近代社會と云う現象に強く捉えられて居り故にむしろひとつの精神と其の近代社會との闘争の過程を描き記すものこそが此処での内容なのだ。
其の結果として社會などもう捨てたとさう言うては居りますが現代人の認識を何とか直さうとしてかうしてあれこれと書いて居るのですからまさに其れは三島先生や石原先生とまるで同じことなのでもまたある。
ところで壱週間程前に我が思考内容をメモした紙を今見て居ります。
わたくしの場合常にかうしてピピッと考えが出て来ますのでボールペンだの鉛筆だの万年筆だのは兎に角必須のアイテムなのだ。
其れによりますれば「価値観其れ自體の相違に対し悩み苦しむ」ことこそが理性としての心の働きだとある。
また其れに対置する形で、「あくまで現實の上での不足や不備に対し悩み苦しむ」ことこそがケモノとしての心の働きであるのださうです。
まあ其処からしても「価値観其れ自體の相違に対し悩み苦しむ」などと云うことは壱種贅沢な悩みなのやもしれません。
どだいケモノは其の種の抽象的な問題に就き悩み苦しんだりはまさかせぬことだらう。
即ちケモノの悩み苦しみは常に具象的且つ現實的にこそ与えられしものだ。
例えば今日食うエサが何処にも無い。
♀にモテない。
またこんな寒い冬でとても寝られやせぬ。
其の♀にモテない悩み苦しみだけは人間界にもまた御座りませうが人間の場合は食い物は何処からか出て来るものなのですし布団もまたあるわでなかなか餓死したり凍死したりはせぬものだ。
なのですが、人間の場合はむしろ其の部分が満ち足りて居るにせよ「価値観其れ自體の相違に対し悩み苦しむ」訳なのでまた別次元での悲惨さが必ずや御座りますものです。
で、
其の弐種の悩み苦しみに対する我が回答が書き込まれて居り、其れによりますれば、
「他への意識の解体=自由の實現=自己本位」とあり、また、
「自意識の解体=隷属=他人本位」ともありました。
其れがどう云うことかと申せば、つまりはさうすれば人間は樂になるとさう申して居るのです。
もしも認識力が高くある人間であり其の故にむしろイヤなことばかりでしたら自己本位をやりますと樂になれる訳だ。
尚先日TVを視て居たところ物凄い生き方をする廿代か又は参拾代の夫婦のことをやって居たのです。
1.家で生活せず車をキャンピングカーに改造し其れでもって全國各地を経巡りつつ生活を営む
2.主に自炊するが腹が減れば店へと出向き美味いものを食う
3.収入はSNSなるものによる広告収入にて得る、むしろ会社員時代よりも収入が高い
其の放浪夫婦が福島県と愛知県の弐例として紹介されて居た。
まさに此れぞ「他への意識の解体=自由の實現=自己本位」としての生き方なのではないか。
されど別に誰に迷惑をかけるでも無く弐組とも夫婦仲が極めて良い訳だ。
夫婦仲が良いことは其処で最小単位での社會化に成功して居ると云うことです。
逆に認識力の貧しいケモノの状態で生きて行く限り「自意識の解体=隷属=他人本位」とならざるを得ぬので無論のことそんな自由はまさか得られぬ訳だ。
さて、此のことが社會に取り良いか悪いかはまた別の話として個人的には理性に取り悪い話では無いとさう思うのです。
しかれども我我が若い頃には其れは出来ない相談での生き方其のものでした。
其の意味では確かに多様な価値観が許される世の中となったのやもしれません。
理性的な意味での問題とは「あくまで現實の上での不足や不備に対し悩み苦しむ」ことから「自意識の解体=隷属=他人本位」に生きることでしか樂に生きられぬ状態へと人間を追い込むことでせう。
まさに其れが壱種の全体主義を形成する訳ですので特に「自己實現」や「自己超越」のタイプの思考を常とする人間にとって其れはあくまで拷問状態でしかあり得ぬ訳です。
然し其のこともまた人間の生まれ持った性質なり価値観なりにより変化することです。
例えば逆に「自意識の解体=隷属=他人本位」でもって生きることが生き甲斐となる人などもまた居る訳だ。
まあ其れをケモノだとさう断じて仕舞うのであれば我もまた如何にも口が悪い訳ですが。
でもって其の「自己實現」や「自己超越」のタイプの思考が得意な人にとってこんな可能性が残されて居ることが羨ましくも思えた訳だ。
つまりは初めて現代的に供される価値の可能性を其処に見た思いが致しました。
但し引き籠もり傾向の人にはなかなか其れも難しいことでせう。
なのですが、あくまで理論的には「自意識の解体=隷属=他人本位」をやり続けることよりも何らかの形でもって「他への意識の解体=自由の實現=自己本位」としての生き方を貫く方がまさに理性にとってはより望ましいものと思われる。
理性と言っても其れは科学的な意味での成果主義的な理性では無くあくまで人文的な意味での眞理探究の方へ向かう理性のことなのだが。
つまりは其れが「自己實現」や「自己超越」を目指さんが為の理性だと云うことです。
其のやうに此れ迄当たり前とされて来た社會のあり方を見詰め直す時に今来て居るのだと思う。
此れ迄当たり前とされて来た社會のあり方はほぼ社會の内部論理による搾取構造ー上下関係での価値ヒエラルキーによる洗脳構造ーに支えられて来て居る。
ところが其れをやり過ぎた為に大企業ですら壊れかけおまけに個としての生存権すらをも脅かされる時代へと突入しつつある。
そんな社會のあり方に対するまさに痛快な例を見た思いがしてむしろ羨望の眼差しにて其の放浪生活を視て居た我だった。
さて僕が今日こんなことを述べましたのは此の世の中にはおそらくは相当な知性を持ちながら世の価値観との齟齬に苦しむ人が壱定数居るものと思われるからなのです。
そんな人人は我以外にも必ずや居るのであらう。
問題はそんな認識の上部構造の部分でもって味わう精神的な苦難はまた図抜けても居ると云うことだ。
其の苦の領域に対し例えば釈迦はあくまで法の上での認識を説きキリストは神の認識をまた説いた訳だ。
おそらくはどちらでも救済は得られませうがことそんなデカい精神的な悩みを抱えた場合にも常に宗教は対応して居て呉れることだらう。
よって此の種の認識の地平を生きて行かざるを得ない人人に取りすでに壱般社會的に齎される価値はほとんど意味を持ち得なくもなるのである。
故に「他への意識の解体=自由の實現=自己本位」の原理とはあくまでさうした認識に対し我が設定してみた価値設定の壱例なのだ。
と云うことは其れ以下の認識力に対し設定した価値設定では無いのである。
では認識力にも上下関係を認めるのだな、其の価値ヒエラルキーとしての上下関係を。
いえ上下関係と云うよりはむしろ左右関係であり方向性の違いなのやもしれません。
左様に認知的認識と非認知的認識の違いとはあくまで方向性の違いなのやもしれません。
では放浪生活とはあえて其の非認知的認識を主体として生きることなので?
「自己實現」や「自己超越」の部分にのみ己が思考を使える者に取りあくまで其れは有効となる筈です。
但し其の場合には経済的自立が必須となる訳だ。
上の例では若くとも夫婦でもって其れを為し遂げて居る部分が凄い。
だが若いと認識が刹那的に欲望へと流される傾向がありほんたうに其処でもって「自己實現」や「自己超越」し得る高度な認識をして居るのかどうかがまた疑わしい訳だ。
アンタの場合むしろ其の点は大丈夫なのか?
…もうスッカリ大丈夫だね。
何故ならどう考えても其の「自己超越」の部分が百点になって仕舞うからなのだ。
と云うことは後は大金持ちのイチローなどから何とか壱億円を毟り取るだけなのかい?
ああまさにさうだよ。
僕に取って必要なのは此れ以上の認識力では無くタダの其の壱億円の金だけなのだ。
何だか下品な話だなあ。
何だか下品な話ですよ。
さても壱體何処が「精神」の探究を行うブログなのだ?
だから其の「精神」はすでに完成致して居ります。
其れが完成出来ましたのはまさに年の功だと云うこととなりませう。
年の功即ち半世紀余りにも亘る精神の苦闘の果ての成果であります。
じゃあ其れひょっとすると金メタル級のことではないの?
ひょっとせずとも其れは間違い無く金メタル級のことだ。
つまりは精神の金メタルのことだな。
さうか、其の金メタルが欲しいのか、どうだコレが其の金のメタルだぞよ。
でもそりゃあまるでウソのメタルだよ。
第壱君などに貰わずとも我が心にはちゃんと自らが生んだメタルが常に掛けられて居る。
まさに其れが此のプラチナのメタルだな。
ああー、今宵もかうしてプラチナのメタルがズッシリと重く我が心にのしかかっておる。
でも其れは勝利のメタルでは無くまさにおまえの苦悩の重さのことだらう?
…金輪際ちゃうわい。
其れも神佛が下賜されたプラチナのメタルのことを悪くお言いでない!
さて今夜はプラチナの万年筆でも是非使ってみやうかな。
さうプラチナの万年筆にはプラチナペン先の物が事實としてかうしてあるのだからして…。