目覚めよ!

文明批判と心の探求と

詩人は何故薄幸なのか?

ランボーから金子みすゞまで!「詩人」を描いたおすすめ映画

 

正直言へば自称の詩人のじぶんをも含めて詩人とは謂わば常にどうしやうもなひ奴の別称でありむしろ居なひ方が良ひ奴等ばかりです。

其の所謂詩的なタマシヒが常に放蕩と美への耽溺を強ひて来るのですから下らないこと此の上なくしかも心理的に不安定なこと此の上無し。

たとへば浪漫だの美だの、そんなものはもはやゲップが出る程に彼等は見詰めて来て居るのですからもはや要らなひ訳だ。

 

故に真の詩人とは詩を放棄し行動又は実利の方へと走るのだ。

 

アルチュール・ランボー 風の靴を履いた男

 

かように象徴派詩人アルチュール・ランボーはかって詩を放棄し行動へと走った。

 

しかも商人にさへならうとして居た。

 

どだい商人または商品と云ふものは其れは実利的なもの其のものでせう。

謂わば詩とは対極に位置する価値であり分野であることでせう。

 

ですからわたくしの場合も何かを売買するやうな世界にはまるで向ひて居らず其れでもって塾の先生になったのです。

塾の先生の方が商人や営業マンよりも偉ひと云ふことではなくさういふことしか出来なひボンクラだったので其処でもっていつも中間テスト対策だの期末テスト対策だのと云ふ資料などを作成して居たのである。

 

アルチュール・ランボーは貿易商としては少しは成功して居たのでせう。

然し詩は書けても生活力の無ひ彼が生活力を磨く為に闘って居たとはまさに皮肉な話である。

 

 

「7月10日、ヴェルレーヌは酔った勢いでランボーに向かって拳銃を2発発砲し、1発がランボーの左手首に当たった。ヴェルレーヌは逮捕され、ランボー弾丸摘出のためにサン=ジャン病院に入院した。7月20日に退院したランボーは、ロッシュに戻って『地獄の季節』の執筆に専念した。8月8日、ヴェルレーヌは2年の禁錮刑を受け、プチ=カルム、次いでモンス(ベルギー・ワロン地域)の刑務所収監された[23][24]。」アルチュール・ランボー#ブリュッセル事件より

 

此処からしても藝術家同士で共に生活するだの愛を育むだのと云ったことは是非止めておくべきだ。

藝術家は皆藝術の何たるかが分かり兎に角個性が強ひ故に其の強ひ個性がぶつかり合った場合の破壊力もまた凄まじひ。

 

 

ランボオ詩集 OEVRES D'ARTHUR RIMBAUD ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー Jean Nicolas Arthur Rimbaud 中原中也訳

 

 

  母音


Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは赤、母音たち、
おまへたちの穏密な誕生をいつの日か私は語らう。
A、眩ゆいやうな蠅たちの毛むくぢやらの黒い胸衣むなぎ
むごたらしい悪臭の周囲を飛びまはる、暗い入江。

E、蒸気や天幕テントのはたゝめき、誇りかに
槍の形をした氷塊、真白の諸王、繖形花顫動(さんけいくわせんどう)
I、緋色の布、飛散とばちつた血、怒りやまた
熱烈な悔悛に於けるみごとな笑ひ。

U、循環期、鮮緑の海の聖なる身慄ひ、
動物散在する牧養地の静けさ、錬金術
学者の額に刻み付けた皺の静けさ。

O、至上な喇叭(らつぱ)の異様にも突裂つんざく叫び、
人の世と天使の世界を貫く沈黙。
――その目紫の光を放つ、物の終末!
[#改ページ]

 

 

其の文字の色の羅列、まさに其れこそが共感覚者としての世界認識に他なりません。

即ち文字の違ひや数字の違ひが色の違ひとして識別出来るのです。

 

ちなみにわたくしも其の共感覚者の一人として今を生きて居ります。

わたくしの場合には数字により強く色を感じることが出来る。

以前ネット上で共感覚者テストと云ふものをしてみたところ、何と其処で「極めて強ひ共感覚の持ち主」として判定されて仕舞った。

 

ーたとへばA、E、I、U、Oであればそれぞれ赤、青か緑、黒、緑か靑、白に感ぜられる。

何故かランボーの感じた色とは違ひますが。ー

 

 

但しわたくしの場合には理性勝ちな故か自己反省力が強くある為自分の感覚がぶっ飛んだものであること位はむしろ少年時代から分かって居ました。

 

即ち人とは違ふ視点でもって何かを考へたり違ふ価値観でもって行動したりすることが基本的には得意でした。

 

即ち感覚又は思考其のものが狭ひところに留まらず謂わば全体論的にぶっ飛んでいくので常識的な尺度に合わせていくのが常に苦痛でした。

 

かと言って、見た目は常にまるで普通なのですがね。

 

 

ランボオのやうに若くして詩を捨て去り実質か又は現実を生きやうとしても、根本の部分が何せ共感覚者ですので最終的には其処でぶっ飛びつつも常識を生きると云ふ何か訳の分からぬ試練と云ふか地獄と云ふかそんなものにむしろ蝕まれ彼は長生きなど出来なかったのです。

 

でも詩人を続けて居たとしても彼が長生きをすることは元々無理だったのです。

 

第一詩と云ふものは、其れ即ち死のことです。

 

詩なんぞ書ひて暮らして居て何で長生きすることなどが出来ませうや?

 

詩は謂わば言語を色でみることであり、世界を身一身に即感じることであり、ひとつの宇宙を己が心に宿らせることであり、同時にあらゆるものを疑ひつつ心の中で創造と破壊を繰り返していくことです。

 

そんな不安定極まりなひまさに戦闘のことですので、無論のこと其れは常識人がやるやうなことではなくまさしく馬鹿がやることです。

 

馬鹿のやうに価値観が壊れてこそ初めて其処に詩神の祝福を受ける形で一篇の詩が成立するのだ。

 

 

其処に曰く、価値観の破壊と創造と。

此の振幅の激しひ内面的葛藤を詩人は生きざるを得ぬ。

 

だからそんなものは要らぬと言って言葉を捨て去るのが真の意味での詩人の生き様なのでせうが結局は其れでも長生きすることなど出来ぬ相談だ。

 

第一中原 中也、此の男も結局は早逝しまるで常識的な生き方などしては居なひ。

よりによって愛する者に次々と先立たれ巨大な愛の空白を抱えしまま冥途へと旅立つ、嗚呼、まさに其れしか出来ぬのが詩人の宿命だ。

 

そんなのはイヤだとイザ行動に走ればミューズからはソッポを向かれ元々体の弱ひ彼等は即死神の餌食となるのだった。

 

そんな訳で詩人でもって還暦まで生きること自体が極めて珍しひ。

 

 

 

さて、金子みすゞに就ひてはかって掲示板の方で論じたことがありました。

一言で言へば女であるだけに本能的に屈折した詩人です。

 

何故世間が此の詩人の詩を一時期持て囃して居たのか、其のことが逆にわたくしにとっての疑問だったのです。

尚、金子みすゞの作品に於ひては著作権の問題があり青空文庫の方には収録されて居りませぬ故以下でもって示すこととします。

 

 

金子みすゞの詩の分析~ 表現方法から読み取る ~

 

 

大漁

 

かうして人間界では大漁はいつも祭りなんですが、海の中の鰮の世界では逆に弔ひの日です。

即ち温暖化の原理、生態系への破壊の原理を当時すでに見切って居たと云ふことです。

 

或は精神の崩壊をも見切って居ります。

こんなものはまさか子供には教へられぬ。

 

人間の欲が如何に醜ひものであるかと云ふことが此処にズバリと語ってあります。

 

夕顔

 

星はすましてキラキラ光っていれば其れで良いんですがー無情のもの、物理的な存在として其れで良ひのだがー、命あるものは其れではまるで済まなひと云ふ一種の絶望感までもが滲み出て居る作品だ。

即ち植物であれ勿論寂しひ。

 

植物にも心はあり其の心よりすると生きて居ること自体がこんなに寂しひのだ。

生きると云ふことがこんなにも寂しく罪深きことであるとさう初めて謳われし詩で逆に言へば怖ろしくも寂しひ詩だ。

 

 

私と小鳥と鈴と

 

私は動物でもって小鳥も動物、でも鈴はタダの金属だ。

 

其れがみんなちがってみんないいのださうだ。

 

それぞれに役割の分担があるのでみんないいのだらうか。

 

が、人間の持つ能力の限度を指し示す作品でもまたある。

 

さうだ、人間は空など飛べぬ。

 

また鈴のやうに鳴れぬ。

 

其れがさも飛んだやうに見せかけて居るのは、また鳴って居るかのやうに見せかけて居るのは所詮其れは道具を使って其れを為して居るのだ。

 

つまり人間はじぶんではむしろ何も出来ぬ。

 

出来ぬので✈なりスズをつくり其れがさもさうやれて居るかのやうに見せかけて居る。

 

だから其処こそが人間のいやらしひところだ。

 

従ってわたくしの場合には其処で小鳥と鈴とは似て居るが人間だけはまるで別ものだと云ふ結論に至る。

 

即ちみんなちがって人間以外はみんないい。

 

 

 

 

其の打たれる土と踏まれる土が成果を齎すのは人間の価値観に於ひてのみ。

人間の価値観に於ひて成果を齎すことなど無ひ不要の土がむしろ名も無き草には役だって居る。

 

即ち価値としての本質的な相対性と人間の価値観の絶対化を此処に戒めて居る。

 

 

現代文明の抱へる諸問題を見詰めた場合に、此の大事な立場の相対性をいつの間にか忘れしてはならぬ価値の絶対化をあへて行ふ文明の姿こそが炙り出されて来やう。

また其処に固執する限りやがて人間には大事な価値さへもが見へて来なくなるのだ。

 

 

 

 

「こだまでしょうか」 金子みすゞ

 

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。

「ばか」っていうと
「ばか」っていう。

「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。

そうして、あとで
さみしくなって、

「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。

こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。
 
 

 

金子みすずの詩より

 

 

うーむ、何やら、怖ひ詩である。

同調圧力とまでは言へぬが確かに言葉には反復性があり、換言すれば其れは同質化の力のことなのだ。

 

また言霊と云ふ捉へ方もまたある。

 

コレは言語の持つ不可思議な物理的側面のことかと思われるがおそらくは其れを語ったものではなひ。

 

此処では其れがこだまでは無ひと云ふことこそが重要なのだ。

 

こだまなどでは無く心あるものー有情ーは其の語られた言葉にこそ同調して仕舞ふものなのだ。

 

 

たとへば「戦争しやう」と言ふと「イヤだ」とはなかなか言へずならばいっそのこと「戦争しやう」と云ふことになって仕舞ふ。

たとへば「バカ」と言われて「ハイ」とはなかなか言へずならばいっそのことおまへも「バカ」だとさう言ひたくもなる。

 

さてコレはこだまでせうか?

いいや、誰でも。

 

 

 

明るい方へ

明るい方へ 明るい方へ
一つの葉でも 陽のもるとこへ
やぶかげの草は。

明るい方へ 明るい方へ
はねはこげよと 灯のあるとこへ
夜とぶ虫は。

明るい方へ 明るい方へ
一分もひろく 日のさすとこへ
都会(まち)に住む子らは。

 

金子みすずの詩より

 

 

うーむ、何やら意味深な詩だ。

「はねはこげよと 灯のあるとこへ」現代文明も向かっていくと云ふことなのであらうか。

 

だとするとまさしくコレこそが自滅詩なのか?

 

 

 

不思議

私は不思議でたまらない、黒い雲からふる雨が、銀に光っていることが。

私は不思議でたまらない、青い桑の葉食べている、蚕(カイコ)が白くなることが。

私は不思議でたまらない、たれもいじらぬ夕顔が、ひとりでぱらりと開くのが。

私は不思議でたまらない、誰にきいても笑ってて、あたりまえだ、ということが。

 

 

金子みすずの詩より

 

 

うーむ、何やら不思議な詩だ。

尚かねてより私には不思議でたまらない、金子みすゞと云ふ詩人其の人が。

 

 

金子みすゞ 生涯

かように金子みすゞは所謂男運が悪く幸せにはなれなかった人である。

其の代わりに詩が書けたが現実的にはまさに薄幸で何と26歳で服毒自殺を遂げて居る。

 

 

但し其の詩は凄ひ、まさに本物だ。

金子みすゞの詩は普通世間で捉へられて居るやうな甘ひものでは無ひ。

 

少なくともわたくしにはさう捉へられ其れでいつも面白く其の詩を拝読させて頂くのだった。

 

 

そんな訳で◆『太陽と月に背いて』(1995)と ◆『みすゞ』(2001)をDVDにて是非視てみたひところだ。

其れに◆『太陽と月に背いて』の方はわたくしの好きなレオ様が何とかのランボーを演じておる!

 

コレはもう是が非とも視ずばなるまひ。