目覚めよ!

文明批判と心の探求と

コロナ禍に於ける谷川 俊太郎論

やさしさは愛じゃない       谷川 俊太郎

 

    やさしさしかなかったんだね、
 でもやさしさは愛じゃない、
 やさしさはぬるま湯、
 私はふやけてしまったよ。

 ひっぱたいてくれればよかったのに、
 怒り狂ってほしかったのに、
 殺してもよかったのに。

 あなたは私を誉めたたえてばかりいた、
 その眼鏡の奥のひんやりしたふたつの目で、
 男の、
 欲望の、
 きりのない、
 みのりのない、
 やさしさで。

 

 

 

今生きてる詩人でもってさうして天才詩人なのはおそらく谷川 俊太郎氏だけだらう。

だが谷川 俊太郎に此処尾張の哲學的気質が流れて居ることを知る人は少なひことだらう。



谷川  徹三

かうして父君の谷川 徹三氏は尾張の出の哲學者だった。

其れに君等は此処でわたくしの言説を視聞きしわたくしが其の哲學的気質の持ち主であることを何より知ったことだらう筈だ。




ーでもやさしさは愛じゃない、やさしさはぬるま湯、私はふやけてしまったよ。ー


やさしさはさうして愛じゃ無ひ。

甘やかされるとどうしてもいのちは弱くなる。

だが弱ひじぶんもまた必要だ。


とわたくしは現代文明との闘ひの中でいつしかさう考へて行った。

たとへばあんな太宰の弱さもまた必要だったのではなかったかしら。



ーやさしさしかなかったんだね、ー

何故なら生きる事自体が其の優しさの履行なのだ。


しかも其の優しさ自体が實は生きることを難しくして居る。

即ちさうなるべくして矛盾して居るのだ。



ーあなたは私を誉めたたえてばかりいた、ー

さうして現代文明は我我人間を褒め称へてばかりして来て居る。



ー眼鏡の奥のひんやりしたふたつの目ー即ち合理性に培われし目で只優しくさうして人間を見詰め続けて来たのだ。

でも其れは👨の欲望なんかじゃ無ひ。


さう其れは♀共の欲望其のものだったのさ。



ーひっぱたいてくれればよかったのに、怒り狂ってほしかったのに、殺してもよかったのに。ー


わたくしはいつもかうして引っ叩ひて来ましたよ、其れにいつも怒り狂っても居ますよ、また為政者をギロチンにかけろとか何とかもう滅茶苦茶を言っても来ましたよ。


でもさう云ふのがまさにほんたうの愛なんですよ。


畢竟愛とはそんな鞭のことなのだ。



為政者よさうして愛の名を借りた嘘をこくな。


愛もクソも無ひそんなみんなの派遣社員化を即刻止めよ。


GOTO地獄を即刻止めつひでにおまへらも皆辞め大企業の留保金を全部吐き出させろ。


また此の際かのICHIROへの課税が百億で、またかの大TOYOTAへの課税は百兆円程がまさに妥当なところだらう。



此の際文明には嘘の愛なんか要らぬ、

欲しひのはまさにほんたうの愛だけだ。


かの宮澤 賢治が欲しかったのはほんたうの愛で、

おまへら為政者の語るウソコキの愛などではあり得ぬ。



其れも金だけだ、金だけが欲しひ馬鹿者だらけだ。

おまへも金、オヒラも金、オリムピックも金、猫も杓子も結局は金だ。


おまけに地獄の沙汰までもが金、金、金だ。

生きても金、また死んでも所詮は金、金、金だ。



でも結局大TOYOTAは大金持ちでICHIROもまた大金持ちだ。

そんな資本主義に反対!


オリムピックに反対!

生ぬるひ嘘の愛に大反対!

文明其れ自体に大大反対!






あい          谷川 俊太郎


あい   口で言うのはかんたんだ

愛    文字で書くのもむずかしくない


あい   気持ちはだれでも知っている

愛    悲しいくらい好きになること


あい   いつまでもそばにいたいこと

愛    いつまでも生きて欲しいと願うこと


あい   それは愛ということばじゃない

愛    それは気持ちだけでもない


あい   はるかな過去を忘れないこと

愛    見えない未来を信じること


あい   くりかえしくりかえし考えること

愛    いのちをかけて生きること




もしもこんな風に愛とは命を賭けて生きることなのだとすれば、今の世界の為政者たちが命を賭け生きているとはまるで思はれぬのは其れは一体何故なのでせう?


かくして谷川 俊太郎氏の詩には常に人類全体、又は文明全体への眼差し=哲學的視点が存して居ることだらう。

なので彼の詩の言葉には何より人間に対する言葉としての普遍性が感じられる。


さうしてとても大きな言葉を我我に対し投げかけて呉れて居るのだらう。


 

あい(愛)――個人の立場や利害にとらわれず、広く身のまわりのものすべての存在価値を認め、最大限に尊重して行きたいという、人間本来の暖かな心情。ー「新明解国語辞典」よりー

 

 

其の愛は合理性では推し測れぬものだ。

よって現代社会は愛其れ自体を合理化してー合理化し虚的に変質させた上でー捉へて居る。


だから現代社会に於ける愛は左様に危うひものともなる。


其処では功利的で打算に満ちた愛が愛の名の下に繰り返されるばかりなのだ。


ーくりかえしくりかえし考えることー


さうして考へぬ人間は人間じゃ無ひ。

つまりは其れが獣なのだ。


 

 

生きる         谷川俊太郎 

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木漏れ日がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまがすぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ

 

 

 

ー僕は若いころから「生きる」ことと「生活する」ことを区別していました。人間にとっては生活よりも生きることの方が大事です。生活するということは、どうしても社会との関係で、給料をもらったりとか、人とつきあったりすることが必要でしょう? 生きるというのは、人間も哺乳類の一つとして、命をもった存在として、宇宙の中で生きるということ。自分が宇宙の中の存在であると同時に、人間社会の中の存在であるという二重性がある。詩を書くときはその両方をちゃんと持っていなきゃいけない。ー谷川俊太郎さんが「よくできた詩とは思っていない」と言う代表作「生きる」は、なぜ愛され続けるのか?より


確かに「生きる」ことと「生活する」ことは違ひます。

わたくしの場合はずっと「生きる」ことには真摯に向き合ひ逆に「生活する」ことには至って淡泊でした。


其の様やまさに半分ルンペンのやうなものでせうが何故か命を生きて来たと云ふ實感にだけは溢れております。

どだひ給料を其れも高給を貰ふ人がそんなに偉ひのですか?


まさに社会関係がさうした価値ヒエラルキーを組み上げて行くことだらう。

其の価値ヒエラルキーに順応すればする程に逆に「生きる」ことに対しては不感症とならざるを得ぬ。


左様に人間社会と云ふものが根本的な大問題であり我我にとっての根源的な地獄其のものなのだ。


また仰るやうに詩を書く時は其の両方を持って居ることこそが望ましひ訳ですがおそらく其れは天才詩人以外には誰も出来なひことでせう。

尚わたくしの場合は何かを書く時には常に社会を否定しつつ書ひて居ります。


また其れは「生きる」ことの視点からでなければ何も書けぬと云ふことです。



ー「死ぬ」ということを含み込まない「生きる」は、インチキだと思っています。ー谷川俊太郎さんが「よくできた詩とは思っていない」と言う代表作「生きる」は、なぜ愛され続けるのか?より


独逸の哲學者ハイデガーはかって死を前提とした生をこそ考へましたがまさにさうしたことなのでせう。

他方で戦後の現代社会が陥った価値観の最大の誤りは其の「死」を見詰めぬ「生」のあり方にこそある。


其処が「生」ばかり、まさに生ぬるひ嘘の愛ばかりで人間をおだて上げ「死んで生きる」ことの意義をスッカリ忘れて仕舞った部分にこそ其の誤りが生じて居ることだらう。


其の嘘の愛とは畢竟子宮の欲望でせう。


では子宮が全部悪ひのか否か?

との疑問が其処に生じませうが所詮は我我ー概念分別其れ自体ーも其の子宮が産み落とせしものだ。


かくてインチキ世界を生み出したのはまさに其の子宮ですが、子宮への恋慕即ちー偽りの?ー愛を語り其れに繋ぎ止めるのもまた其の子宮としての役割なのです。

ですがほんたうの愛とはむしろ其の愛の死をも見詰めて行くことです。



ーこの詩がなぜポピュラーになったのかについて、自分なりの分析はあるんですよ。評論家の加藤周一さんが『日本文化における時間と空間』(岩波書店)で、「いま・ここ」というのは日本人の感性の基本だと書いています。必ずしも肯定的に評価しているわけではないのですが。この詩では、「生きているということ」だけじゃなくて、「いま」とついていることがミソなんじゃないかな。

 ウォーコップというイギリスの哲学者は、生きることを「生きる挙動:living behaviour」と「死を回避する挙動:death-avoiding behaviour」の二つに分けています。僕には、現代人の行動のほとんどは死を回避する挙動ばかりに見える。「生きる挙動」というのは内部からわいてくるエネルギーみたいなもので、こっちのほうが大事だと思う。この絵本は、死を回避するほうではなくて、生きる挙動について書いている。ー谷川俊太郎さんが「よくできた詩とは思っていない」と言う代表作「生きる」は、なぜ愛され続けるのか?より


其の日本文化における「いま・ここ」とは所謂現世利益主義のことでたとへば禅が語るところでのやうな観念を滅したところでの精神性としての「いま・ここ」では無ひことでせう。

 

生への衝動は元々生命には普遍的に存在するものですが、人間に於ける生への衝動は抽象化されたものであるが故に逆に抑へねばならぬことを説ひたのが佛教でありキリスト教です。


抽象化された生への衝動には其の対概念としての抽象化されたところでの不死への衝動=死への忌避の欲望が大きく生じて行く筈です。


我我現代人はそんな抽象化された不死への願望におそらくは捉へられて仕舞って居ることでせう。


ですがまさに其れはバランスを欠ひた死への願望なのではなひか。



対して藝術とは事の善し悪しを論ずる場では無く其れ以前での根源的な人間の心が描く色調のやうなものを只其の侭に述べるもののことだとわたくしは捉へる。


故に藝術では生も死も其れは平等な存在でどちらがより望ましひと云ふ訳でも無く従って古来様々な藝術に於ひて生と死が描かれまた其れが論じられても来ました。


わたくし個人はあくまでさうした観点から生死を捉へて居るので其処では特に生のエネルギーのやうなものを信奉して居る訳では無ひ。



ー書いているときは信じざるを得なくて、でも詩の中ではさんざん言葉を疑い、詩を疑っています。そのダイナミクスがいいんじゃないか。詩に限らず、100%信じるということはなくて、どんなことでも、たとえ90%は信じても、10%は疑う。ー谷川俊太郎さんが「よくできた詩とは思っていない」と言う代表作「生きる」は、なぜ愛され続けるのか?より


疑ふことこそが理性の働きであり人文的には其れが哲學的な思考として其処に規定されやう筈だ。


元より言葉は百パーセント信ずべきものでは無くさうして完璧に書けたかの如き詩も場合により古めかしく思へたりで絶対のものにはなり得ません。

でも其の詩をも含めた詩人の生き方こそが絶対のものにもなり得るのではなからうか。

さうした意味での谷川 俊太郎氏御自身の生き方こそがおそらくは絶対的となり得るものなのだらう。



ー詩はどんどん売れなくなってきている。ー谷川俊太郎さんが「よくできた詩とは思っていない」と言う代表作「生きる」は、なぜ愛され続けるのか?より


其の売れなひ中で加島 祥造先生ーわたくしにとっての心の師匠ーは「求めない」を売り切りベストセラーとかってなされたのです。


だから其の折に加島 祥造先生は谷川先生以上に偉かったことだらう。



だが元より此の「生きる」と云ふ詩はたとへば国語の教科書にも載る程の立派な詩である。

わたくしは今でも酷く心が傷つひた時に或は深く社会に対し絶望した時に此の詩を読むことにして居る。



尚個人的に此の「生きる」と云ふ詩は何処かしら精神の健全さを感じさせられる詩です。

さうしてまさに疑ふ詩人でもある谷川先生の作品の割にはあくまで人間と申しますか生のエネルギーを信じて居て其処がまるで反体制的では無ひのです。


でも宮澤 賢治などもまたさうなのですが部分的には酷く反体制的でもある訳だ。ー事實宮澤 賢治もさうして社会主義運動の理解者であった訳だー


谷川先生の作品には哲學的な反抗のやうなものが感ぜられるのだがさうかと云って三島先生の如くに最終的に思想に走っちゃう訳なのでもまた無ひ。


尚わたくしは以前から谷川 俊太郎の詩は至極健全なものだとさう感じて居りました。


其処では言葉としての屈折度の大きさや宇宙的な深みはあるのですが何処か教科書に似合ふ詩であることこそが全くのところ不思議な部分です。




ー人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということー


たとへばかう来られるともう人間は此処で善なる者としてある種神聖化されても行く訳です。


其のいのちへの疑問を多分に持って居られる方なのでせうに其の方が書かれる詩がかうして完結すると途端に良ひ人になって仕舞ふ訳だ。

全くほんたうは👽なのに良ひ人となるのだらう。



ーすべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむことー


ですがそんな風に隠された悪はあるのだとさうも仰る。


さうして悪はあり、其れは我我を常につけ狙って居ます。

いざそんな悪にやられて仕舞へば或は美しいものに出会ふことも叶はぬのやもしれぬ。


尚わたくし自身もまた美しいものに出会ふ為にこそ悪を拒みたひ人間なのですがね。



また個人的には時代の雰囲気と云ふものが詩や小説また絵画や音楽などの作品には投影されるものだと見て居ます。


「生きる」が書かれた当時ーおそらくは1960年代後半ーは時代其のものが今よりもずっと純粋だったのだとさうも申せませう。


今は逆に藝術が成立する余地さへ残されて居なひかのやうな大変な時代です。


藝術どころでは無くもう皆が食って行くだけでアップアップです。



尤も田舎は以前から経済的には苦しく、逆に都会が其の苦しさに追ひつひたと云ふ感じでせうか。

或は逆に都会こそが追い詰められており、であるからこそ文化もクソもまた無ひやうな感じでせうか。


ヤッパリ今は田舎の方が遥かに幸せでせうね。

其処からも是非田舎に住み詩を書ひて暮らしたひところなのですがまあ其れもあくまで夢でしかなひ訳だ。



ーあまり世間の評価に流されないほうがいい。わたしはこれが好き、というのがいいと思います。ー谷川俊太郎さんが「よくできた詩とは思っていない」と言う代表作「生きる」は、なぜ愛され続けるのか?より


わたくしはコレだけが好きだ、若しくはココだけが好きです。


まさに其れで良ひのである。

其の其れだけが好きで他は全部嫌ひです。


まさに其れが詩の精神としての発露であらう。




 

うんこ        谷川 俊太郎

 

 

ごきぶりのうんこは

ちいさい

 

ぞうの うんこは

おおきい

 

うんこというものは いろいろな かたちを している

 

いしのような

うんこ

 

わらのような

うんこ

 

うんこというものは いろいろな いろをしている

 

うんこというものは くさや きを そだてる

 

うんこというものを たべるむしも いる

 

どんなうつくしいひとの うんこも くさい

 

どんな えらい ひとも うんこを する

 

うんこよ きょうも げんきに でてこい

 

傑作のうんこ絵本!谷川俊太郎の詩「うんこ」より



 

しんでくれた        谷川 俊太郎



うし

 

しんでくれた ぼくのために

 

そいではんばーぐになった

 

ありがとう うし

 

ほんとはね

ぶたもしんでくれてる

 

にわとりも それから

 

いわしやさんまやさけやあさりや

いっぱいしんでくれてる

 

ぼくはしんでやれない

 

だれもぼくをたべないから

 

それに もししんだら

 

おかあさんがなく

 

おとうさんがなく

 

おばあちゃんも

 

いもうとも

 

だからぼくはいきる

 

うしのぶん ぶたのぶん

しんでくれたいきもののぶん

 

ぜんぶ

 

 

谷川俊太郎さんの詩。命をいただくことの意味を伝える絵本「しんでくれた」より




どうだ、かうして二篇ともがまさに素晴らしひ詩ではなひか。


其のウンコこそが生きる上でのまさに一番大事なことでせう。


何故ならウンコが出ぬとやがては死んじゃうのではなからうか。

だからウンコにつき述べることとは至極眞面目な視点でもって生を語るー眞正面から生と向き合ふーことなのだ。



だからブバッとウンコが確りと出るやうにみんなでもって祈りませう。



どんなうつくしいひとの うんこも くさい


なる程、さうですか。

貴方の妻のウンコもさうして至極臭ひ訳だな。




「しんでくれた」と云ふ詩もまた眞正面から生と向き合った作品です。


其れももうほとんど宗教的なレヴェルでのものだらう。


で、今改めて思ひまするにさうして牛や豚や鶏などを我我は日々食ひまくって来ましたがもうほとんど其れは慣れっこになって居り其処で「成佛しろよ」などとはもはやまるで思へません。


實はまさに其処こそが人間の陥った病の部分なのだらうがたとへば三ツ星レストランにて食事中にイキナリ其れを言い始めますとまさに其れはキチガヒだとさう思はれるばかりでせう。


其れもほんたうは犠牲になった命に対し感謝も捧げずにさうして美味ひものばかりをたらふく食ってる人間ー其れも多くは金持ちのーの方が明らかにキチガヒなのですがね。



だから其の価値観がそも狂って居るので都会全体での価値観がかうして狂ひ其の事により自然とのバランスを欠きコロナ禍だの地球温暖化だのになって居るのです。


なんですが其れはもはや藝術の世界からでしか指摘することなど出来ません。


何より社会の価値がさう虚的、狂的に組み上がって居ますのでまさに詩人位でなひと其のオカシヒのを指摘することなど出来ぬ訳だ。


大詩人としてのかの中原 中也などにもさうした酷く社会に対し批判的な詩が御座りますがわたくしは詩のほんたうの力とはそんな批判力にある筈だとさうも考へて居ります。



 

ーぼくはしんでやれない

 

だれもぼくをたべないからー

 

 

てな訳で人間は喰はれずとも良ひ訳だが實は其れはアンフェアーなことだ。

何故なら生命は基本的に平等な訳だから。

 

命の重さはさうして平等な訳だ。

ですが人間の社会は其れを特別化する。

 

第一キリスト教であれ佛教であれ元々人間は特別な存在だった訳だ。

 

だがどうも其の特別視の部分からこそ自然とのバランスを欠きコロナ禍だの地球温暖化だのになって居るのではなひだらうか。


逆に人間は特別に馬鹿だとさう考へて置く方がむしろ何かと楽だったのではなひか?


なんとなれば自然界の馬鹿は馬鹿に非ず。ー自然の枠内での無知は無知には当たらずー


だが抽象化されし人間の浅智恵ーほとんど🐵智恵のやうなものー程馬鹿なものは無ひ。



要するに我我から見ると明らかに🐵は馬鹿だ。


でも神佛から見ればまさに我我が其の🐒並に馬鹿なのだ。


でもわたくしたちが其の馬鹿を認めて居ればもっともっと自然界とのバランスは取れて居た筈だった。


で、我我がたとへば川を泳ぐと🐊に食はれる。


また我我が海を泳ぐと鮫に食はれる。


山へ行けば🐻にやられまた🐗にも突進されもう確實に死は眞近だ。


そんな様こそがまさにフェアーな自然界での掟なのであらう。



さらに森へ行くと🐅が出て来てやられた。

また家の近所などでも😸の大きひのは決して侮れぬぞ。


🐈のデカひのは物凄く強く本気で闘ふと大怪我をするぞ。


うはあ、😸だけではなく犬系、つまりは🐺もまた飛びかかって来た。


さうして何度でも🐺に喰はれてみよ。


おまへたち自身がさうして食はれ生の尊さ、命の重みを其処にて嚙み締めて置くが良ひ!!



 

ーだからぼくはいきる

 

うしのぶん ぶたのぶん

しんでくれたいきもののぶん

 

ぜんぶー

 

 

でもかうして「ぼくはいきる」とすれば其れは教科書に載る詩ともなる。

 

さうだ偉ひ!

ほんに此の子はサヒコーに偉ひ子だ。

 

さうして犠牲となりし命に感謝を捧げつつ生きる訳だから無論のことさうして食っても良ひ。

 

 

なのですが、もはや今此の詩は書けぬのではなからうか。

 

今はさうして最終的に人間を肯定し得ぬ時代なのだ。

 

今はね、まさに其の人間の悪者振りが際立って出て来て居る時代なのでもある。

 

其れもさうして何でも食ひやりたひ放題をやって来たのでいつの間にかこんなんなってます。

 

 

 


おまけにこんなコロナ禍でもオリムピックをやりひと儲けしたひやうな輩ばかりです。

第一詩人が今窮地に追ひ込まれて居ることかと存ずる。


其れも何も詩人ばかりでは無ひ、まさに藝術全体がコロナ苦に喘ひで居ることだらう。


かうして現代が抱へる問題はかっての時代が抱へた問題とはまるで異質である。


いや其の問題の根の部分は言はば同じなのだが問題の質がより深くしかも険しくなり襲ひかかって来ても居る。



今わたくしは人間其のものをかうして疑って来て居る。

其れは谷川先生や加島先生が通られた道なのでは無くまさに人間にとっての初めての道を歩んで行くかの如き新たな詩の領域だ。



第一我我は今まるでもって「求められ」はせぬ。

さうだ、すでに我我は「求めない」のでは無くそも「求められぬ」やうになった。


でもいまだに我我は食って寝てさうして👩を触り変はること無く生きて居たひ。


でも求められる部分がそも減っちゃった。


かうしていつしか我我は限定された。


さうだ、つまりは食はれた。


かうしてコロナウヒルスにこそ食はれたのだった。