さてわたくしはかうしてあくまで文學人間なのだ。
文學人間と一般人との違ひとは、所謂「現實」をフィクションとして見詰められるかどうかと云ふ違ひにこそあらう。
其のフィクショナルな現實と対峙しつつわたくしは此の半世紀余りを過ごして来た。
わたくしが詩を初めて書ひたのは12歳の頃、其れを其の頃暮らして居た一番北の部屋で書ひた。-建て替へたので今はもう無ひ部屋だ-
わたくしはまさに其の頃からすでに文學の内に捉へられて居た。
其の後に京大出の社会科の先生がわたくしの恩師となり其処で人間の社会に就き學んだ。
だが文學の方はあくまで自己のペースでもってやって来た。
誰から影響を受けた訳でも無く自分が読みたひものをかうして其の時々に読んで来た。
が勿論多くの作家からこれまでに影響を受けて来て居る。
無論のこと其処では芥川の鬼才だの、太宰の放埓だの、安吾のキチガヒ振りだのからの影響が一番大きかった。
ところが、わたくし自身は意外とさうした無軌道振りを好まぬ人間なのだ。
そんなキチガヒも心中も自決も實は好きでは無く、至極優しくまた至極大人しひところのある人間なのだ。
だからわたくしは元々マリモだとか植込みの椿だとかそんなものにさへなりたひ静かな人間なのだ。
元々そんな静謐さを纏ひ此の世に生まれ出て来て居り、なのだけれどもむしろ周りがさうでは無ひ故に其処に癇癪を起していつも怒って居ざるを得ぬやうなそんな人間なのだ。
なのでわたくしは其処が人とは違ふ。
確かに違ふのだけれども其れが人には分からなひ。
其の周囲との差のやうなもの、其の軋轢の様、まさに其の周囲との闘争の如きものがわたくし自身の文學でもまたあった訳だ。
ちなみにわたくしは高校生の頃に現代國語でのテストのお点が素晴らしく良かった。
勉強しなくても出来たのは其の現代國語ばかりなのだ。
其れは文學がわたくしにとって現代國語の御勉強では無かったことをさへ指し示して居る。
つまりは現代國語でのテストのお点がズバ抜けて居ることなどはどーでも宜しひことでわたくしにとっての苦悩を生きることこそがわたくしにとっての文學の全てだったのだ。
さうかうするうち高校生の頃だったか、其れとも塾の先生の頃だったか、一冊の本に出遇ひ其れを熱心に読んだことを今も覚へて居る。
其れがこんな本である。夏目漱石『文鳥・夢十夜・永日小品』の感想
中学、高校と太宰の放埓と芥川の鬼才にやられたわたくしは其処でもう半分ばかり頭が壊れて居た。
なのでわたくしは高校生の頃に岩波の芥川 龍之介全集をローンを組んで買ひ、それでもってすでに高校生の癖に小学生の家庭教師ー登校拒否児のーをして其の代金を支払って居たものだった。
芥川 龍之介全集は其の頃其のほぼ全てを読んだ。
廿代の頃にはさうした文豪の小説では無くむしろ科学雑誌やSF小説、さらに現代詩手帖だのリルケやタゴールを読み込みマラルメの研究にも勤しんで居たものだ。-マラルメは正文館にて専門書を買ひ込みさうしてやって居た-
そんな折にむしろ一番好きな作品だったのが此の漱石による「永日小品」だったのだ。
「永日小品」はまさに詩のやうな短編作品だ。
詩とは何か?
詩とは日常である。
わたくしにとって一番難解でもって理解し難ひもの、まさに其れが日常である。
尤も日常とは普通詩では無ひ何かである。
さうして矛盾に充ち生臭く獣臭に満ちた何かである。
だがわたくし自身に限れば常にそんな詩の領域を生きて居る訳だ。
だからまるでもって分からなひ、何故人々はそんな世界をあへて生きて居るのだらう?
だからわたくしにとっての詩とは所謂詩の作品のことでは無ひのだ。
むしろ日常が、其の如何にも煩はしく獣としてのエネルギーに満ちた悪の世界のことをまさにさう云ふのだ。
かうして自分にとっての不可知の領域こそが詩其のものなのだ。
生と死がさうして聖と俗がさうして常にゴタマゼとされさらに煮詰められて居るかの如き猥雑な世界こそが。
此れは一種無意識の領域にまで響くかのやうな幻想的な作風が高く評価されて居ることなのだらう。
だが果たして其処に作為は感じられぬものだらうか。
いつしかわたくしは其の文學に於ける作為を否定的にも見詰め始めた。
尚現在我が國を代表する詩人である谷川 俊太郎氏はかっての奥様より「👽=宇宙人」だとさう呼ばれて居たさうだ。
其の谷川 俊太郎氏がかって述べて居たことがあった。
「日常こそが私にとっての不可解なことだ」と云ふやうなことをかって氏は述べられて居たものだった。
今わたくしは其の言葉にこそ同調したひ。
おそらくは今其の日常が壊れ始めて何かが剝げ落ちて居ることかと思ふ。
でも其の何かとはおそらく大事なことだった筈だ。
其の何かとは所詮洗脳のことであったのかもしれなひのだが。
其の日常性とは「みんなで行くのは其れは正しひ」と云ふ洗脳であった可能性がおそらくは高ひことだらう。
でも「みんなで行くのは其れは正しひ」と云ふ洗脳は間違って居るが故に其れは長続きしなかった。
ある人「こんな世の中でわたしたち、どうしていったらいいんでしょう」
谷川氏「ひとり。ひとり自分の信じることをコツコツつづけることだと思うよ」谷川俊太郎 朗読 「どうして、世界はこんなにも〇〇なのですか?」より
「みんなで行くのは其れは正しひ」はかうして正しくは無ひ。
尚わたくしは今此処で其の洗脳の無価値を即ち日常の無価値を説ひて居る訳では無ひ。
逆に其の洗脳の有難味のことを述べて居るのだ。
所謂当たり前の日々への「感謝」のことにつき述べて居るのだ。
「感謝」とはまさしく其の馬鹿への感謝である。
人間が其の馬鹿であることへの感謝なのだ。
逆に頭が良ひと、馬鹿を馬鹿として蔑んで居たりもするものだ。
だが日常とはまさに其の馬鹿な洗脳のことなのだらう。
何故ならお利口は、其の菩薩の智慧とは、所詮は生を前提とはしなひ智慧によるものなのだ。
逆に馬鹿こそがかうして地を這いつくばりつつ生きて行くのだ。
お利口は即ち眞の意味での理性は皆生きては居なひ。
どだひお釈迦様=佛陀は決して現象などせぬ。
どだひイエス様は神の國へと行かれて仕舞ひ此の世には居らぬ。
嗚呼、かうしていつしか此の世は馬鹿の巣窟とならざるを得ぬ。
さうだお釈迦様もイエス様もとっくの昔に此の世には居られなんだ!
左様にお利口な者程馬鹿な洗脳即ち日常に対し感謝の念を捧げなければならぬことだらう。
「永日小品」にはそんな日常へのアムビバレントな視点が或は織り込まれて居るやうにも思はれる。
生としての一コマを愛しつつ且つ生としての一コマに疑惑と哀しみを感じつつありの侭に其れを見る漱石の視座が其処に何より感ぜられるのだ。
であるからこそわたくしは此の「永日小品」をこそ今も高く評価する。永日小品 夏目 漱石
或はわたくしが目指したひ文學的境地もまさに其処にこそあるのではなからうか。
夏目漱石の隠れた名作を読む 「永日小品」を中心に漱石短篇を読む
勿論學者の中にもかうした試みがまたあらう。
かうして「永日小品」は屡退屈だと評される作品なのでもある。
だが今たとへばわたくしは其の「退屈」な日常のことをこそ書きたひ。
其れは不穏なる夜の虹の彼方より押し寄せる椿事などでは無く平凡な夜のことである。
さうした平凡に繰り返される朝と晩に感ずる感懐をこそまさに永遠のものとして此処に書き記して行きたひ。
たとへば寒椿のことなどを是非書きたひ。寒椿(カンツバキ)の花言葉|見頃の季節は?意味や種類、花の色は?
かうして今我が家の庭には白ひ寒椿の花がところどころに咲ひて居る。
夜になれば其の花の香りをわたくしは好んで嗅ひで居たりもする。
よりにより椿の花の香りを?
さう、其の椿の花の香りを。
元より椿の花には弱ひ芳香がある。
風雅とは其の幽かな芳香にこそ酔ひ痴れることをこそ言ふ。
まさに其れが冬の香水の如くなのだ。
そんな冬の香水の香りが獣共と闘ふわたくしの心をかうして癒して呉れる。
でもコロナで鼻が麻痺し折角のそんな🌸の香りが分かりませぬが…。
もう其れは🏥へ行け。
其れは文學では治せぬ、即刻コロナの検査を受けよ。
では獣がコロナ感染を引き起こして居るのですか?
さうだ、獣が此の世界を破滅の渦の中に引き込んで御座る。
獣とは誰ですか?
じゃあお聞きしますが、みんなでもって近代的に大戦争や大虐殺をやって来たのは一体誰のせひですか?
…。
それみよ、答へられぬだらう。
其れと同じことで、獣とは謂はば人間全体のことなので其処に善を規定することなど元々出来ぬのだ。
また其れは其処でもって佛教だけはまたキリスト教だけは善であったとも言へぬことなのだ。
獣とはズバリ社会其れ自体のことですか?
社会とはな、要するに👩の腹の中のことだ。
👩の腹の中が實現したのが此の世での全てのことだ。
すると此の世界とはぜんぶが♀のことだったのですか?
まあさうだ、👩の腹の中のことなので基本的に其れは穢れても居らう。
なのだが世界には必ずや二面性があるので♀と共に♂にもさうして分かれて居る。
だが♂はやり逃げするばかりで子を産むことなどは出来ぬ。
だが其の代はりにさうして釈迦とキリストが生まれてもおる。
つまりは釈迦とキリストもまた♀の腹の中から生まれたのですか?
さうだ、ロボットやアンドロイドからはまさか生まれたりはしておらぬ。
そんな獣ー👩の腹の中ーと日々闘ふのは退屈な日常などではあり得ぬ。
まさに非日常としての戦闘だらう。
なのでおまへはまさに似非詩人であり似非文學者だな!
さうでは無ひ、退屈な日常こそがまさに其の闘争の世界なのだ。
寒椿の幽かなだが高貴な香りに酔ひ痴れる其のことこそが其の闘争の痕跡なのだ。
其の退屈な日常は、もう長く続ひて来た。
さう去年までは其れが続ひて来て居た。
でもわたくしは其処には危うさが潜んで居るとさう述べて来た。
其の危うさはかって生じ得ぬものだった。
だが今は其れが現實のものとなって居る。
退屈な日常は元より永続するものでは無ひ。
世界は容易に破壊へと其の闘争の果ての破壊へと決まって持ち込まれるのだ。
世界を包む子宮の其の分厚さと脆さと。
世界を包む子宮の其の分厚さと脆さとにより退屈な日常は元より永続するものでは無ひ。
母性はさうして常に乞ひ願ふ。
日々の平穏と夕べの祈りとを。
神にさうして佛に跪き我我は願ふ、其の日がな一日の無事を。
母性は然し気付けなひ。
其れも決して気付けはしなひ、
我我にとっての危機がいつか何処からか迫り来ることを。
寒椿の花の香りとは其の母性の象徴ですか?
然し其れを嗅ぎ取る嗅覚は常に男性原理の方です。
男性は常にさうして半分死んで生きて居る。
だが危機がそんな男性をして現實化させて仕舞ひがちだ。
事實男性は皆今金が無くて地蔵状態です。
其れは男性の總地蔵化のことですか?
おおまさに男性の總地蔵化のことでせう。
何で👩共は地蔵をやらなくても良ひのですか?
其れはまさに世界其のものが子宮の中身だからなのだ。
ー地蔵菩薩(じぞうぼさつ)は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。
サンスクリット語ではクシティガルバ(क्षितिघर्भ [Kṣitigarbha])と言う[1]。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」としている。また持地、妙憧、無辺心とも訳される。三昧耶形は如意宝珠と幢幡(竿の先に吹き流しを付けた荘厳具)、錫杖。種字は ह (カ、ha)。
大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々を、その無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる。ー地蔵菩薩より
ゲエッ、ーガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」としているーのださうな。
其れも何だか知らなひが矢張り女の腹の中身と深ひ関はりがあった訳だ。
つまりお地蔵さんとはまさにお子宮さんだと云ふことなのであった。
矢張りと云ふべきか詩人の直観は今回もまた当たって居た訳だな。
ー日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。ー#日本における地蔵信仰より
なる程、極楽往生出来ぬ衆生が地獄の責め苦から救はれる為にこそお地蔵さんつまりお子宮さんが居る訳だ。
すると「胎内」「子宮」とは矢張り命の母としての救ひのことではありませぬか。
此の際観念の矢を折り胎蔵界曼荼羅の方へ是非入られては如何か?
いやすんなりと其処へは入れません。
第一所詮👩は馬鹿ですし気付きの力にも欠けて居りませう。
要するに其れは退屈な日常其のもののことでせう。
其の日常が永遠のものだと何故かカン違ひしつつさう信じ込んで居る誤った信仰の持ち主共のことでせう。
では其の「胎内」「子宮」とは此の罪深き世の中への産道の意なのですね?
此処での胎内くぐりを廿年程前にして参りました。
でも今はコロナの故出来るのかどうか其れは分かりません。
さうして男性が總地蔵化したとして果たして世はどうなりませうや?
其れはもう誰も知りません。
第一こんな師走にこんなことを書ひてること自体がバカらしくも意味の無ひことです。
只、文明はまさに今後混迷の度を深め次第に崩壊して行く虞が大きく出て参りました。
で、来年はもっと文藝化し出来たら花鳥風月のことを語らう、もっと発言をマイルド化し親戚縁者一同にも視て貰へる安全で且つ安心な場を創らうとさう考へても居りましたが逆により過激にならねば此の世の動きには対抗出来ぬ可能性が高くなりつつもある。
全くのところ困ったものです。
困ったものですが、にも関わらず誰しも生きて行かねばならぬ訳です。
ひょっとして此処の全てを其の「永日小品」化しやうとさう目論んで居たのですね?
まさに其の通りだ。
でもって社会又は文明からは逃げまくらうとさう思ってました。
ですが、どうも其れでは國語の授業となって仕舞ひ文明とはまるで闘へません。
文明と闘ふには批判力が何より必要で矢張りと云ふべきか其れは社会科での課題でせう。
男性の總地蔵化に反対!!
なのでまずは此のことを声高に叫んで行かねばなるまひ。